文字数 2,647文字

 目をとじて37度のシャワーをあびつづけた。夕立にうなだれ、暗闇に立ちすくむように。もしケイタイの着メロに気づかなかったら、あたしは一時間でもそうしていたかもしれない。
 電話は公衆電話からだった。切るか、話すか、考えた。きょうはもう、不毛のやりとりをする元気はない。でも今夜はケイタイの電源を切るわけにもいかない。あたしはタオルを胸にまいて、台所のイスに腰をおろした。
〈はい〉
〈〝ハイ〟じゃねえだろ。なんで電源切るんだよ。なんど掛けてもつながらねえし。いまどこだよ〉
 幹也は一方的にがなりたてた。あたしは濡れた髪のまま黙ってきいていた。
〈もしもし、ケイ、切るなよ。おまえに掛けようと思って、くそ公衆電話をさがしまくったんだからな。しってるか、公衆電話なんて、もうどこにもねえんだぞ。小銭もねえし、まったく、どうなってんだ、くそ!〉
〈幹也、落ちついてきいて。きょうは、ほんとうにたいへんだったの。ママの件、あなたもしってるでしょう〉
 こんどはだんまり。
〈あたしも警察に呼ばれて、いろいろ訊かれて、だから今夜はもう……〉
〈なにを訊かれたんだ〉
〈えっ〉
〈だから、警察になにを訊かれたんだ〉
〈だから、トイチの客のことよ。誰に貸していたかとか、トラブルはなかったかとか〉
〈話したのか〉
〈話すもなにも、あたしはその件はしらない──〉
 あたしは言葉をきり、ケイタイにかかる髪をはらった。
〈あんた、まさか、ママからもおカネ借りてたの〉
 幹也はなにか言ったが、よく聞き取れない。
〈もしもし、なに?〉
〈おまえのせいだ〉
〈あたしのせい!〉
〈そうだ、ぜんぶおまえのせいだ。おまえがカネ貸さねえから。言っただろう、ヤバいスジに借金があるって〉
〈あたしに、どうしろって言うの。おカネなんて、ないわよ〉
〈だから、あるだけでいいんだ──〉
 ピンポーン──
〈ちょっと待って。誰かきた〉
 あたしはケイタイをつないだまま、裸足でみたきにおりると、息をとめてドアスコープをのぞいた。木田刑事と鯵坂刑事が立っていた。
〈もしもし、刑事さんがきたから、切るわよ〉
〈オイ、俺のことは黙ってろよ。ぜったい話すなよ。あとで電話する〉
 あたしはケイタイを切ってドアをあけた。

「夜分に……」と言いかけて、木田刑事は、くるりと背をむけた。
 そうだった。あたしはタオル一枚だった。ゴメンなさい。チョット待ってと言ってドアをしめ、部屋着のTシャツに着替えて、頭にタオルを巻いた。
「さきほど、立川の交番に、ルファ・マンザノ──」鯵坂刑事は、ここで手帳に目をおとしてつづけた。「タバタさんが出頭しました。あなたがそうするようにすすめたと」
 あたしは台所のテーブルに麦茶をおきながらうなずいた。あいにくイスはふたつしかない。あたしはドレッサーのスツールを持ってきてすわった。
「ルルは?」
「いま、署のほうにきていただいています。矢部剛(やべつよし)の件は、お聞きになっていますね」
「ええ」
「矢部は、よくスカーレットにきていましたか」
「最近は、ぜんぜん」
「最近とは?」
「ここ一、二ケ月くらい」
 ツヨシは、最初こそ(ルル目当てに)週一のペースできていたが、しだいに払いをツケにするようになり、ついにはママにことわられると、店には寄りつかなくなった。
「もう、捕まえたんですか」
「いえ、まだです」
 あたしは木田刑事を見た。刑事はいただきますと言って麦茶を飲むと、やおら口をひらいた。
「じつはその件で、土方さんにご協力いただかなければならなくなり、夜分ではありますが、お願いにあがったわけです」
「……協力って」
「時間がないので手短に申しあげますが、タバタさんはこれから矢部剛と会うことになっています。ついては土方さんにも、いっしょにいっていただきたいのです」
 あたしは目をしばたいた。
「マジで言ってる?」
「タバタさんの希望なんです」
「どういうこと」
 警察署で、ルルがツヨシに電話して会う場所と時間を決めたとこまでは、警察の指示どおりだった。ところがそのあと、ルルがあたしといっしょにいくと言いだした。木田刑事は、ツヨシが電話の切りぎわに言った〝ひとりでこい〟のひと言に、ルルが過剰に反応してしまったのだろうと言っていたが、とにかくそれからはツヨシがいくら言ってもきかず、会話を聴いていた警察のダメ出しにもしたがわない。けっきょく、あたしといっしょでなければいかないと言い張るルルに、ツヨシも警察も折れる結果になったのだという。
「お二人の安全は我々が全力で守ります。ですから──」
「それで、どこに、いけばいいの」
「二時に、デニーズ」
「ファミレス?」
 そこに決めたのもルルだった。あたしはすこしホッとした。そこはこのへんではここしかない終夜営業のファミレスで、ルルともよく行っていた。
「わかりました」
 あたしはタオルをとって、生乾きの髪に手ぐしをいれた。
「ご協力に感謝します。まずは署のほうにきていただいて、くわしいことはそこで」
 木田刑事は鯵坂刑事に目くばせをしてイスを立った。
「ああ、それから、野村幹也(のむらみきや)さんから、その後、連絡はありましたか」
 あたしはスツールをドレッサーにもどしながら言った。
「いいえ」
 木田刑事が部屋をでると、鰺坂刑事もイスを立って言った。
「マイクをつけていただきますので、えりのある服を着ていただけますか」
 あたしはファンシーケースから白いブラウスを取りだした。
「これでいい?」
「けっこうです」
 すぐ、したくするからと言って、Tシャツをぬぎ、ブラをつけていると、鯵坂刑事が木田刑事に呼ばれて部屋をでていった。
 あたしはスツールにすわって、ドライヤーのスイッチをいれた。そのとき着メロが鳴った。公衆電話からだった。あたしはドライヤーをすこし遠ざけ、ケイタイを耳にあてた。
〈警察は?〉
〈もう帰った〉
〈俺のことは、話してないな〉
〈ええ〉
〈警察は、なんの用できたんだ〉
〈ツヨシの件よ〉
 幹也の息づかいが消えて、車の音が聞こえた。
 あたしは玄関をチラリと見て言った。
〈あのね、わるいんだけど──〉
〈やったのは剛だ〉
〈どうして知ってるの〉
〈店から出てくるのを見た〉
 あたしは目をとじて、ケイタイを頬にあてた。
〈カネは? もしもし、カネは?〉
〈すこしだけなら……〉
〈ありがとう、たすかる。なら、いまから行く〉
〈ここに?〉
〈そうだな、そっちは、まずいな〉
〈二時に、デニーズにきて〉
〈わかった、ケイ、愛してる。カネ忘れるなよ〉
 あたしはケイタイを切り、ドライヤーの熱風に髪をなぶらせた。
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