夢の記憶、第二部、春の夢

文字数 6,188文字

夢の記憶 その二十五
 夢の果て

「希望」といえばいいのでしょうか、誰しも若い頃はその「夢」を見、追いかけたのでしょうね。
 が、こう老い耄れてくると、長い時の流れと風化みたいなものも手伝って、諦めというか、そんなものへの執着が薄れてゆきます。いえ、無くなるということは無いのです。それは、心の何処か、しっかりとした残滓として確かに存在はするのです。
 今朝、ツィーターに
    「夢の果て 残日録の情け無さ」
なんて拙い一句を投稿いたしましたが、ははは、老い耄れ無残というところでしょうか。

 明らかに「残滓」、日記の端々に芬々。ははは、哀しいくらいに芬々としています。
 ですが、そんな自分が厭ということはありませんね。いえ、決して老い耄れて五感が鈍くなったからではございません。老い耄れるということは、自分に対しても寛容になるのでありましょうか、生まれつき、「他人に厳しく己に甘い」ということは確かなのでありますが、それを差し引いても、この頃は物事を余り深く追求してゆくということが無くなって、「自分に甘く」なってきましたね。
 でありますから、厳しさの薄れた生き方しかできなくなっている。
 若き日の夢の残滓を、「朝死ぬ」かも知れぬ老い耄れが、未だ己に鋭く突き付けながら生きている、何ぞというのも少し怖いお話のような気も致しますし、例えそれが理想であろうとも、自分にはできそうもありませんから、のんびりと日向の温もりの刻を噛みしめながら、残り少ないであろう?日々を、「夢の残滓」に寄り添いながら無様に生きてみると致しますか。
          ー夢の記憶、その二十六へ続くー


夢の記憶 その二十六
    老残の夢

 無沙汰の長かった釣り友達より、「S川へ行きたい」という、二十年振りにもなるかなぁと思える電話。
 仕事の都合や何かで無沙汰になってそれきりであったが……。
 勿論、懐かしいその声、語り口に、断る理由は無い。

 S川は峻嶮であり、一つ間違えれば危険この上ない川である。
 もう十五年以上も行っていないのだという。
 伽が居なくなったのが一番の因であろうことは察せられたが……。

 途中で落合い、互いの老いを確認し?笑い合い、S川を目指す。
 が、生憎の雨、それも真夜中に強く降ったらしく、S川は少し増水気味。
 渓が狭く両岸が切り立つS川は、こうなると釣りを出来る場所は限られてくる。かち合ったもう一組の釣り人と話し合い、彼らは少し歩いた上流へ、僕らは車止めから近い滝壺まで。
 明るくなるに連れ止み始めた雨に濡れながら、谷底へ下る。
 ははは、かなりヤバそうな水量である。いや、身を守るには大した心配はないのであるが、釣りのポイントが限られ、まともに竿を出せそうなのは、大場所二か所だけという有様。
 何とか竿を出すが、かなり困難な釣りである。案の定釣り辛く、岸辺からでは釣れないと判断し、水を被った中洲へ渡ろうとしたのだが、彼が刹那、気に首を横に振る。
 どうやら足元が覚束なく、そんなには強くない膝上あたりの流れを渡るのが怖いらしい。手を貸しながらなんとか中洲の頭に入るが、うーん、それでも好ポイントまでは届かないようで、岩魚は釣れてくれない。
 その内少し増水してきた気配に気づき、退散。少し下流の安全なところでやっと好い型の岩魚を釣り上げて、一先ずホッ。が、次の大きな岩魚を取り込みながら逃がしてしまうという失態。まっこんなこともあるさと粘るが、何故か、釣れてきた岩魚をポイントに逃がしてしまうと、次の岩魚は釣れないことが多いのである。
 粘ってみたが、魚信は途絶え、彼が好い型を一匹、僕が五匹。それで諦め、急崖を直登、車へ引き返す。 

