第5話 只野家の人々

文字数 3,414文字

 ある企業の社長室で、椅子に座る初老の男性を目の前にして、何人かの人々が囲うように立っていた。取り囲む人の中に、只野和男の妻…幸子もいた。
 椅子に座っている社長は、目の前の社員に頭を下げた。
「…すまない、皆…」
 社長は言った「この会社の所有主は別の会社の物になる」と。
 どれだけの人が残れるか保証できないし、待遇がどうなるかも分からない…そう社長が宣言したのは数分前だった。
 社長室に居る者は皆、絶句した。
 しばらくして、声を上げる者があった。
「しょうがありませんよ、社長…」
 只野幸子はそう言った。そして幸子が続ける。
「経営…そんなに楽じゃなかったもの…」
 幸子の言葉に、社長室に居た面々は一様にうつむいた。
 『労働者の人権保護』という題目において、この国の政策は功を奏していた。
 度重なる罰則強化により『残業は人権侵害』という意識を世間に広がらせる事に成功していた。
 しかし、中小企業では労働者の『サービス残業』と言う名前の無休労働無しには経営が立ち行かない現実があった。
 そんな中小企業に対して労働管理局は常に目を光らせており、労働管理局の摘発を受けた中小企業の経営者は自分の会社を国に安く買い叩かれる上に、経営者専用の更生施設という牢獄での生活が待っている。
 幸子が庶務として働いているこの会社も、残業はできない事になっている。残業代が払えないが、かといって裸同然で刑務所に入れられるリスクを冒してまでサービス残業を強要するような度胸は社長に無かった。
 なるべく健全な運営を…と社長が奮闘した努力も空しく、利益を上げられなくなった会社は別の経営者に身売りをする事によって存続する道を選んだ。
「大丈夫よ、きっと大丈夫…」
 幸子は絶望に暮れる社員達にそう言って回った。
 只野幸子という人物の評判は社内ではとても良かった。それは一重に彼女自身の人望のおかげであった。中途社員や新人社員をサポートし、社員の悩みがあれば聞いてやり、人手が足らなければ手伝うような性格の持ち主だったためだ。
 そんな性格だからこそ、幸子は暗く沈む会社の仲間を励ましていった。幸子の励ましに持ち直す者がいる中、幸子に怒りをぶつける者もいた。
「大丈夫なんて幸子さんは言うけど…!実際どうなるか分かったもんじゃないわ…!リストラなんかされたら、あたし子供抱えて明日からどうやって生きてけっていうのよ…!」
「…」
 幸子はそんな風に泣き叫ぶ同僚には答えられなかった。事務職はアウトソーシングが当然となる世の中、自分も同僚もリストラされる可能性は高かった。

