第二章 我 第一節 境

文字数 11,216文字

 「調子はどうだ?」
「おかげさまで体の調子はいいよ。こんな部屋で閉じ込められていることをのぞけば」
「————————」
窓がついていない薄暗い部屋はオレンジ色の淡い光だけが木目を照らす。目が覚めたペロは本のにおいが染み込んだ一昔前の欧州の地下部屋のようなところにいた。本が乱雑に床や棚の上など様々な場所に置かれている。殆どの本が埃をかぶっていてシミがついているものばかりだ。本の分野は目立った偏りがなく強いて言えば近現代の社会学的な本が多いと感じるくらいだ。
「よかった。元気になって」
「ありがとうございます。ソマリさんのおかげです」
「ううん。私は何もしてないよ。ペロさんの自己治癒力の高さには驚いたわ」
ソマリは両手と頭を大袈裟に横に振る。
「本当にお前は人間なのか」
と唯一の出入り口から一歩も動かない腕を組んだ男が言った。
「普通はみんなこんなものじゃないの」
「いや、そのことじゃない。普通の操血者では俺と戦いにすらならない。ましては人間なんかが戦えるはずがない」
「—————私はあなたが私と戦っていた彼だとは思えない」
男はペロを睨み恐怖心を煽ろうとするがペロは男を悪意や敵意を潜ませない瞳でまっすぐ見つめる。大きな舌打ちを打つと男は凄んだ目のままでソマリに「おい、出るぞ」と言い部屋から出るように促した。ベッドの近くに座っていたソマリは足元を交差させたまま誤って立ち上がりすぐに体勢を崩し転倒する。まるで大石が落ちたような大きな音ともに木の軋む音が床の飾りタテを伝い響いた。
「どうしたの」
ペロがベッドから飛び出しうつ伏しているソマリの体を起こす。
「………………ずみません。足がからまって…………」
鼻が真っ赤になったソマリは気恥ずかしそうにいった。そしてすぐありがとうございますとたどたどしく言いペロから離れた。顔をうつ伏せ手探りで床に落ちた眼鏡を探し始める。男は地を這い探すソマリを見て床を強く踏みつけ大きな音を鳴らし「早くしろ」と急く。驚き音の方向に目を向けたソマリは棒のようなものの下に自分の眼鏡のようなものの輪郭を朧気ながら捉えた。
「お前は俺に近づくな」
男は眼鏡を取りに立ち上がったペロを制した。
「こいつがドジを踏みやすいのはお前も知っているだろ」
「そんなこ………………と……………」ペロは初めてあった時に塩と砂糖を間違えて入れたカラメル色の魚の砂糖焼きを思い出す。「な…………………」今朝、この部屋に続く階段を踏み外し転げ落ちた騒音を聞いた。直後に目立った外傷がないソマリが入室してきた光景が頭をよぎる。「……………た、例えそうだとしても。あなたはもっと————」
「よかった。ありました」ソマリはホッと胸をなでおろす。眼鏡をかけ笑顔で「ペロさん。ありましたよ」と揚々と話しかける。二人は静かに互いを見合っている。ソマリは慌てて二人を交互に見返し「私、また何かやりましたか」とおどおどと落ち着きなく言う。
「早く部屋から出ろ」
男は鋭い視線をペロに向けたまま威圧的に言った。ソマリはペロの顔を一瞥する。ペロは小さく頷く。
「また、明日。ソマリ」
ソマリは笑顔で頷き部屋から出ていった。そして、男も次いで部屋から出てドアを閉めようとする。ペロが「あなたもまた明日ね」と言った。男は舌を鳴らしドアを蹴り閉めた。風圧がペロの髪を揺らし逃げどころのない風がペロのすぐ後ろにある壁にぶつかり室内がわずかに揺れる。不協和音を残し立ち去った男の姿はあの時に感じた戦闘狂のような壊れた人間ではなく何かに苦しむただの少年の面影を感じられる。ベッドに座り学術本ばかり置かれた本棚の右端の下に置かれた小説を見つめる。
「多分、この書斎の人も子供に本を読ませようとしたのかな」
手を広げベッドに倒れる。低い屋根にぶら下がる時代錯誤なランプが僅かながら肌を熱くさせる。
