第2話
文字数 2,702文字
「それで爺さん、貨物船にでも当て逃げされたのか?」
それが、救助してくれた船の船員たちの第一声だった。
もちろん平蔵は事実を話したが、船員たちは信じないのだ。
「ウソつけ爺さん。居眠りをして、大型船の接近に気づかなかったんだろう? 漁船をバラバラにできるほどのシャチが存在するものか」
「いや、わしは…」
「よせよせ。何の証拠もないじゃないか。シャチのウロコ一枚、あんたは持っちゃいねえ」
「鯨にウロコがあるものか」
「あんたの手にも体にも、一滴の血もついてやしねえ…。ああ、わかったよ。波に洗われて、血はみんな落ちたというんだろう?」
結局船員たちは、平蔵の言葉を一言も信じなかった。
しかし親切に、港へ送り返してくれたのだ。
平蔵が自分の家に帰りついたのは、翌朝のことだった。
夜通しの漁など珍しくはない。
平蔵の顔を見ても、家族は特に何も言わず、また一日が始まった。
自分の住む町を陸路ではほとんど離れたことのない平蔵が、街道をテクテクと歩き始めたのは、2日後の朝早くのこと。
そうやって着いた隣町は、平蔵が住む町よりもよほど大きかった。
その大きな町でも、すぐに訪ね当てることができたのだから、春日家の屋敷の大きさは相当なものだ。
この町で江戸時代から続く網本、つまり漁業の元締めの要職を勤めてきた。
すぐに平蔵はその門を叩いたが、拒否せずに門番が中へ通したのは、平蔵の瞳に何かの光を見たせいだろう。
春日家の当代は女で、奥まった座敷で平蔵を迎えた。
平蔵の前に置かれた茶も菓子も高級品で、最初は遠慮したが、平蔵も空腹には勝てない。
朝から歩き詰めで、昼食もまだだったのだ。
「それで、どんな御用ですの?」
女主人は言った。
声は少し枯れているが、張りは失っていない。
年齢は60歳過ぎか。
紬の高価な着物に身を包んでいる。
平蔵は喉を整えた。
「わしは先日、黒太郎を殺しました」
「なんですって?」
女主人は眉を上げ、それが精一杯の感情表現だった。
「しかと間違いございません」
と平蔵は深く頭を下げた。
「そうですか。わざわざ知らせに来てくれたのですね…。黒太郎は、春日家とも因縁浅からぬ鯨でした。感謝します」
「それだけではございません」
その言葉に、女主人は眉をひそめた。
(この男は一体、いまさら黒太郎を殺したから、どうだというの? まさか褒美を求めて?…)
平蔵は女主人の表情に気づいた。
「いえいえ奥様、そうではございません。わしも漁師の端くれ。動物の弱点がどこであるのか、一目で見破るすべを心得ております。
おそらく、わしと長十郎様は、黒太郎の体のまったく同じ場所に、モリを打ち込んだのでございましょう」
「長十郎? 当家の春日長十郎のことですね。でも、それが何か?」
「わしがモリを打ち込み、黒太郎の断末魔は、それはそれはすさまじいものでした。ご覧になったことがありましょうか。あの巨体が、まな板の上のコイのように跳ね回るのです」
「それは大層な眺めでしょうよ」
「その時、裂けた傷口から飛び出したものがございます。とっさに拾い上げ、ポケットに入れて、わしは海から持ち帰ったのです」
「それは何ですの?」
「ここにございます」
フトコロからうやうやしく取り出し、平蔵は畳の上に置いた。
丁寧に布で包んである。
それを開く指先を、女主人は見つめた。
「これは何ですの?」
「モリの柄のカケラでございます」
「モリの柄?」
「木の部分ですな…。ここをご覧ください。焼印がございます。この家紋は、まさしく春日家のもの。これは長十郎様のモリの柄の残りなのです」
「まあ、なんと…」
女主人は息もつけない。
平蔵は柄の一箇所を指さした。
「おそらくモリは、ここで折れたのでしょう。刃の部分は鉄ですからやがて錆び、腐って消え、丈夫な栗の木でできた柄のみが、黒太郎の体内に残ったのです」
「これをあなたは、わざわざ届けに?」
「長十郎様のご葬儀に関しては、わしも若い頃、師匠の口から聞きました。義理があり、師匠も参列しましたそうで…。
でもその時、ご遺体のない空の棺だけのご葬儀であったと聞き、何十年もお気の毒に感じておりました」
女主人はため息をついた。
「私もまだほんの子供でしたが、長十郎の葬儀のことは、とてもよく覚えています。長十郎は黒太郎に食われ、爪のカケラ一つ残っておらぬのです…。
でもこれで、やっと長十郎の墓に、空っぽの骨壷以外のものを入れることができるのですね」
「はい、奥様」
ここで平蔵は立ち上がろうとした。
「おやあなた、お待ちなさい。こんな大切なものを届けてくださった方を、おもてなしせずにお帰しできません」
「いいえ、お気遣いなく」
「だけど…」
「わしはまだ寄る場所があります。この町には従兄弟が住んでおりましてな。これが元は捕鯨船乗りで、黒太郎の話をぜひ聞かせてやりたいのです」
女主人はうなずいた。
「そうまでおっしゃるなら、お引止めはしませんが」
すでに平蔵は部屋を出、長い廊下を過ぎ、玄関へ達していた。
「それにしましても奥様、お父上である長十郎様のご遺品をお届けできて、これ以上の幸いはございません」
と平蔵は述べ、口を閉じたが、すぐに目を丸くした。
意外にも女主人は、くすりと笑うのだ。
「奥様、わしは何かおかしなことを申しましたか?」
それでもまだ女主人は笑い続ける。
「奥様、お答えくださいまし」
やっと女主人は真顔に戻った。
だが、まだ目じりには笑いが残っている。
「あらごめんなさい。本当におかしかったものだから、ついね…。
ねえ平蔵さん、人間の一生なんて、はかないものだと思いません? 年を取ると、一日がとても短くなるのね。日だけじゃない。一年だって毎年毎年、あっという間に通り過ぎる。私も娘時代の出来事が、ついさっきのことのように感じますもの」
話の行き先がわからず、平蔵は戸惑っている。
その表情に微笑み、女主人は続けた。
「人間と違って、鯨たちは海で悠々と生きているのだわ。一日一日をしっかり充実させて、『光陰矢のごとし』なんて思わなくて…。
鯨たちは、いったい何歳なのかしら? きっと100歳や200歳、人間の寿命なんて超越しているのでしょう」
「奥様、一体何を?」
「平蔵さん、長十郎は父ではありません。私の曽祖父ですの」
意味に気づき、平蔵は深く頭を下げた。
「おお、それは不明でした。お詫び申し上げます」
そういい残し、ゆっくりとぞうりを履き、平蔵は春日の屋敷を辞去した。
その時の平蔵の丸めた背中、うなだれた頭の低さは、自分よりもはるかに長命な存在をむやみに葬ったことへの、恥と後悔の現われだったのだ。
(終)