第1話

文字数 2,790文字


  1 
 
 大切な あなたのいのちは 宝物
 
 川口駅東口。バスターミナル前のセンスレスを嘲笑って、広場の「働く歓び」像に唾を吐き捨てる、そんな平日の昼間。私は今日も今日とて図書館に吸い込まれてゆく。
図書館は、冷房の塩梅が素晴らしい上に退屈も潰せて、長時間居座っても奇怪な眼差し一つ向けられない。ニートにとって最高の娯楽施設だ。  
 私は「物憂げで聡明そうな女子大生」と思われたい一心で海外文学を物色して、惹かれた背表紙を一冊、手に取って読書ブースに向かう。雑誌(どうせ低俗な内容だ)を眺めるジジババ相手に優越感を覚えながら、文庫本につらつらと目を滑らせてゆく。
 ……やっぱり目だけが滑ってゆく、に訂正する。バックストーリーの説明が無駄に長ったらしい。序盤とはいえ話に進捗がなく、世界観に没入しづらいデイビット・カッパーフィールド式。こんなのは作者のマスターベーションに他ならない。
 読書開始から五分。私は眉根を揉んで、やおらと立ち上がった。読書の伴侶、ニコチンの摂取の儀を執り行うことに決める。

 時間帯のせいか、喫煙所に人混みはなく先客は数人の学生のみ。
 アイコス片手に、マッチングアプリの話題を甲高い声で喚いている。他が相槌を打てば「うんうん」と相槌を入れて、他が笑えば「ギャハハハハ!」と連れられて笑いだす。
「マジで有り得ないでしょ? ホント乱暴なの」
「ヤバ! でも吹いちゃったんでしょ?」
「それって相性がメッチャ抜群ってことじゃん!」
被害妄想は百も承知だけれど、どことなく私に注意を向けている感じの声音が嫌だった。「猿の学生さん」と声を絞って悪態をついてみると一人の視線がこっちに向いた。私は目を伏せて気が付かないフリをする。
 ブー! ブー!
 そんな時だった。私のスマホのバイブレーションと気がつくまでに少し時間が必要だった。私は灰皿ボックスに吸殻を押し付けて、ようやっと通知に目を通す。
「ちっ」
 自然と漏れ出た舌打ちがうっかり学生を勘違いさせたみたいだ。報復と言わんばかりに、じろりと鋭い眼光を私に向けてきた。
 
 件名 お父さんです。
 お父さんのメールアドレスをブロックしているようなので、お母さんのを借りました。
 凛香に仕送りが可能なのは、お父さんが仕事を頑張っているお陰です。
 そもそも、親への態度としてメールアドレスのブロックは間違っています。誰に教わるでもなく、そんなことは理解するべきです。すぐにブロックを解除して下さい。
 それからいい加減、大学を中退したからには仕事を探して下さい。うちは決して裕福ではありません。はっきり言って、仕送りを頼られているのは迷惑です。
 確かに凛香が、気持ちの切り替えが苦手なのは、一人っ子ということもあって甘やかして育てたお父さんの責任かもしれません。幼少期の内に挫折体験を、しっかりと与えておくべきだったと後悔しています。
 しかし俯瞰的にみてみると、やはり凛香の努力不足と言わざるを得ません。
 例の法案も施行されたことだし自立して下さい。社会に迷惑を掛けるために、お父さんとお母さんは、あなたを育てた訳ではありません。社会や親への感謝は形で示すようにして下さい。
 早急な返信を。お父さんより。
 
 学生達の影は既に霧散していて独り言ちても誰にも目くじらは立てられない。
「恥ずかしい親だこと。残念ながら馬鹿に付ける薬は存在しないんだよ」
 奥歯を噛みしめて文面をもう一度読み返す。そもそも「俯瞰的」ではなく「客観的」が正しい日本語だろう。内容も幼稚な精神論で「勝手にまぐわったあなたがたの責任では?」って指摘だけで論破が敵ってしまう。
「馬鹿みたい。ファックユー」
 何もない宙に手を払って、ブロック機能をタップ。それから鼻を鳴らしてスマホの電源を落とす。
 私は、世間の馬鹿共とは違う。
 ソクラテスでもエウリピデスでもなく、私こそが真の智者だ。
 人間本性に則った理性者の究極目的……因果も何もかもを超越した、不可能なはずなのにそれでもそこにある。「至高」。
 隷属の世界から独立した仙人的で貴族的な、社会のアナーキスト。古代ギリシア的で正しい人間の在り方、「ニート」。
 私は真理を知っていて、なおかつ実践も欠かさないのに馬鹿共は私へのディスリスペクトフルな態度を改めようとしない。馬鹿は馬鹿だから、「真理、幸福、人間本性」の体現者……「至高のニート」たる私を平然と差別し迫害する。
 つまるところソクラテスの時代から人類は一歩も進歩していないのだ。賢者には毒を呷る以外の選択肢が用意されていない。
「お前らの要望通りに生きると思うなよ。人格を喪失した資本主義の豚どもが」
 私は二本目に火をつけるのと同時に、相好を顰めた。愛煙、ブラックデビルの甘ったるい匂いには毎度、辟易とさせられてしょうがない。
 
 鬱蒼とした心持ちのまま読書スペースに戻ると女性が私の場所に腰を掛けていた。
「あの、ここ、私の席なのですが」
 読書に水を差すのは悪い気がするけれど、手元の文庫本は私が借りてきたものに違いなかったから話しかけざるを得なかった。反応が返って来ないので正面に回り込んで「すみません」ともう一度、声をかけようとした時、
「検索機が貸出可の表記だったので読書スペースにあるのでは、と。的中でした」
 女性がパタン、と本を閉じて顔を上げる。綺麗な人だった。年齢は三十くらいでポニーテール。薄化粧に淡いピンクの口紅。その双眸は、吸い込まれそうなほどに深くて黒い。
「栞の位置は変えていませんので」
 彼女は何事もなかったかのように文庫本を差し出してくる。私は間抜けに「どうも」と返事をして受け取った。「どいて下さい」なんて口に出せる訳もなく、曖昧な表情を浮かべて急場を凌いでみたところ、
「その中編集、訳者の解説が面白いですよ。名作と呼ばれる理由が分かります。作者と作品の解像度が上がるので先に読むのを個人的にはおすすめしたいです」
 私の期待に反して、女性は会話を切り上げてはくれなかった。
「へえ。そうなんだ。タイトルに惹かれて手に取っただけで、作者の名前も中編集だってことも知らなかったんですよ。早速、先に読んでみますね」
 微笑んで軽く会釈をしてみせる。
「ところで図書館には、よくいらっしゃるのですか?」
「……ええと、そうですね。大学の講義がない日によく来ます」
 質問の意図が読み取れなくて一瞬だけ狼狽えた。
「卒論の準備がそろそろなので。……と言っても学術書ではなく、うっかり海外文学を手に取ってしまったのですけれど。いつもの悪い癖で」
「悪い癖、ですか。なるほど」
 そう言うと、今度こそポニーテールさんは立ち上がってくれた。
「今日は仕事が休みなので。また明日にでも改めて」
意味深なことを呟いてポン、と私の肩を叩く。彼女はそのまま日本文学の単行本コーナーに消えていった。
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