昔、イヴァンは雪がよく積もる地域の蛍光灯や信号機は今だに発熱するものが使われていると教えてくれた。「なんでなの」と訊くと「雪が灯りを隠したら意味がないでしょ」と日傘をさしていたイヴァンが目の前の蛍光灯を指刺し答えた。「へぇ」と私は信号機を見ながら頷いた。そして、私は続けて「イヴァンは雪国出身だったの?」と言った。その時の私の身長はイヴァンより少し高いくらいだった。だから横を見れば炎天下に似つかわしくない色白い顔を見れた。イヴァンは日傘で私の視界を遮り「どこだったかしら」とそっぽを向けて言った。そのせいか少し遠くから声が聞こえた。あの頃はわかっていた気がする。彼女の曖昧にぼかされた言葉でさえも伝わるものがあった。今も近くにいることは変わりないのに何かが変わった。彼女を止めるために始めた私とイヴァンの三年間は無駄に終わった。だけど————-もしかしたら、私だけの三年間だったのかもしれない。イヴァンが本当にそんなことをしたかったのかわからない。時折みせる彼女の辛そうな顔に巻き込んだ私が白々しくなにかを訊くのはできなかった。一研究者であるイヴァンがここまでする理由はきっとない。私が戻るとイヴァンがいなくなっても不思議はない。だけど彼女の真意を聞くのが怖い。もっと話したいのに何かの拍子で突然に別れを告げられそうで怖い。逃げていてもどうにもならいことは知っている。人の命を危険に晒しているのにそんな不誠実な態度が赦されるはずがない。真意を聞きイヴァンがやりたいようにやって欲しいという気持ちも本物。————だけど、だけど…………。
 なにをすればいいかわからなくなった途端に今まで考えないようにしていたことが頭の片隅から出てくる。渡された今ではそう見かけないUSBをオレンジ色に光るライトにかざし次の明確な目的が出来ることを密かに祈る。その祈りは彼女を止めるためなのか彼女を繋ぐためのものなのか自身でもわからない。




 「おい。起きろ」
まどろむ目に明かりがついたままの蛍光灯が見える。目を擦り起き上がる。ドアの側でいつものように男がもたれていた。だが、今日はいつもと違うところがある。ペロはあくびをして体を伸ばす。
「今日はどういうつもりなの」
眠気を誘う気だるい声で言ったが視線は空いたドアと男を交互に見ている。
「上で食え」
男の態度は相変わらずぶっきらぼうで視線を床に向けたままだ。
「え?」
「お前が持っていた銃は家の離れにある小屋に置いてある。以上だ。俺は上がる」
すぐに部屋からでた男は軋む音を出しながら階段を上っていった。
 —————本当に行った。突然、こんなことをするなんて。そもそも私を治療した理由もわからない。USBの存在を知っているわけでもなそうだし。一体彼は何を…………………。
「ペロさん?」
ペロは驚きすぐに声の主の方に振り向いた。
「あの……………あまりにもくるのが遅いから————」過敏に反応たペロは無意識にソマリの手元や体の節々を隈なく見ている。ソマリは恥ずかしそうに手を重ね内股の足を小刻みに動かしている。「その、私、どこかおかしいですか」
「あ————-」慌ててソマリの目を見る。「ごめんね。他意はから気にしないで」それでもよそよそしくペロを見続けるソマリに「ほんとだよ。その、癖みたいなものだから」と継ぎ足した。
「あ、違うんです。私はただ………あの…………彼と喧嘩したのかなって考えただけです」
「そんなことないよ」
ペロは頭を小さく振りながら言った。
「よかった———。」ソマリは手を胸に当て一息つく。するとおちつきなく動いていた足が止まった。「彼が行って三十分近く経つのになかなか来なくてペロさんの様子を見に行ったら塞ぎ込んで何かを考えている様子だったので勝手に喧嘩したものだと…………」余計な思い込みをしたと思いソマリは恥ずかしくなり今度は重ねた手を落ち着きなく動かす。
「これからどうしようって思っていただけだから」ペロはソマリの躊躇いがちの目を見つめて「ありがとう」
