第1話

文字数 1,849文字

 横浜の京浜東北線桜木町駅南側の野毛界隈には約600店もの飲食店が集まる盛り場がある。
 今を去ること1年前、所用で野毛仲通りを通り抜けた時、誘惑に負けて昭和の(たたず)まいの年季の入った居酒屋にふらふらと入ってしまった。
 その店は外観だけではなく中の雰囲気も、女将も客も、酒のつまみも料理もレトロ感覚が満載だった。店内にある2台の大型テレビには競馬中継が流れ、おっちゃん達が競馬新聞を片手にビールを飲んでいた。柚子胡椒をちょいと乗せて食べる焼き鳥が絶品だった。

 先日、近くに用事があった帰り、もう一度、その店を訪ねた。
 店は白髪を束ねた中肉中背の老女将が1人で切り盛りしていた。1年前の記憶は曖昧(あいまい)だった。
 カウンターに座る。隣には野球帽をかぶった青年がひとり、スマホを見ながら瓶ビールを飲んでいた。彼のつまみはお通しだけで、誰かと待ち合わせのようであった。
 「ホッピーのセットを下さい。」
 (隣の青年は若いのに、こんな渋い店で誰を待っているのだろう? まさか彼女ではないだろうし…。)私はホッピーを飲みながらボ~っと考えていた(写真1↓)。


 「やぁっ! 遅くなってごめん。ここ、分かんねぇ、探したぁ。」
 隣の青年の待ち人が現れた。待ち人は青年よりは年上の野球帽にTシャツを着た兄貴だった。
 兄貴は青年の隣に座った。二人は梅酎ハイを注文した。
 「では、お前の20代最後の日に乾杯っ!」
 「乾杯!」
 「ところで、30歳を迎えて、何か変わったことはないのか?」
 「別にないですねぇ」
 その時だった。
 「そうよ、私、80歳になった時も、何にも変わらなかったわ。」
とは、老女将の合いの手だった。(この店、面白い。)私は思わずホッピーのジョッキを飲み干した。

 「俺、35までには結婚しようと思っていたけどさぁ、予定より早く再来年に結婚することになってさぁ…。」
 兄貴は呟いた。
 「それはおめでとう!じゃないですか。」
 祝う青年。ところが、事態は大変らしい。兄貴の彼女の生活費が月50万円くらいらしいのだ。
 「その彼女、ホストクラブに通ってません?」
 「えっ?!」
 私は、聞いていて思わずホッピーを吹き出しそうになった。
 「違うかぁ…。じゃあ、きっと洋服に使ってんですよ。」
 「えぇ? 俺なんて今日着ている洋服、ユニクロで合計で5千円もしないけどなぁ…。」
 青年は、兄貴の結婚前の憂鬱を一生懸命あれやこれやとなだめていた。
 結局、「一番大切なことは、老後まで一緒に楽しめる趣味があること」とういう結論になった。
 「そうよ、その通り。私は仕事が趣味だから今もこうやって店やっていられるのよ。」
とは、またも老女将の締めの言葉だった。

 「ところでお父さんは歳、お幾つですか?」
 話題がこちらに振られた。(そうか、『お父さん』と呼ばれる歳になったのか? まあ、『オジさん』よりはましか…。)
 「内緒だ。企業秘密だから(笑)。それにしても君達、若いのにこの渋い店で面白いね。」
 それから3人(+時々、老女将)で話に花が咲いた。青年と兄貴は呑み屋で知り合ったそうだ。
 印象に残った話は、①自分達はもう若くはない。②一番大切なことはコミ(りょく)(コミュニケーション能力)である。③マニュアル人間ではダメだ。青年は営業をしている。例えば、カスハラの対応マニュアルはあるが、自分は顧客に煙草の煙を吹き掛けられたら、()けずにその煙を全部吸い込むようにしている。(←それくらい誠意を見せなければダメだの意味)などなど。
 彼らは芋焼酎のボトルを1本頼んで、水割りのグラスを重ねていた。
 私もホッピーの空ジョッキの山を築いていた(写真2↓)。


 「あっ? この店に iPhone 15 の充電器ありますか?」
 「え~っ? あるかしら? カウンターの端の荷物棚の籠の中にあればいいけど…。」
 兄貴は女将に言われた籠の中をごそごそと探した。
 「あった。充電してもいいですか?」
 「どうぞ。」
 店は昭和からある老舗の居酒屋である。若くしてそこの店を選ぶ若者がいる。彼らの生き方、価値観は年老いた昭和の「お父さん」の年代にも通ずる。そして彼らと話をしていると、自分の若い頃を思い出す。
 かたや店の老女将は昭和、平成、令和を生き抜き、俄然(がぜん)いい味を出している。店は古いが iPhone 15 の充電器もあり、決して時代遅れではない。
 この老舗居酒屋では、昭和の良しとする価値観が平成生まれの若者達にしっかりと引き継がれていた。

 んだんだ。
(2024年6月) 

 
 
 
 
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