第三章

文字数 7,629文字

第三章

数日後。

製鉄所に「確認」のため、野村勝彦、つまりノロが来訪してくることになった。

朝早くから恵子さんは、水穂の部屋を「虫干し」しようと試みた。とにかく、ノロが説教するのを必要最小限にするためだ。自分の苦労もわからない年寄り爺さんに一方的に説教されるのは、もうごめんだ!と思っていた。

「ほら、いつまで寝ているの!掃除するから、おきて!一時間だけでいいから、縁側に座ってて。」

布団に寝ていた水穂を揺さぶり起こして、恵子さんは四畳半のふすまをからぶき雑巾で拭き始めた。

「ほらあ、おきて頂戴。今日はあのうるさい先生が、あんたがちゃんとやってるか、確認のためにこっちに来るそうだから。」

しかし、起きることはせず、嫌そうな顔をして寝返りを打った。

「ここ掃除するから、早く立って縁側に行ってよ!」

恵子さんがもう一度いうと、

「すみません、後にしていただけないでしょうか。」

と、弱弱しく返答が返ってきた。

「だめよ。お昼過ぎには来るって言うから、今掃除しなきゃ間に合わないでしょ、ほら、はやく起きて。」

「後にしてください。いまはちょっと無理です。」

「無理って、どこか痛いの?気分でも悪いの?」

いらだちながら、恵子さんはそう聞いたところ、

「特に何もありません。かったるいだけです。」

という、なんとも期待はずれの答えが返ってきたので、力が抜けるというか、なんともやるせない気持ちになってしまい、ある種の怒りすら覚えてしまった。

「かったるいだけならさ、何とかして、自分を鼓舞してさ、がんばろうっていう気にはなれないものかしらね。とにかくさ、どこも痛くないんなら、体にだって何も異常らしきものはないんだから、そこを自分に言い聞かせて、起きて頂戴。もう、はっきり言っちゃえば、寝ていられたら掃除の邪魔よ!」

「でも、かったるいと、起きても長く起きてられませんよ。疲れてしまって。」

「変なこと言わないでもらえないかしらね。掃除しているあたしの身にもなって!」

それでも、起きようとしないで布団に寝たままだったので、

「もう良いわ。これだと掃除ができないし、人手を借りて、無理やりでも動かさなきゃ。」

終いに、恵子さんはスマートフォンを出して、電話をかけ始めた。

「えーと、090、、、1192か。あ、かかったかかった。よし。」

水穂は、誰にかけているのか推定するほどの余裕もないほど体がだるくて、そのまま寝たままでいるしかなかった。

「あ、もしもし。ちょっとさあ、すぐに来て頂戴。今からね、四畳半の部屋の掃除をしたいんだけど、かったるいといっていう事聞かないのよ。布団ごと動かすとあたしも腰に来るから、手伝って。」

恵子さんは、いつも電話をかけるべき相手にかけたと思い込んで、そういったのだが、思いがけない返答がかえってきた。

「わかりました。30分ほど待ってくれますかね。今楽譜屋なんですよ。そっちに到着するには、どんなに急いでも、30分はかかります。」

いつも予想している返答とは違っていた。

「楽譜?あんたが楽器なんて弾けるわけないのに、何でそんな物を買うのよ?」

あれ、声色が少し違うな?と思いながらも、恵子さんはまだ電話の相手を確認せずに、こういってしまった。

「恵子さん、間違った番号をまわしたんですよ。番号をもう一回確認していただけないでしょうか?」

電話の奥で話しているのは、目的の男の声ではなく、太い男の声である。急いで恵子さんが番号を確認してみると、090から始まって別に間違いはないのだが、最後の4桁だけが、1192ではなく、1129になっていた。

「あ、やだ、ご、御免なさい!あたしったら何をしたんでしょう。ブッチャーにまわしたつもりが、広上先生に電話をかけてしまったとは、、、。」

まさしく、この番号は、ブッチャーの番号ではなく、広上麟太郎の番号だったのである。それに、「わかりやすく」仕事内容を伝えてしまったせいか、麟太郎も何をしてほしいかわかってしまったようだった。

「いや、構いません。今日は特に市民バンドの練習もなく、暇だったのでネタ探しに楽譜屋に来ているだけですから。時間はありますので、そっちに行けます。それに、俺も水穂には、まだまだこっちの世界にいてもらわないと困りますので、逝かないように、できる限りのお手伝いはするつもりでいますから。すぐいきますからね。暫く待っててくださいよ。」

こうなったら頼むしかなかった。偉い人の善意を断ったら、こっちが悪人という事にもなってしまう。恵子さんは、なんと言うとんでもない展開になってしまったのだろうかと思い、すみませんお願いしますとだけ言って、電話を切った。