とはにかんだ笑顔で言った。それはソマリを気遣って言った言葉でもなければそういう笑顔でもない。ペロは本当に心から感謝している。怪我をなおしたからだけではない。ソマリという人がペロに安らぎを与えていた。
「そそ……そんなことないですよ。私の方こそありがとうございます」
ソマリは顔を赤らめ嬉しくも恥ずかしそうにもしている。
「どうしてソマリが言うの」
そう訊かれるとさらに恥ずかしそうになり遊ばしている両手を顔まで上げペロの瞳を見えなくする。そして、物静かな部屋の中でソマリが口から息を吸いこんだ。
「えっと、その……………えっとですね」ソマリはつま先で立ったりかかとを床につけたりする。それを何度も繰り返す。
「あの、ソマリ」
ペロは鼻から細かく息を吸っている。
「あ、いえ、その言い難いとかじゃなくて。その——————」
ソマリはさらに目を泳がせ両手を前にだし弱腰になる。
「なんか、焦げ臭くない?」
「焦れったいのはわかっています。少しだけ時間をくださ————」
二人が同時に口を開き言葉が重なる。
「え?なんていいました?」
「焦げた臭いしない?」
ソマリは目を見開き両手で口を覆い「あ!」と声を上げる。急いで階段に向かうが足が絡まりおでこからおもいっきり床に落ちた。
「いたーーーい!」
ペロが座るベッドが揺れてしまうほどの衝撃に慌ててソマリの元に駆け寄り仰向けにする。蜂に刺されたかのような赤く膨れ上がるおでこにペロは「あぁー」と痛みを感じながら同情する。
「ペロさん。必ず後で追いつきます。だから、今だけは————-」
瞳に涙を浮かべながら苦痛で歪む唇を必死に動かす。想像に難くないさくらんぼのような赤いデコの痛みに耐えて自分よりもそのことを優先するソマリの心意気にペロは手を握り頷く。
黒い煙が充満した部屋に入る。すぐに目や喉が乾燥し痛みを訴えてくる。ペロはしゃがみ浅く呼吸し極力息を吸わないようにする。そして、濃煙を柱のように上げるフライパンを見つけガスを止めて窓を開ける。紙が粉々に燃えたあとのような細かい粒子を含んだ煙は小川のように迷いなく外に流れていく。やっと息を吸えると思ったペロだったが乾燥した喉が息を吸うことより咳を優先させる。なんとしてでも呼吸がしたいペロは咳をしながら洗い場の蛇口をひねり両手に並々の水を入れて一気に飲み干す。干上がった魚が水を浴びエラを活発に動かすように喉が動き出す。 あまりの気持ちよさにおもわず深呼吸してしまったがまだ部屋に充満する黒煙に息を詰まらせ咳をしてしまう。戸棚からガラスのコップを取り出して水を入れ窓に急ぎ足で行く。だが窓しか見ていなかったペロは足の小指をテーブルにぶつけてしまう。当たった足を上げ喘ぐ声をもらしバランスを失い水がコップから溢れそうになる。「あっ」と声を出し溢れないように水の流れる方向に体を動かす。前のめりになり過ぎたペロは前方に倒れそうになり反射的に受け身をとってしまい勢いのまま窓から外に出てしまう。肩から地面につけコップの水は盛大に溢れてしまう。
「え?」
草や木々の陰から匂う湿った土の匂い。見切れることのない緑の傘が風に揺られ互いに葉を擦る涼やか音が聞こえる。木の根元にある下生えの中からは両頬にさくらんぼを詰めたようにぷっくり膨らむリスの顔が出ている。監禁された部屋の外は刺さるような観察される視線もコンクリートの地面もない。予想だにしないのどかな景色にペロは呆気に取られる。
「お前、何をやっている」
「あ、その———」
男を見ると髪から垂れる水が片目に入った。ペロは目を擦りながら
「ここは本当に一般家庭の家なの」
「ソマリを見ればわかるだろ」
男はさも当然のように言うと続けて「これはなんだ」と素っ気なく訊いた。いつも通りの態度であったが少し力がこもっているようにも見える。
「フライパンが何かを焦がした煙」
「………………そうか」
「いつもだれが作っているの」
