第1話 一話完結

文字数 4,954文字

 井乃美屋の手代である信吉は、江戸の外れにある小さなあばら家の前に立っていた。
 林の中にポツンと一軒だけ建っているこの家には、お松という二十代半ばと思われる女が一人で住んでいる。不愛想で人を寄せ付けない雰囲気のある素性の知れない女だが、裁縫の腕はたしかだった。
 仕立屋を営む井乃美屋では半年前からお松に着物の縫製を依頼するようになり、反物を届けて出来上がった着物を受け取るのが信吉の仕事でもあった。
「お松さん、井乃美屋の信吉です」
 信吉が戸口の前で待っていると、中から心張棒を外す音が聞こえてきて、引き戸がゆっくりと開いた。顔を出したお松に無言で中に入るよう促され、信吉はいつものように板の間に上がって座る。
 他の職人の家ならお茶でも出て来るところだが、お松は白湯さえ出さずに信吉の前に腰を下ろした。
「手ぶらなようだけど、今度はどんな物を縫うんだい?」
 信吉は首を横に振った。
「今日は仕事の話で来たのではないんです。実はお松さんに確かめたいことがありまして」
 お松は怪訝な表情を浮かべた。警戒している様子が明らかに見てとれる。
「仕事じゃないんだったら、帰っておくれ」
「そう言わずに、話だけでも聞いてください」
 信吉は頭を下げた。しばらく下げたままでいると、お松のため息が聞こえてきた。
「仕様がないねえ、手短に頼むよ」
 信吉はお松の目を凝視した。
「お松さんは、鎌倉に住んでいたお鈴さんではないですか?」
「お鈴? あたしは昔から松って名だよ。お鈴なんて名乗ったことはないし、鎌倉に住んだこともない。これで用は済んだだろう。さあ、帰っておくれ」
「待ってください。もう少し話をさせてください。私は五歳の時まで鎌倉に住んでいたんですが、その時に同じ長屋に住んでた人がお鈴さんなんです。お鈴さんには『信太ちゃん』と呼ばれ、ずいぶんと可愛がってもらいました。手前にとっては母のような人でした」
 信吉は手代になってからこの名前を名乗っているが、子供の頃の名は信太郎だった。信太郎は物心がつく前に母親に死なれ、幼少の頃は鎌倉で父親と二人暮らしをしていた。父親は酒乱で、酔うと幼い信太郎に暴力をふるう男だった。見かねた長屋の者がやめさせようとしたこともあったが、父親が暴れるので、誰もが信太郎親子には関わらないようにしていた。そんな中で、お鈴だけが優しく接してくれたのだ。
 お鈴は独り者で、お守り袋を作って生計を立てていた。お守り袋を寺社に納めに行く以外は家にいることが多かったお鈴だが、長屋の者たちとは疎遠だった。その原因はお鈴にあった。長屋の者たちが話し掛けても、お鈴が素っ気ない態度をとるので、自然と人が離れていったのだ。
 そんなお鈴だったが、信太郎だけには違っていた。信太郎をこっそり家に招き入れて菓子を食べさせたり、遊び相手になったりしていた。父親に虐待されている信太郎を不憫に思っていたのかもしれない。
 信吉は懐からお守り袋を取り出した。肌身離さず持っていたので擦り切れている。
「このお守り袋はお鈴さんに貰った物です。見覚えがありますよね」
 お松は、お守り袋に目を落とした。
「知らないね。それはいつ貰ったんだい?」
「手前は今二十五ですから、二十年前になります」
「二十年も前のことかい。ところで、そのお鈴さんとやらはその時何歳だったんだい?」
「二十五歳くらいでした」
「じゃ、今は四十五じゃないか。あたしはそんなに老けて見えるのかい?」
「いいえ、お松さんは二十代に見えます」
「だったら、あたしがお鈴って人じゃないのはハッキリしてるじゃないか」
「お松さんに初めて会った時、顔立ちがお鈴さんに似ているなと思いました。でも、雰囲気が違うし、話し方も違う。それに年齢が合わないので他人の空似と思っていました。だけど……見てしまったんです」
 お松は一瞬息を止めた。緊張した声で訊いてくる。
「何をだい?」
「先日、家の裏で結った髪を解いて洗っていたでしょう。手前はその後ろ姿を見たんです」
 お松は拍子抜けしたようだ。
「髪ぐらい、誰だって洗うだろうよ」