「うーん」S川は無理か、ならば、川原もフラットに近く、比較的安全なK川へ移動。
 K川は小さな川であり、川に沿って林道もあるし、山菜採りの人にも出会う、まぁ事故の起こる可能性は無いに等しいし、岩魚もそこそこ釣れる、穴場といっても過言ではあるまい。
 ここを教えておけば、まぁ彼独りの釣行でも大丈夫、それに、そこそこ釣れるし、彼の好む山菜もそれなりに採れるしと、僕は判断したのであるが……。
 雨が幸いしたか、彼は何とか頑張って幾匹かをキープ。
 どうやら、今夜近所の行きつけの赤提灯で、「もし釣れたら」と、常連たちと岩魚酒パーティを開く約束をしていたらしい。
「獲らぬ岩魚の何とやら」と笑いながら、これで約束を果たすことが出来ると喜んでいたので、僕の岩魚酒サイズも引き取ってもらった。
 別れ際、彼がK川への道順を確かめていた。どうやら気に入ってくれたらしい。

 恐らく彼は、老いるに従い衰えてゆく自分の体力に、今、詰まり今シーズンでなければもう二度と「憧れのS川」へは釣りに行けないだろうと悟り、僕にならサポートしてもらえると連絡を入れてきたに違いない。
 S川は昔、今よりは、もっともっと素晴らしい「岩魚たちの楽園」であった。それは勿論、釣り人にとっても「楽園」であった。
 老いて体力の落ち、普段釣りに行く渓流で、自分の体力の限界を感じ始めたとき、彼は、昔僕と通った「素晴らしいあのS川を、あの岩魚をもう一度釣りたい」と夢見たのであろう。
 単独で行くにはもうその自信も無い、僕が元気であればと希望を繋ぎ、電話を入れてきたのであろうことは確かである。

 人は生まれ、そして死に逝く。抗うことのできないその定めの中で、果てしない夢を見るのである。
 老いという誰もが避けては通れない道の中で、ふと懐かしき夢の欠片を追う時、もう一度と思うことがままあるに違いない。その夢の欠片にもう一度会いたいと願う哀愁みたいなものに、老いし者は、縋りつこうとでもするかのように執着するのであろうか。 
 他人はそれを「老残の夢」、戯事と嗤うのかもしれない。が、それは僕にとっても切実な夢、その「老残の夢」を、僕は嗤えない。
 よくぞ僕を思い出し頼ってくれた、「ありがとう」と彼に感謝するのであった。
                 -老残の夢 終わりー
                   その二十七へ続く


夢の記憶 その二十七
   此処は……。

「ここは何処だ」
 目が覚めて、「今見ていた夢の風景は何処なんだろう」と思うことがままある。
 夢の風景なんて、自分の記憶の何処かに在るものに違いないと、僕はずーっと信じてきた。
 が、どうしても行き当たらない記憶の中の風景、夢の風景。
 忘れ去るということが、人の記憶であるとするなれば、それは忘れ去られたものであるのかもしれない。が、心の何処か奥底に「忘れることのできない風景」として、それが在るなれば、いつかきっと思い出す、若しくは、また見る夢の中で行き当たることがあるのかもしれない。 
 その時、その「夢の中の風景」は、きっと何かを僕に語り掛けて来るに違いない。
 恐ろしいことであるのかも、哀しいことであるのかも、いや、楽しい思い出であるのかもしれない。齢を重ねた今、出来得れば、楽しい思い出の中に居たいと思うのは、誰しも同じであろう。が、夢の記憶は、時として残酷な記憶を容赦なく突き付けてくる。
 悔いることなんぞないと、そう言い切れる人間はいないであろう……。
 と僕は思うのである。
 忘れ去ってもどうということも無い遠い昔の些細なことにいつまでも悩む、「夢の風景は」時として残酷ではある……。
 