「あいつはいつも通りだったか」
目を擦り終えたペロは立ち上がり顔だけを男に向ける。
「そうだと思うけど」
男は何も言わず離れの小屋に歩いて行く。背を向け歩いていく男を引き止めるために息を大きい吸い声を出そうとする。空気が胃袋に入り胃液に触れる。途端に強い空腹感が芽生える。声を出す気力が失せていきためた息は鼻から出ていった。居間を見遣ると先ほどよりはましにはなった煙がまだ充満している。
「あぁぁーーーーーーー」
ペロは大声を出しながら芝の上を寝転がる。敵地のどこにいるかもわからない中でソマリの態度に引っ張られないように気を張りながら生活していたがもう無理だと思った。先ほどの足が腫れてないか足の指を重ね合わせ確かめる。
 ———こんなドジふんじゃんだもんね。今更か。最初はあれだけ見せていた彼の敵意も五日が経つ頃には無くなっていたなぁ。それにさっき去るときのあの背中も全く警戒してなかった。最初は私を懐柔するために治療やソマリのような警戒心を煽らせない人間を使っていると思っていたけどやり方が遠回りな気がする。そもそも私を懐柔してのメリットが欠ける。それに時間に見合っていない。私の存在は敵にとって認知されてないだろうし。うん?けど、そもそも彼の勢力はどこに属しているの。
ペロは上半身を上げ座った。考えても次に疑問が出てくるがそれを解ける情報が不足している。次に打つべき手を熟考する前に根本的な問題である情報不足を補うための行動を思案しなければならない。そう思っているが時が止まったかのような緑黄が生茂る静かな木々の世界が焦燥感を大いに削がせる。芳しくない状況に身を置かれながらも危機感を覚えさせない自然の安らぎの前ではそれらが煩わしく感じる。野生の猫が茂みの中から出てきた。続けて子猫が二匹出てきた。一匹の子猫が突然走り出すともう一匹の子猫が後を追いかける。大きな猫は視線だけ向けて気怠いあくびをして木陰に入る。そしてお腹を冷えた地面につけて尻尾をだらしなく伸ばす。追いかけていた子猫が前にいる猫に飛びかかり押し倒す。すると今度は追いかけていた猫がスキップするかのように飛び跳ねて逃げていく。ペロは何気なく空を見上げる。
 空なんていつぶりに見たかな。
太陽を彩る青空のキャンパスの中にはわたあめのような積雲が白のインクを零したかのように散らばっている。
「何していますか?」
ソマリが近づいてきたことに全く気づかなかったが動揺したそぶりは何もない。
「久々に空を見た気がして」
「あの……………、その…」
顔をうつ伏せて人差し指と人差し指をつけ合わせて口ごもっている。
「どうしたの」
ペロは顔をさらに見上げて真後ろに立つ俯くソマリ顔を見る。ソマリはイラつきを見せずに自分の言葉を待ってくれるペロの態度にさらに罪悪感を抱いた。
「ごめんなさい」
「え…?どうしたの」
思いの寄らない突然の謝罪に少しだけ瞳が見開く。
「ずっと部屋の中に閉じ込めたことがかなりの……ストレスになってかもしれないと思って」
「違うよ。空を見上げることが久しぶりなの。だって日ごろ生活していて空を見上げることってあまりないでしょ」
つきものがとれたかのようにペロはとても穏やかだ。いつも目の奥には切れることのない緊張感が潜んでいるように思えたが今ではその気配がまるでない。自分より遥かに大人に見えていたペロが見せるあどけない瞳にソマリは親近感を覚える。自分の返答を待つペロは本当に何も気にしてない様子だ。
「——————私もしばらく見ることなかったな」
太陽に暖められた緑の絨毯にソマリも座る。目の前に広がる見慣れたはずの木々も視線を落とすだけでかなり違うものに見える。自分が一人で住んでいる家を守るように立っているように思える。
「どうしたの?」
「————あ、ええっと」
ペロの声に反応した時にソマリは自分の視線が下生えの影を見つめていたことに気づく。苦し紛れに太陽を見上げる。目の表層にある水面が太陽が直接瞳に触れるのを妨げる。瞳に映るのは水面にある太陽の影だけだ。