「お松さんが前に垂らしていた長い黒髪を桶の中から引き上げた時、着物の襟がずり落ち、亀のような形をした赤い痣が肩の後ろにあるのを見たんです。見覚えのある痣でした。でも、その時はどこで見たのか思い出せませんでした。もやもやした気分で店へと帰る道すがら、ふと、お鈴さんの肩を揉んでいるときのことが浮かんできたんです。お鈴さんの肩の後ろにも同じ痣がありました」
「子供の頃の思い出だろう。思い違いじゃないのかい?」
「いいえ、確かに同じ痣でした。不思議に思い、番頭さんに話しました。すると番頭さんは、お松さんが八百比丘尼に違いないと言い出したのです」
「八百比丘尼? 聞いたことないね」
「千年以上前に人魚の肉を食べ、不老不死になった女だそうです」
 お松は笑い出した。
「人魚なんている訳ないじゃないか。そんな与太話を信吉さんも信じているのかい?」
「確信は持てないですが、そう考えると、つじつまが合うんです」
 お松は呆れたとも言いたげに首を横に振った。
「あたしは八百比丘尼なんかじゃないよ。これで納得しただろう。もう、帰っておくれ。くだらない話に付き合っている暇はないんだ」
 邪険にされても、信吉は食い下がる。
「まだ大切な話をしていません。番頭さんには光八という弟がいて、お松さんのことを話してしまったんです。光八は『ましらの光八』という二つ名を持つ悪党で、お松さんの肉を喰らって不老不死になるって言い出したんです」
 お松は深いため息をついた。
「呆れてものも言えないよ」
「お松さんには馬鹿馬鹿しく思えるでしょうが、光八は本気なんです。悪事を散々重ねている奴なんで、捕まったら死罪になってもおかしくないんです。だから……」
「死なない体を手に入れるために、必死だってことかい」
 信吉はうなずいた。
「光八はいずれここに来る筈です。その前に逃げましょう」
 信吉が立ち上がってお松に手を差し出したが、その手はお松に払い除けられた。
「大丈夫だよ。ほっといておくれ」
「放ってなんておけません。手前が原因なんですから」
 信吉とお松が押し問答をしていると、戸が勢いよく開き、大柄で人相の悪い男が入ってきた。腰には長ドスを差している。光八だ。
「あっ、おめえは兄貴ところの信吉じゃねえか。さては抜け駆けして喰らうつもりだな」
 光八は怒りのこもった声で言うや否や、土足で板の間に上がって信吉に殴りかかってきた。信吉は咄嗟に身を守ろうとしたが、顔を殴られて床に倒れ込んだ。
「お松さん、逃げて」
 信吉は必死に叫んだが、お松の二の腕は光八にがっちりつかまれていた。
「おめえがお松で間違いねえようだな」
 お松は絶体絶命の状況に追い込まれているのに、平然としている。
「お前さん、光八だね。話は信吉さんから聞いたよ。あたしを食べて不老不死になろうとしているんだってね。だったら、食わせてやるよ」
 お松は右手で光八の腰に差してある長ドスを五寸ばかり抜き、つかまれている左腕を動かし、手首を刃の上にのせて滑らせた。左手首から鮮紅色の血が脈を打つように噴き出す。
「さあ、飲みな」
 光八の手を振りほどいたお松は、左手首の傷口を光八の口に押し当てた。光八はその手首をつかみ、流れ出す血をゴクゴクと飲み始めた。口からあふれ出た血が滴り落ちる。
 信吉は、目の前で繰り広げられている異様な光景が現実に起こっていることとは思えなかった。止めることも忘れ、ただ呆然と見ていた。
 しばらくして、光八がお松の手首を乱暴に離した。口の周りが血で赤く染まっている。その姿は地獄絵図に描かれている鬼のようだ。
 信吉の背筋に悪寒が走った。夢から引き戻されたような感覚を覚え、恐怖で体が震え出した。
「おめえ、震えてるじゃねえか。意気地のねえ奴だ」
 光八に笑われても、信吉は震えたままだった。
「信吉さん、お前さんも飲んでみるかい? 遠慮しなくていいんだよ」
 お松は血まみれの手首を差し出した。既に血は流れ出ていない。
 信吉は激しく首を横に振った。
「そんな恐ろしいこと、できる筈がありません」
「そうかい」