あーあ、あたしも年だわ。何でこんな単純な間違いしたんだろう。恵子さんはがっかりと、というか、半分放心状態のような感じで、新しくやってくる手伝い人を待った。その間に水穂は、文字通りかったるくて、恵子さんに声をかける事さえできず、布団にねたままだった。

数分後。玄関のドアががらっと開いた。

「おーいきたぞーう。手伝う内容は大体聞いたから、掃除ができるようにすぐに決行しよう。」

「あ、すみません。本当に来て頂けるなんて、、、。」

恵子さんが応答すると、麟太郎はお邪魔しますともいわないで、どんどん中に入ってきて、ついに四畳半までやってきた。

「あ、どうも。お久しぶりです。相変わらず、お前も横になったまんまなんだね。というと、具合はよくならんのか。」

水穂は、挨拶しようとかったるい体に鞭打って、何とか布団に座った。

「すみません。寒くなったせいでしょうか。今日は特に体が重くて。」

「まあ、日頃から、お前がよく使ういいわけだよな。よし、縁側へ出てさ、世間話でもするか。」

麟太郎に肩を叩かれて、仕方なく布団の外に出ることにした。と、いっても体が重たくて立つ気にはなれない。ぐっと手を出して、麟太郎が支えてくれなかったら、間違いなくひっくり返っていたと思う。そのまま、よろよろ歩いて縁側へ出て、崩れるように座った。外は冬らしく寒いので、麟太郎が、体を黒豹の毛布で包んでくれたのが幸運といえた。

「そこで座っててね。くれぐれも、咳き込んで床を汚したりしないで頂戴ね。」

恵子さんは、邪魔者がいなくなって、掃除ができるようになった喜びを味わいながら言った。これのせいで、恵子さんの言い方は、麟太郎にとっても快適さをもたらす言い方にはならなかった。

「ま、気にするなよ。お前が悪いわけじゃないから。まあ、誰でもああいういやみをいいたくなるときもあるんだ。聞き流しておけ。」

麟太郎が、そっと励ますが、丁度このとき冷たい風が入ってきて、返事の代わりに咳き込んでしまうのであった。

「ほらあ、又やってるう!頼むから汚さないで頂戴ね。後始末するのはこっちなんだからね。頼むわよ。」

また恵子さんの声が聞こえてきたが、

「いいよ、無理に出すもんをためておくのが一番悪いからな。」

と、麟太郎は訂正した。水穂は言葉はないが、咳き込んで返答を返した。麟太郎が、ほらほらと言って、彼の背をさすってやった。

「ごめん下さい。」

不意に玄関から声がした。丁度そこで掃除が終わった恵子さんは、

「すぐにお通ししてくるわ。」

と玄関先に向かった。

「おい、一体誰だよ。」

麟太郎がそう聞くが、返事はできなかった。

「あんまり辛いなら、断ってやっても良いぜ。」

麟太郎はそういうが、恵子さんが玄関先で何か話しているのが聞こえてきた。そのうち、中に入ってきて、こちらへ向かってくるのがわかった。

「もう散らかってどうしようもないですけど、どうぞこちらにいらしてくださいませ。」

という恵子さんの声が聞こえてきた。

「で、その後どうですかな?」

しわがれた老人の声だった。

「あ、はい。おかげさまで今日は布団から出て、知り合いの指揮者の方と、一緒に話しています。今日は私に、少し部屋の掃除をしてくれないかとお願いしてきましたので、それで私、喜び勇んで一生懸命掃除していましたわ。」

やれやれ、恵子さんも身勝手というか、嘘つきだなあと思いながら、麟太郎はそれを聞いていた。

「そうしたら、もう、ありがたくて申し訳ないって、わらってましたわよ。どうでしょうか、私、これでも怠けているように見えるかしら?彼に頼まれたことは、できる限り実行しているつもりですが?」

恵子さんは、女性特有の、見栄っ張りなはなしをしている。男性にとっては、こういう人って非常に困った人にしか見えないのだが、誰でもそう思われたくなるのが女性らしい。中には、女性美を利用してこれを強調し、男を誘惑する女性もいる。

「さ、こちらです。こちらでなにか話しておりますのでどうぞ。」

「あ、失礼いたします。」

入ってきたのは恵子さんと、一人の老人であった。水穂は勿論、ノロが、先日約束したとおり、自分がきちんと生活しているが、確認のためにこっちにきたんだなとわかったが、広上麟太郎にも、この人が誰だかわかってしまった。それは、麟太郎だけではなく、相手の野村勝彦も同じだった。野村ことノロは、麟太郎の顔を見ると、いきなり、こんなことを切り出した。