 草木の緑が豆電球の白い光のように眩しく輝いている。水滴が残っていたガラスのコップにはもう太陽の光しか入っていない。じゃれあっていた子猫たちは母親と同じ木陰の中に入り互いに毛繕いをして休憩している。あくびをかいていた母親はぐっすりと寝ている。
「———バイカル湖ってご存知ですか」
ペロがそっと手を重ねる。陽光が積乱雲を遮り当たりを暗くする。
「確かロシアにあるとか」
ペロは積乱雲を見ながら答えた。
「そこの青はとても綺麗————ですよ」
「気になる。いつか行ってみたいな」
太陽の残り香が色濃く残る暖かい芝がとても冷たく感じる。とても速く移動していると思っていた積乱雲はペロにとっては自分たちの真上で留まっていると思うほどに遅い。だが、ソマリとっては雲が通りすぎるのはあまりにも一瞬であった。
 積乱雲の影が二人を過ぎて鋭い陽射しが二人を刺している。ガラスの中にある太陽の光は乱反射して小さな太陽になり七色の光を出している。猫の親子が涼んでいた木陰は木々がひしめき合う森の中に消えていた。それを追うように彼らはいなくなっていた。ずっと陽射しを浴びていた下生えの先は秋の稲のような枯れた色をしている。

 痛烈で熾烈で狂うしいほどに美しい青。私はまだそれを現実だと思えていない。







 「なら、ここは緩衝地帯になるの?」
「はい」
晩御飯を食べた後ソマリとペロは木材の質感を基調とした居間でテーブルを囲み二人で話していた。ここの土地の情報を聞き出すより先にペロはソマリの生活を聞いていた。単純にソマリとの触れ合いを望んでいたからだ。生存にとって望ましい話は偶々行き着いただけに過ぎなかったがそういう経緯になったからには聞きたいことがあった。
「なら、ここの勢力はエリコ圏内に属するの?」
「どう………なんでしょうか」ソマリは眉間にしわを寄せて天井の隅を見つめる。「お父さんの話によるとここには様々な理由を持つ人たちが住んでいて根底にあるのは操血者でありながら人との共存を望む人たちが集まっているそうです」
「ネフィリムに保護してもらう方が安全だと思うけど」
「お父さんがなにをやっているのかわからない組織に行くことはできないと言っていましたから行くことはありませんでした」
柱時計が眠りを告げる鐘の音を鳴らす。音に少し驚いたソマリは時計の針に慌てて視線をうつした。テーブルの中央にあるランプが体を火照らし目も暖かくする。鐘の音がわずかに残す余韻がソマリの体を気怠くさせあくびをさせた。ソマリが伸びて机が僅かに動く。考えこんでいたペロはそれに反応してソマリに視線を移す。
「今日はありがとう。また明日話そう」
「はい。今日は楽しかったです」
ソマリはたちがり笑顔で言った。そして、ペロはわたしもと言って笑顔で返した。



 ペロは居間から廊下に続く扉を開ける。真っ黒な廊下を前にして踏み出そうとしたが手を扉の縦枠に引っ掛け足を止める。明るかった時の部屋の構造を思い浮かべながら廊下の床に足をそっと置く。そして、すり足で壁伝いに歩き下にある部屋へと向かって行った。
ベッドの前に行けばペロは思わず飛びこめずにいられない。久々に体を動かせたのは良かったが完治していない箇所に気を使って歩いたため必要以上に酷使した腰や膝は疲れている。まだ理解でできていないことが多くある中でもソマリからの情報はかなり嬉しいものだった。状況は思ったより悪くはなかったが芳しくないことに変わりない。人間という立場を考えれば操血者至上主義のエリコとの遭遇は言うまでもなく好ましいものではない。だが、かといってCUSと遭遇するのもの好ましくはない。どちらも人間か操血者かに向けられる排他的思想を標榜する者たちであって根本的にペロの考えと相容れるものではない。例えCUSに助けを求めたとしても操血者と関わったモノとして殺そうとしてくるのも想像に難くない。