「はぁ…」
 衝撃的な1日を終え、幸子は帰宅した。只野家が住む家は、幸子が子供の頃から育った家で、幸子にとっては唯一安心できる場所でもあった。
「ただいまー」
 そう言って幸子の鍵がかかっていない家に入って行く。しかし返事は無い。
「誰も帰って無いの?」
 と言いながら、幸子がドアを開けてリビングに足を踏み入れると、酒の匂いがした。
「…?」
 視線を移すと、リビングのソファーで和男が寝ていた。ソファーの周りやテーブルには酒の空き缶が転がっていた。
「ちょっと…どうしたの?…ねえ?」
 ソファーで寝ている和男に近づいてその肩を揺さぶりながら、幸子が言った。
「まだ帰ってくるのは早いでしょ?どうしたって言うのよ…」
 揺さぶる幸子に気付いて、和男は面倒くさそうに言った。
「…クビになったんだよ…」
「えっ…?」
「仕事…クビになった…」
「…」
 和男の呟きに、幸子は絶句して、思考が停止する。
 会社において他人のストレスの受け皿になる以上、幸子自身にもストレスは溜まっていた。それが今まで顕在化しなかったのは、休憩時間中の悩みを共用できる同僚とのお喋りで発散できる物だったためだ。
 しかし、今は状況が違う。悩みを共有できる会社とは違って『無収入』という危機が家で発生している。無収入のストレスは、少ない貯蓄をエサにして益々大きくなり、今度は『借金』という名前の化け物に成長を遂げ、只野家に圧し掛かって来る。
 その未来が頭に浮かんだ瞬間、幸子の怒りが爆発した。
バン!
 気が付けば、幸子は手に持ったバッグで和男を殴っていた。
「どうするのよ!…どうすんのよぉぉぉ!!」
バン!バン!
 幸子は和男に怒鳴り散らし、ひたすらバッグで和男の頭を殴っていた。
「なんで…なんで、2カ月くらいで会社クビになるのよ!?なんでよぉぉぉ!!」
 酔っていた和男も、朦朧とした意識の中で、妻の異変を感じ取っていた。
 バン!バン!
 幸子は叩きつける手を緩めない。そして幸子は半泣きになりながら、和男に掴みかかった。
「どうせ、前の会社を辞めたのだって、アンタが使えない社員だったから辞めされられたんでしょ!それならなんで、辞めされられないような働き方をしようとか、思わないのよぉぉぉ!!うちの家計どうすんのよぉぉぉ」
パァン!パァン!
 今度は幸子が何度も和男の頬を平手で叩く。
 和男は絶叫し激昂する幸子を見て、「またか」という感想を抱く。前の時もこうだった。幸子は何かあると鬱屈させた不満をこのように自分にぶつけて憂さ晴らしする…それが和男の解釈だった。
パァン!パァン!
 幸子は和男の頬を叩き続ける。
「ぁぁぁ!!!」
「……」
 床にひれ伏して絶叫する幸子を尻目に、和男は缶ビールを開けて口を付けた。
 しばらく泣き喚いて、幸子はリビングから出て行った。
 和男がつまらなそうな表情でテレビをつけ、ビールを飲みながらボーっと見続けていると、
「ただいま」
息子の賢一が帰ってきた。
 リビングのドアを開けると、賢一は部屋の中のただ事ならない様子を察した。
 まず、賢一は、
「……父さん…どうしたの?その顔…」
と、顔を赤く腫らした和男に聞いた。
「…なんでも無い…」
 和男の答えを聞いて、賢一は「そう…」と言って、リビングに散らばった空き缶を片付ける。
 缶を片付けると賢一はリビングを出て行った。しばらくしてリビングに戻ってくると、
「父さんさ…母さんが起きてこないんだけど…」
と和男に聞いてくる。
 賢一がこう言う場合、寝室に籠った幸子が怒鳴って賢一を追い返した場合だった。
 それを分かっていた和男は、
「…なんでも無い…」
と、静かに答えた。
「……そう…」
 賢一は答えると、それ以上何も言わず台所に入る。パタン…と冷蔵庫を開ける音がした。賢一が夕食の支度をする合図だった。
 そんな音を聞き流し、和男はテレビに視線を向けたまま缶ビールに口をつける。
(あの時もそうだった…)
 賢一は中学性の頃、イジメに遭った。和男はよく知らないが、壮絶なイジメで、賢一は不登校になった。
 朝起きて、さっさと仕事に行く和男に対し、幸子はずっと賢一に学校に行くよう呼び続けた。賢一はそれでも、幸子に答えなかった。
 やがて幸子の精神は荒れた。今日のように和男が帰って来るなり殴りつけて、文句を言った。そして渋々と和男が賢一に呼びかけると、その姿を見て幸子はまた激昂していた。
(俺のせいじゃ無いのに…)
 幸子に殴られながら、和男は当時、そう思っていたのだった。
 やがて、賢一は部屋から出て「図書館に行きたい」と幸子に言った。幸子が理由を聞くと「宮沢賢治の作品を読みたい、宮沢賢治を知りたい」と言った。ネットゲームでたまたま『雨ニモマケズ』を知った事がきっかけで、宮沢賢治に興味を持ったと言うのだった。
 その日から、賢一は見違えたように生き生きと図書館に通うようになった。ノスタルジックで幻想的に生を謳う宮沢賢治の作品に賢一は心引かれ、そして賢一の心は救われたのだった。今ではちょっとした論文を書いては投稿したりしているらしい。
 賢一が引きこもりをやめて図書館に行くようになると、幸子に代わって家事をするようにもなった。結果として、幸子が家事を放棄した日、只野家では賢一は進んで家事を行なうようになっていた。
「父さん…夕食できたけど…」
 賢一が和男に呼びかけるも、和男は「ああ」と呟いたまま、テレビを見続けその場から離れなかった。
 気が付くと、和男は再びソファーの上で寝ていた。テーブルの上には、和男の分の夕食が皿に置かれていた。
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