「ここでお待ちしていたなんて、随分用意周到でしたな。しかし、広上さん、こんなところまで待ち構えていても、わたくしは応じる気はありませんからね。邦楽を散々潰そうと試みていたあなた方が、いまさら手を組もうなんて、虫が良すぎるというか、腹駄々しいにも程がある。何度手を着いて頼もうにも、首を縦に振ることはないとお伝えしておきます。これ以上、わたくしたちに付きまとってお願いされても、わたくしは応じることは致しませんからね。」

一体なんのことなのか、恵子さんにはわからなかったが、音楽関係者であった水穂には、何となく概要を掴むことができた。麟太郎はがっくりと落ち込んだが、しかし、すぐに対抗策を考え付いたようで、こう切り出す。

「そうですが、、、。既に作曲の先生にもお願いして、譜面も作っていただきました。うちのオーケストラの皆さんも、史上初の邦楽器との共演という事で、やる気を見せています。ですから、是非、共演していただけないでしょうか!これで三度目の対面ですから、三顧の礼だとお思いになって!」

「広上さん、こういうときに、三顧の礼とは言えませんよ。三顧の礼とは、年上のものが、若い者に懇願するときに使う言葉です。使い方を誤ってはなりません。」

手を突いてお願いする麟太郎に、ノロは年上らしく毅然とした態度で答える。年齢的に言えば、ノロの方が明らかに年上なのであるが、現在日本の音楽事情を考えると、洋楽の方が優勢であることも事実だから、立場的には麟太郎の方が上なのかも知れないので、ある意味では三顧の礼と言えるかもしれなかった。

「ですけれども、邦楽も洋楽も今の人たちにはそっぽを向かれていて、同じようなものです。ですから、ここで手を組んでもよろしいのではないでしょうか。どうでしょう?考えていただきたいのですが!」

再度、麟太郎は懇願したが、

「いいえ、邦楽が、そっぽを向かれるように仕向けたのは誰なのでしょうか!その元凶を作った方に、頭を下げられるほど、わたくしたちはおろかな人間ではありません。ですから、そのような方と、手を組むということは、わたくしたちにとって、大いなる恥であるのです。広上さん、あなた方にこの気持ちがわかることは、100年たってもないでしょう。邦楽も洋楽に近づいてきていると主張する方もたまにおられますが、それは邦楽が洋楽に潰されたせいで、姿を変えざるを得なくなった、被害の一部であるとお伝えしておきましょう。これ以上、邦楽は洋楽に塗り替えられてはなりません。邦楽は、邦楽のあるべき姿を保っておくこと。これが一番大切なのです。」

ノロは、はっきりと断った。その断り方は理路整然としていて、たった少ししかない支持者を頼りにするしかないけれど、それでも堂々と生きている雰囲気が感じられて、ある意味美しかった。

「広上さん、今回は広上さんの負けです。野村先生は、しっかりと筋を通していらっしゃいます。広上さんがいくら共演しようと試みても、三顧の礼とならないのは、邦楽を愛するという意思だからです。」

このやり取りを聞いて、水穂は麟太郎にそう進言した。自分だったら、きっとノロの意思のほうを大事にしてやりたくなるだろうなと思った。

「み、水穂。お前までそんなこというのか!」

裏切ったなという顔をする麟太郎。

「広上さん、介抱してくださったのはありがたいのですが、今回の企ては、きっと間違っていると思います。この方は、邦楽を愛し続けるためには、洋楽に妥協してはならないと思っているのだと、、、。」

そういいかけたが、やっぱり激しく咳き込んでしまって、最後まで発言はできなかった。麟太郎に背中をさすってもらっても治まらない。本来であれば、もうすこし、このガチバトルが続いてほしかったが、このせいで、中断することになった。結局、発言をした自分が、麟太郎に支えてもらって布団に戻り、薬を飲んで眠るのを強いられる羽目になる、という何とも情けない展開になって、訪問は幕を閉じた。



夕方。

「最もなことだと僕は思いますけどね、広上さん。洋楽のせいで邦楽が潰されたという台詞は、ある意味では事実で、間違いではありません。」

ラーメンを食べながら、ジョチがそうつぶやいた。麟太郎はまだ悔し泣きしている。

「そうそう。無理やり洋楽を取り入れようとすると、澤井みたいな馬鹿な人がでちゃうでしょ。そうなったら、邦楽は進化ではなく劣化だと思うよ。」

杉三が、麟太郎の肩をぽんと叩く。

「澤井ねえ。俺もさ、一回だけ聞いたことあるが、お箏というより、何だかショスタコーヴィチを聞いているみたいで楽しく聞けたけど?澤井の曲。」

「バーカ。それこそ大きな勘違いだよ。あんなの箏曲を改善どころか、改悪しただけだし、あんなふうにしたら、お箏がぶっ壊れて、かえって有害だあ。あんなのに騙されちゃならんぞ。それに邦楽は、そもそも楽しくきくものでもないからねえ。作る目的が違うよね。」