日本政府とエリコ自治区の間にあるこの地点は良いとは言い難いが膠着している今の状態が崩れ難いと想定されるため自分の体の治療に専念できるという意味合いで良好なものと考えられる。緩衝地帯を設けたあたりに人が住むことからこの場所は少なく見積もっても三年以上は平和な土地であると推測できるからだ。ソマリの生活基準から考えて見ても戦いが頻繁に起こっているとはとても考えにくい。いずれにしろ、ペロが完治して周辺を散策できるまでの時間にはゆとりがある。目下の明確な問題はあの男だけだ。ペロは頭を枕に乗せて天井を見えなくする暗闇を見つめる。瞼を閉じればあの男が豪炎の柱を上げ砕け落ちるビル群を見て嘲笑う姿がすぐに見える。だが、目を開けている間だけはまた違う少年の影が見える。血に呑まれた人間は二重人格を持ちそれらがお互いに共存することはできないとイヴァンが言っていた。ほとんどの場合は元来の人格と血のせいでできた攻撃的な人格が混ざり合い––––所謂、血に呑まれた人格ができてしまう。しかし特に血に秀でた者は元来の人格を呑みこむほどの強い人格が形成されるらしい。
 ペロは深いため息をつく。それはどう動いても自分の思うように自体が好転しないことに嘆いた声のようにも聞こえる。二年以上の歳月をかけて丹念に準備をした計画が一瞬にして泡のように消えた。それだけではなく多くの人がまた死んでしまった。手に残ったのはよくわからないチップだけだ。暗闇の中を歩くのは慣れたが暗闇に慣れたわけではない。近くにあったものばかりが遠のくだけで本当に自分が手にしたいものが何なのかはわからない。正しいことはない。それをわかっていないがら正しく在ろうとする自己矛盾が自分をまた寂しくさせる。眠る寸前で見えたのは港の鐘と商店街で手を繋ぐ親子の姿だった。





 まだ太陽が昇らない霧が月の残した吐息のように大地を覆っている早朝にペロは離れの小屋を訪れた。暫く見ていない自分の装備品を見るためでもあったが————。
「となりにガレージが隣接している。そこの一番右奥にアルミ製の戸棚がある」
「こんな朝早くから猟に出るの」
ソマリから聞いた通り早朝に男はコーヒーを飲んでいる。男は真ん中にあるテーブルに肩肘をつけ椅子に座っていた。暖かいコーヒーの蒸気を外に出さないためにペロはすぐに扉を閉めた。
「まだお湯はある」
「…………………………」
背を向けたまま無言でコーヒーを飲む男にペロはどう会話をしたらいいか困り果てる。うまく会話の糸口を見出せないペロは何気なく男のとなりの椅子の背もたれに紐でぶら下げられた細長い銃を見る。
 ………………ライフル?にしては銃身を支えるようにある木製の下の部品が
ペロは無言で土間から上がってライフルの形状を間近で観察する。銃身の真下にある木製のフォアハンドに切れ目がある。あまり銃に関心がある方ではないが今まで自分が触ってきた銃とはどことなく異なるように思えた。
「これってライフルなの」
隣の座席にかかる銃を屈んで見るペロを瞳だけ動かし一瞥する。男はまたしても何も言わなかった。
「触るよ?」
「………………………」
「——————————————-
「—————」
「—————————————————————」
「—————————————」
「——————————————————————————あっ」
コーヒーが飲み終えた男が立とうとした時に聞こえたそれに男は反応した。銃身の下にある木製の部品が丁度切れ目を境にしてレバーのように下がり銃身から離れた。真顔で自分を見つめる男にペロはあいそ笑いする。興味に気をそそぎ過ぎたことを少しだけ悔いた。
「空気銃だ」
思いもしない反応に瞼が一瞬だけ動く。意外だと反応を示せば男が機嫌を損ねるかもしれない。ペロは何事もないように取り繕う。
「けど、わたしが以前と言っても一つしか見たことないけどそれはこんな機能はなかった」
