第1話

文字数 1,729文字


 その漁師の名は平蔵といい、もう若くはなかった。
 日に焼けた顔に、真っ白な髪と長いヒゲ。
 体は小柄だが、それは自分の船に合わせたサイズで、今でもキビキビと敏捷に動くことができた。
 息子も娘もみな、すでに成人し、
「いい加減に引退しろ」
 とすすめるが、平蔵は隠居など退屈で仕方がない。
 平蔵の漁船も古いが、船体はまだしっかりしており、特にエンジンは角が取れてこなれ、今がちょうど脂の乗り切った感じがする。
(こんなに調子のいい船を、いま手放すなど考えられない…)
 嵐が通り過ぎたばかりの早朝、その空の青さに、平蔵は矢も盾もたまらず出漁したのだ。
 他の漁師たちは様子見で、昼ごろまでエンジンをかけることはない。
 しかし平蔵は、本当に海が好きだった。
 漁村に生まれたが、平蔵の父は漁師ではなく、違う商売をしていた。
 平蔵はあとを継ぐでもなくいたが、18歳のときに軍隊にとられた。
 そして水兵になった。
 その2年後、兵役が明けて村へ戻る頃には、すっかり海に魅了されていたのだ。
 そのまま自然と漁師になった。
 エンジンを響かせ、舵を操り、まだうねりがある海上を平蔵は進んだ。
(今日は西の岩礁へ出かけよう。嵐の後、なぜかあそこには魚が集まる…)
 それは彼の師匠が伝えた知識の一つだった。
 師匠は平蔵よりもはるかに年上、まだ漁船にエンジンなどなかった時代の生き残りだった。
 当時20歳過ぎだった平蔵の目には、いかにも年寄りに見えたが、師匠は大酒飲みで、ほどなくして体を悪くして死んだ。
 もう50年も前のことだ。
 この日も岩礁は好漁だった。
 高価に売れる魚をいくつも引き上げ、漁船の内部はすぐにいっぱいになった。
(ふふ、これが漁師の醍醐味というやつさ…)
 満足した顔で平蔵は家路に着いたが、目をこらしたのは、岩礁を離れて40分ばかり過ぎたときだった。
(おや、あれは何だ?…)
 波間に、何者かがチラリと見えたのだ。
 方向は右手奥。
 水上に2メートルばかり、三角形にまっすぐに突き出すので、最初はヨットの帆かと思った。
(ヨットだと? こんな荒天に出てくる酔狂なヨット乗りがいるのか?…)
 まったく奇妙な話だ。
 しかもその帆が、まるでゴム製であるかのように真っ黒なのだ。
 その正体に思い至った瞬間、平蔵の体を電気のような衝撃が走りぬけた。
(あれはシャチだ。黒太郎だ。あれほど体の黒いシャチが、この世に2匹といるわけがない…)
 平蔵の胸の中で、心臓がドクドクと激しく打ち始める。
(しかし黒太郎は、もう少し南の海を縄張りにしているはずではないか? ははあ、今年の冬は、やけに暖かかった。例年にない暖冬だ。それでここまで北上したのか…)
 世界中どこの海にも、野生の鯨が存在する。
 シャチはその一種。
 黒太郎とはその中の一匹で、噂は平蔵の耳にも届いていた。
 いわく、魚網を外から食い破り、せっかく獲った魚を半分以上持ち去る。
 長いさおで一本釣りをして、やっとかかった体長2メートルを越すカジキマグロを、泥棒猫のように盗んでいく。
 などなど、漁師仲間からは蛇蝎のごとく嫌われ、恐れられた。
 黒太郎を退治せんものと、過去に何人もが挑み、すべて失敗していた。
 中には黒太郎のせいで絶命した者もおり、それが有名な網元、つまり大家の跡継ぎ息子であり、その死が当時、世間でかなりの騒ぎになったとは、平蔵も師匠の口から聞かされていた。
 その黒太郎が今、平蔵の船に平行して泳いでいる。
 あまりの出来事に呆然としたが、平蔵の体が動きを止めたのは、ほんの一瞬でしかない。
 平蔵には、黒太郎の心が読み取れるような気がした。
(あの嵐の中では、さすがの黒太郎も餌にありつけなかったろう。やっと嵐が収まったのはいいが、やつも、このあたりの海のことは素人も同然。
 すきっ腹がチクチクと痛むが、そこへ獲物を満載した小さな漁船が通りかかる…。やつにとっては餌箱も同じだ…)
 すでに平蔵の手は、忙しく動いていた。
 まずモリを手にした。
 長い木の棒の先に鋭い鉄の刃がつき、ヤリのようになっている。
 網にかかった魚が大きすぎ、手で引き上げるのが不可能なときに用いるものだ。
 このモリでは武器としていささか小さ過ぎるが、仕方がない…。
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