    其の二十七「此処は……」 おわり


夢の記憶、其の二十八
 あの町の記憶

 職場だろうか、はたまた友人たちであろうか、十数人のグループで「あの駅」に降り立つ。
 駅は町外れの川岸に在り、橋を渡ると古びた城下町に入る。
 城下町の道幅は狭い、商店の連なりも、あの頃のように賑やかであるが、僕はもうあの時の僕ではなく、大人になってしまった僕である……。
 いつの間にか僕は独り……。
 そう、独りであの懐かしい城下町の中を彷徨っているのである。
 八百屋があって、雑貨屋があって、洋品店があって、金物屋があって、鍛冶屋さんもある……。
 町はあの頃のままなのであろうか、やがて小さく緩やかな坂道を昇り、裏町の中へ……。
 暗いというのではないのだが、商店街の少し華やかな趣とは違い、寂びれた風情の静寂の中に、ひしめき合うように、くすんだ町屋が佇む。
「ここは……」
 古い町家をそのまま食堂にしたのであろう、「大衆食堂」という文字が入口の引き戸の曇りガラスに書かれた少し薄汚い暖簾を潜ると、プンと炒込出汁の匂いが鼻につき、「いらっしゃいませ」と言う老婆のしゃがれ声が奥から聞こえた。
「トントン」と三和土の竈に大鋸屑を詰め込んでいるらしい音が奥から聞こえ、小柄な老人が汗だくになった額を手拭で拭い乍ら、大鍋に湯を沸かす下準備をしていた。
「おやっ」と、遠い記憶に行き当たりそうになったその時、
「K坊かい?」と、その老婆がしげしげと僕を見た。
 母方の祖父の姉である。
「おばちゃん」
 懐かしさに溢れる僕の感情を抑えるかのように、
「カレー食うかい」と、おばちゃんが不愛想だが、何処かに優しさを感じさせる微笑みを浮かべてカレーを勧めてくれる。
 そうだ、祖父に連れられてここへ来ると、いつも必ず「あのカレー」を食べさせられていたのだ。けれど僕は、本当は、美味しい具入りのあの「大きな三角おいなりさん」と、「赤い蒲鉾が入った素うどん」を食べたかったのではある。
 すれば、奥の竈に大鋸屑を詰めているのは祖父に違いない。が、祖父はこちらを見向きもせずにせっせと竈に向かっている。祖父は寡黙な人であった、誰かとお喋りをしていたという記憶はほとんどなかった。
 一気に色んな感情が僕の中を駆け巡る。
「はいっ」とあの頃のように元気よく返事をし、僕はその感情の中に飛び込んでいった。

 急に暗い食堂が明るくなったような気がした。
「おっ、カレーかぁ」
「俺もカレー」
「俺も」と、いつの間にか狭い食堂に仲間たちが溢れていた。
 広くはないその食堂の奥に、灰色のブラウン管の小さな大昔のテレビが……。
「月光仮面」や「日真名氏飛び出す」なんてドラマをお爺ちゃんと見ていたっけ……、と想い出に耽りそうになるのを、「K坊、カレーのルーを貰って来な」と、おばちゃんが僕に、饂飩であろうか、物々交換の竹の皮に包んだ物を渡して遮った。
 僕はその包を大事そうに抱え、あの賑やかな商店街の方へ坂を下って行った……。
 隅から隅まで見知ったその町を歩く僕は、もう小さなあの頃の僕であった……。

            二十八話「あの町の記憶」 おわり



夢の記憶 其の二十九
 石ころの無い川

 機械文明の進化というものが、人の心を蝕んでゆく。
 いや、それは、極々狭い範囲で特定の人間にだけ想像できることなのであって、普遍的ということは無いのであろう。
 僕の育った川の夢……。
 
 篠竹で作られた延竿片手に、川原の石から石へ跳び歩いた幼き頃……。
 缶切りで開けられた缶詰のブリキ缶を、手指を切らないようにその口のギザギザを潰し、空けた穴に麻縄を通して首からぶら下げ、小石を裏返しては捕まえた川虫を放り込む。それが終わると、釣りの開始である。
「スムシ」と言っていた記憶があるが、まぁ蜉蝣の一種であったのであろう、十センチ足らずの小さな小魚を釣るには好い餌であった。
 釣りの好きな子供は他に居ず、いつも独りではあったが、何物にも代え難い楽しい時間であった。これといって危険を意識するようなことはまるっきりなかったようだし、時折滑りこけて川に嵌ったり、擦り傷や頭にたん瘤を作りはしたが、周囲の大人たちもそれを取り分け心配することはなかったようである。
 小さい子供とはいえ、「I川の河童」と呼ばれていたほどの「川ガキ」であったから、大人たちにとっても、僕はI川の風景の一部でもあったに違いない。
 まぁそれほどに川で遊ぶのが大好きであったからして、その川岸の風景は、老い耄れた今でもけして忘れることはない。
 のではあるが、近代文明への自然のしっぺ返しか、1900年代の後半、相次いで大水害に見舞われ、その風景は一変した。
 