「そうですね。確かに、神仏が関わってくる曲もありますからね。そういう曲でしたら、神聖でしょうし、気軽なBGMというわけにはいかないと思います。」

杉三がそういうと、ジョチも付け加えた。

「そうか。初めから目的が違うなら、一緒に演奏なんてできるはずもないか。」

麟太郎は、やけになってビールをがぶ飲みした。

「ほらあ、早くラーメン食べてもらわないと、伸びてまずくなっちゃうよ。せめてうちの店に来たときには、ストレス解消、笑顔になって、満腹幸福で帰ってもらいたいな。」

ふいに店主のぱくちゃんがそういう発言をする。

「もう、塩ラーメンのはずが、涙ラーメンになっちゃうよ。そしたら、ぱくちゃんに悪い。早く食べろ!」

「あ、ああ、すまんすまん!急いで食べます。」

と、杉三に促されて、麟太郎は急いでラーメンにかぶりついた。しかし、

「この麺はちょっと固いな。いつものラーメンとはすこし違うようだ。」

とつぶやいた。

「たぶん、中国本場のラーメンにちかい製法の手打面を提供しているから硬いんだと思います。日本のラーメンは、かなり改造されて柔らかい麺になっていますからね。」

ジョチの解説の通りなら、現地では、相当固い麺を食べてるんだなあと思った。これではラーメンというよりさぬきうどんを細くして、醤油味にしたような感じである。

「因みに僕らの言葉では、ラーメンのことを、ランマンというんだ。ぼくらのランマンは、醤油よりもトマトスープで食べたことが多かった。」

と、付け加えるぱくちゃん。それでは、ラーメンという言葉にしても、日本と本来のものでは、定義がかなり違っているという事なのだと思った。

「俺、思うんだけどさあ。ラーメン一つとっても、日本と中国では定義が全然違うんだし、音楽だって、人によって定義が違っても良いんじゃないのか?」

「何だそれ?どういう意味だよ。」

杉三がまた口をはさんだ。

「だからさあ、麺は麺でも使う具材を変えたり、スープを変えたりさえすればさ、色んな人に届くようになるじゃないか。それをきっかけに、本物に触れる事もできるようになるだろう?醤油ラーメンを入り口に、本物のラーメンを食べられる店にたどり着ける。音楽もそれと同じ。」

麟太郎は、ちょっと専門的な話を始めた。

「あ、何かわかる気がする。中国では伝統の楽器を使ってロックをやるバンドも結構ある。今はどうしてるか知らないが、西洋の楽器と伝統の楽器を一緒に演奏させるという、バンドもあった。そういう風に、形を変えて、わかりやすくするってことだよね。」

麟太郎の発言にぱくちゃんが直感的に答えた。

「ああ、あれですか。確かに、彼女たちがデビューした時は、良い取り組みが開始されたと思ったのですが、長続きしませんでしたね。演奏女性を美しく見せることに重点を置きすぎて、失敗だったんだと思います。そうでなくて、視野的にではなくて、音楽的に面白くすればよかったと思うんですけどね。まあ、伝統離れ対策で作ったんでしょうね。あのバンド。」

「僕は、伝統を穿り回すのは嫌いだぞ!伝統は伝統的なままでいるのが一番だ!」

ジョチの解説にまた杉三が揚げ足をとったが、

「いや、俺たちの目から見たら、伝統音楽もクラシックも、ああいうポピュラー風にしなければ、若い奴は目を向けないよ。」

麟太郎も同意した。

「ええ、その、中国伝統楽器をわかりやすく伝えるということには成功したのではないのですか。ただ、女性たちの美貌に囚われすぎて失敗しただけのことですよ。僕は、共演していたドラムスやエレキギターなどの奏者が、彼女たちと同じくらい、存在感を示せれば、あのバンドは継続したと思いますよ。」

「そうそう、曾我さん、やっぱりわかってらっしゃる!どちらかに偏らなければ、中国のあのバンドは素晴らしい発想だったと思うんですよね!彼女たちの失敗で得た教訓は、そこでしょう!」

麟太郎が横入りして、二人の話は、音楽理論的な難しい話になってしまった。

「僕はとにかく苦手だなあ、、、。」

「うーん。早くラーメン食べてほしいなあ。」

杉三とぱくちゃんは、取り残されたようにそれを聞いていた。
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