男は椅子にかけてある銃を手に取り下がった木製の部分を上げて銃身の下に隣接させる。そして、男はもう一度それを下げてまた上げて戻す。
「これはマルチストローク。俺も空気銃に関してはよく知っている方ではないが俺らの思うのは基本的には銃身を折るスピリングピストンかガスカートリッジだ。だが、こっちではこれが多いらしい」
「折ること自体初めて知ったのだけど………」
「折ることによって空気圧を上げる。このレバーを何回もおればその分威力は増す。お前が初めて見たのはガスをあらかじめ入れて空気圧を調整するタイプのものだ」
「ねぇ、今度わたしも行っていい?」
男は時計を見る。「あと一時間だ。お前は装備の確認をするためにもきたんだろ」
「うん」と言葉を一度切った。そして立ち上がり後に続けて「そのためにきたんだった」と手を後ろに組み笑う。男は目を伏し銃を肩にかけ部屋から出て行った。

 ペロは男が言った通りに隣接してある倉庫に行った。小さい窓から微かに光が入ってきている。兎小屋ほどの小さな倉庫は湿気がかなりひどくカビ臭い。部屋のスイッチを探す。扉の近くにうっすらとした長方形の出っ張りが見えた。手探りでそれの形状を調べてスイッチらしきものを押すと二回明暗を繰り返し明かりがついた。スイッチに付着していた水が触れた指に吸い付いている。ペロはそれを指先で擦り落としながら男の言った隅にあるアルミの棚に歩く。アルミに手をかけるとアルミについていた水滴がペロの手を伝い閉まりかけの蛇口の水のようにこぼれていく。腰の高さぐらいの引き戸を開ける。湿気にやられて色を鉄錆のように変えた木箱があった。すぐに開けようとしたが濡れた手と倉庫の湿気があまりにも気がかりになったので空のコーヒーカップだけが残る部屋に戻った。木箱をテーブルに置きすぐに洗面所で鉄臭い手を丁寧に洗う。そしてタオルで手を拭きながら時計を一瞥し椅子に座った。木箱を開ける。中にはアルミの箱が入っていた。そして、それをまた開けると今度は新聞紙で包まれた銃とナイフと弾を生成するための機械が入っていた。
 ————新聞紙は濡れてない。これなら中の部品も錆びてないかも
銃の形に梱包された新聞紙を丁寧に取り外すと透明なビニール袋が三重にされて銃を包んでいた。あまりにも厳重な湿気対策にペロは残りの三点と残り時間を確認して苦笑いをする。右手でグリップを握り鈍色に光るフレームを手でなぞり歪みがないか確認する。右手を水平に伸ばしリアサイトから鋭い眼光をフロントサイトの向こう側にある小さな窓から漏れる太陽の光に合わせる。撃鉄を起こし輪胴が回る。手が覚えていた当てどころのない寂しさを鉄と鉄が動く振動が満たす。わずかに溶けたフロントサイトの先には焦土と化した大地を楽しそうに歩く男の姿が見える。
「不確定因子。お前はこちらの人間だ」
こんなに銃を肌身に触れさせない時間がしばらくあったのだろうか。あったような気がするようでない気がする。少なくても私は男が言っている意味が瞬時に理解できる程に銃を通してみる世界に親しみを感じている。昔の私ならあちらとこちらなんて理解出来なかった。私が生まれた場所は男が言うこちら側が始まりで私という人間の生が自覚できたのは違う場所だった。それらには境界がなく等しくそれは同じ世界だった。だから、それを理解したのは頭だけで心では理解できなかった。
 ペロは目の前の光に引き金を引く。弾薬が入っていない空の輪胴を撃鉄が叩く。朝露が晴れて葉に付いた霜が太陽の光に照らされて小さなアクアリウムが数千とできる。だが、それらは時が経つと光に焦がされ跡までも消える。また違うものは葉からこぼれ落ち千々に砕かれる。最後まで残るのは川の奔流に交わるものだけである。だがそれは有ってない。流された形をなくしたものしか残らない。
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