第2話

文字数 2,231文字


  2
 
 閉館時間が迫った頃合い。街は通り雨に襲われていた。
 他人が避けるのを当たり前と思っていそうな、塾帰りのガキのデカい傘に殺意を抱いた帰り道。本当は足を引っかけて、胸ぐらを掴んで「お前なんて凄くも何ともないんだぞ!」と、拳を横面に飛ばしてやりたかった。もちろんそんな度胸がある訳もなく、私は小市民らしく真っ直ぐアパートに帰宅。
「明日は図書館に行くのやめよう」
 折り畳み傘をすぼめて玄関の鍵を回す。見ず知らずの人間に「また明日にでも改めて」と肩を叩かれたことに、ようやく恐怖を感じ始めていた。
 部屋が蒸し暑い。明かりよりも先に、リモコンの冷房ボタンをタッチ。
「……あれ?」
 何回押しても反応がない。「電池切れか、コンビニで単三買って来なきゃ」とげんなりしつつ、今度はお風呂の追い焚きボタンを押す。
 二回、三回と力強くタッチを試みるも、こっちも反応がない。
 嫌な予感に襲われて、恐る恐る台所の蛇口を捻ってみる。一滴たりとも出てこない。今更ながらにプルスイッチを引っ張ってみたものの、やっぱり照明も点灯しない。
 スマートフォンを起動して、慌てて口座を確認。電気、ガス、水道。料金は確実に引き落とされていた。仕送りを止められたのかもと焦ったけれど、冷静になってみれば、その日の内に生活インフラが止まる訳がない。
 薄暗い部屋の中で軽く自分の頬を叩く。落ち着け、私。
 手提げカバンにブラックデビルとスマートフォンの充電器だけ放り込んで、私は家を飛び出した。時刻は九時半。残り僅かな充電でネカフェを検索して料金を比較。
「落ち着け。一回冷静になれ」
 ライターに火をつけて大きく深呼吸。煙を吐くのと同時に肩の力も抜く。
「大したことじゃないって。年金の免除だって申請済みなんだし」
 取り敢えず明日、大家さんに連絡を取ってみよう。公共料金は支払っているのに使用不可ということは、問題は借宅の方だと考えるべきだろうと一人で合点する。
 
 ネカフェで昏々と眠りについて翌日。ドリンクバーのコーヒーだけ口に含んで、朝の一服へ。本当はすぐに大家さんに電話を掛けるつもりだったのだけれど、その前にやっぱり図書館に行ってみることにした。
 ポニーテールさんに「図書館には、よくいらっしゃるのですか?」と尋ねられた。あの質問には、今になってみれば「家にいられなくなったから図書館に来たのか?」という含みがあった気がした。深読みかも知れないが、私は直感を無下にしないようにしている。
「あっ」
 喫煙室の扉を引いてすぐ、私は目を丸くした。
 スーツ姿のポニーテールさんが紫煙をくゆらせながらベンチに腰かけていたのだった。銘柄がハイライトなことに、ちょっと感心。ハイライトとラークを吸っている女は格好いいと相場は決まっているから。
「昨日ぶりですね。言ったでしょう? 「また明日にでも改めて」と」
 そう呟いて、彼女は隣に座るように促してきた。私はたばこを取り出して、どこから切り出そうか逡巡しながらライターに火をつける。
「へえ、凛香さんはブラックデビルを吸うんですね。珍しい」
「……え?」
 私は煙を吐いて、数秒硬直した。
「ああ、そうですよね。ブラックデビルってあんまり見かけませんもんね」
 ヘラヘラと愛想よく笑いながら、
「ええと、どうして私の名前を?」
 肩をすくめて冗談めかしつつ訊いてみた。
 喫煙室が、しばしの静寂に包まれた。冷房の駆動音だけが部屋に響き渡る中、ポニーテールさんが無言で首を巡らせて胸ポケットの名刺を手渡してきた。
「JRAの鈴野さん、ですか?」
「改めまして遠山凛香さん。少しだけ、お時間を頂けませんか?」
 仏頂面で有無も言わせぬ雰囲気。私が不承不承に頷いたのは不可抗力に他ならない。
「その、JRAと言われても……競馬やったことないし」
「そっちのJRAじゃなくて、ジャパン(J)労働(R)アソーシエイション(A)のJRAです」
「ジャパン労働アソーシエイション?」
「ご存じありませんか。テレビでもネットでも結構騒がれているのですが」
 テレビは観ないし、SNSはアンインストールしている。他者からの承認に依存だなんて、私の「至高のニート」像に反するから。
「ご自宅の電気、ガス、水道を止められた理由は分かっていますか?」
 私がかぶりを振ると鈴野さんは眉を顰めた。
「しかし再三、通達があったかと」
「郵便ポストなんてここ数ヶ月、空けてないです」
「そうですか」
 鈴野さんの瞳は冷たい。
「少子高齢化を受けて「引きこもり撲滅法」が施行されたんです。施行に伴い、引きこもり宅の生活インフラは停止されました」
「は? 引きこもり撲滅法?」
 ふと、父親から送信されたメールを思い出した。そういえば「例の法案」がどうとか、文面に書かれていたと記憶している。
「勤労の義務ですので」
「そんなやくざな」
「条件付きではありますが、猶予の申請が可能です。いきなりの社会復帰が厳しいのは国だって承知していますから。私が本日、参上したのは……」
 鈴野さんが話を進める中、私は国会議事堂に火炎瓶を投げる妄想に耽り始めた。
 免除ではなく猶予ってことは、年金制度と同じだろう。時期を引き延ばそうが最終的には資本主義の世界に引っ張り出されてしまうに決まっている。そんな悪夢から逃れるためには、革命を起こして国家転覆を図るくらいしか思いつかない。
「凛香さん? 聞いていますか?」
「働きたくないです」
 私は澄み切った眼で鈴野さんの顔を見つめた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み