 遠く離れた都会に住む僕は、その数年後、恐る恐るその川岸に立った。
 が、古里の全ての記憶を失くしたような強いショックに見舞われ、逃げるかのように故郷を後にしたのであった。
 そしてまた月日は流れ、2020年、Google mapを恐る恐る覗いた僕は、その川原の姿に更にショックを受ける。
 地球の壮大な時間が作り上げてきたであろう見事な柱状節理の川岸は、近代文明の力で削り取られ、切り刻まれ、只の大きな水路、若しくは排水路と化していた。
「人の命の大切さ」を想えば、致し方のないことなのではあろう。
 が、さらに驚いたことに、その川原には、石、そう、僕が跳び渡って歩いたあの石ころたちの姿が消え失せていたのである。
「排水路に、水の流れを遮る石は要らない」のであろうか、河原の「甌穴」群さえ平らに奈良され消え失せていた。

「故郷の夢」
 その一番大切であろう、水の流れのある風景。
 あれから、僕の「古里の川の夢」は、あの石から石に跳び移りながら遊んだ「兎追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川」の風景では、もうないのである。
 僕ももう年老いた、何処の川なのであろうか、川岸で遊ぶ夢を見る時、僕は必ず石ころを跳び損ねて転んだり、川岸の崖から転げ落ちてゆく夢を見るのである……。
 ははは、老い耄れたから転んだり、落ちたりするのではあるまい、「夢の記憶」は、もう幻、夢ですら見ることのできないものになってしまったのであろうか……。

     二十九話 「石ころの無い川」 おわり
 

第三十話
 春の夢

 時は二千二十一年、春最中。
 
 巷は新型コロナで大騒ぎ、生きるの死ぬのは下々だけさと、まぁお偉い方々は私利私欲最優先、これ見よがし?の我が儘し放題。
 この身に鳥肌が立とうとも、春は盛か、裏の小藪では我眉鳥が気忙しくも麗しき声で鳴く。
 新型コロナウイルスで、死ぬの生きるのは、お医者様と看護師様、そして患者様。
 知らぬ顔の半兵衛を決め込みたいのだろうが、仕方無く泣く決められぬ連中ばかりが、趨勢見ながら大騒ぎ。
「あなたなんかに命預けたつもりは毛頭御座いません」と居直りたいが……。まぁ下々のビンボー人は、なす術の欠片さえ掴めず、「我慢のしどころ」とか「勝負の時です」とか何とか、心伴わぬ言葉の虚しさに、ただただ右往左往するばかり。
 今夜食べてゆく銭にさえ事欠く下々を嘲笑うかのように、我慢を強いるお偉い方々は、何処ぞの高級料理店やクラブで豪遊。その額、なんと一回ン十万円、我々下々の者達は、そんなお金の半分もあったなら、ひと月、いや、ふた月も生きてゆけるのですがねぇ……。

 あっ、いけない、「夢のお話し」でしたよねぇ此処は……。
 という訳で、春の日溜まりの微睡みの中から現実に引き戻され、此処は何処だと目の覚めたビンボー人は、ぼんやりと地獄への旅、つまり唯一の理想世界へ招き入れられる夢を見るべく、またの微睡みの中へ引き込まれゆくのではあります。
 それもまた夢の続き……。
「夢の記憶」の続きでもあるのです……。

     第三十話「春の夢」  おわり
 
 


 
 



 


 
 


 
 


 

 
 
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