 お松はホッとしたような声で言うと、着物の袖で手首の血を拭った。ある筈の切り傷がない。跡形もなく治っていた。
 光八が満面に笑みを浮かべる。
「やっぱり、こいつは八百比丘尼だったんだ。俺は不死身になった!」
 光八は歓喜の声を上げて小躍りを始めた。しかし、その声は段々弱々しくなり、動きは緩慢になっていった。髪が白くなり顔のしわが深くなった光八は、へたり込むようにして床の上に倒れ込んだ。
 信吉は恐る恐る光八の元に這って行った。光八は老人の姿になって事切れていた。
「これは一体……」
 信吉が見下ろしているお松に視線を向けると、お松は眉間にしわを寄せていた。お松は何かを決心しているかのように見えた。
「たまに現れるんだよ。急に歳をとって死んじまうって知らずに、あたしの肉を喰らって不老不死になろうとする輩が。この前は百年くらい前だったかね」
 信吉が百年という言葉に驚いていると、お松が隣に座った。お松の手が信吉の手の甲に重ねられる。
「信太ちゃん、大きくなったね」
 お松の声はお鈴の優しい声になっていた。口調もお鈴のものだ。
「やっぱり、お鈴さんだったのですね」
 お松は微笑みを浮かべてうなずいた。
「でも、八百比丘尼じゃないのよ」
「えっ、違うのですか?」
「ええ、でも不老不死ではあるの」
「どういうことですか?」
 信吉は訳がわからず、お松の顔を覗き込んだ。
 お松は重ねていた手を戻し、座り直す。
「七百年くらい前、私は山あいの小さな村に住んでいたのよ。ある暑い日、川に水を汲みに行くと、若い尼様が川に入って水浴びをしていたの。旅の尼様のようで、荷物は岸に置いてあったわ。その荷物からは嗅いだこともない美味しそうな匂いが漂っていて、いつの間にか私は中から肉を取り出していたのよ。いけないと思いながらも空腹に負けて一口食べてしまった時、尼様に見つかったの。尼様は怒りもせず、ただ『あなたは大変な罰を負ってしまった』と言って立ち去ったわ」
「その尼様が八百比丘尼だったのですか?」
「わからない。でも、その日を境に病気にならなくなり、怪我をしても直ぐに治るようになったの。それに、村人は皆年をとって老けていくのに、私だけ若いまま。初めは羨ましがられたけど、段々気味悪がられるようになったの。夫が死んだ頃には妖怪扱いされていたわ。子供も年をとって死ぬと、もう庇ってくれる人はいなくなってしまった。私は村を出るしかなかったのよ。でも、どこに住んでも同じことの繰り返しだった。それで、不老不死なのが知られないよう同じ土地に長く住まないことにしたの。人とも深く関わらないようにしたわ」
 信吉の頭の中で様々のことがつながった。
「そういうことだったのですか。苦労はあったでしょうけど、年をとらず病にもならず死にもしないなんて、羨ましいです」
「普通はそう思うでしょうね。だけど、尼様の言ったことを思い出して」
「大変な罰を負ったということですか?」
「そうよ、私は罰を受けてるの。人は老いたら、体が衰え、若い時にできたことができなくなって悲しい思いをしたり、病気や怪我をし易くなって痛みで苦しむことが多くなるものよ。死んだら、その苦痛からは逃れられるけど、死ぬことの不安や恐怖はそれ以上のものよね。不老不死になれば、老いや病気、死ぬことの苦からは解き放たれるけど、苦は無くならないの。例えば、親しい人を亡くしたり、人の醜さを見るのも苦しいことよね。それに、わかり合える人がいなくて孤独ってことも。生きることで起こる苦はたくさんあるのよ。こんな体になってわかったけど、生きるってこと自体が苦しみなの。私は永遠の牢獄にとらわれた囚人なのよ」
 信吉はお松の苦しみを少しでも和らげたかった。
「僕がずっと一緒にいます。そうしたら、孤独の寂しさだけはなくなますよね」
「ありがとうね。でも、ずっと一緒にはいられないの。信太ちゃんもいずれ死んでしまうから。信太ちゃんの最期を看取るのはつらいわ」
 お松は悲しそうに微笑んだ。

<終わり>
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