終章

文字数 7,282文字

終章

「今日はいよいよ本番か。ついに邦楽と洋楽の共演というわけか。」

市民会館に向かう電車の中で杉三がそういった。一応、広上さんから、チケットはもらっていたが、今回は二枚しか有効にならなかった。演奏会に行きたくなかったり、いけないものが続出したためである。

「でも、なんだか欠番した人が多いのが悲しいんだよねえ。水穂さんも行きたいと言っていたけど、急に悪くなっちゃったしさあ。蘭さんに至っては、あんな奴の公演なんて絶対に行かないと怒鳴りだすし。」

ブッチャーはそこが残念で仕方なかった。たぶん、広上さんたちは、こういうイベントには大勢の人が来てくれたほうが、喜ぶはずである。だから、たくさん持ってきたんだろうなと思われるが。単なるチケットノルマのためではない。

「しっかし、蘭のやつ、なんであんなに怒るんだろうな。僕たち、気に障るような発言なんかしたかなあ?ブッチャー、覚えてる?」

「いやあ、俺は知らないよ。でも確かに蘭さん、最近は怒りっぽくなったよね。」

杉三もブッチャーも、その理由は思いつかなかった。蘭は、どうもノロの話をすると、機嫌が悪くなって、そんな話はやめろ!と人が変わったように怒るのだった。かえって刺激しないほうがいいとジョチに言われて、杉三たちは蘭のもとへめったに近づかなくなっている。なんだか辛そうだった。

一方の、水穂は、広上さんからチケットを貰って、必ずいきますからと嬉しそうに言っていた。事実、前日までは調子が良かったし、みそ汁一杯飲んだだけだけど、食欲もあった。ところが、当日の朝になって、朝食後に急にせき込み始め、立ち上がれないほどまでなったため、今回は見合わせることになった。ブッチャーは杉三に付き添うことになっていて、恵子さんは食事の支度で忙しく、本人を一人にしてはいけないということになって、由紀子に電話して、そばにいてもらうことにした。

「まあ、仕方ないね。僕たちだけで楽しもう。」

ブッチャーがそういうと、そうだねと杉三も頷いた。そういうわけで、コンサートに行くというのに、あまり楽しそうな顔ではなかった。

さて、市民会館では、箏とオーケストラの共演という、ほとんどのひとにとっては、生まれて初めて行われるこの試みを、この目で見られるということで、結構人が集まっていた。中には政治において重要な人物や、豪華な着物を着た、お箏業界ではちょっと名の知られている人物なのかなと思われる人たちも来訪していた。そういうわけで、気軽に聞いてみようとは思ってはいけない雰囲気があった。中には、この公演は初めから失敗だなんて豪語する人もいる。それに、めったにない趣旨のイベントとして、報道関係者もたくさん集まっていた。

そうこうしているうちに、開演の合図があって、まずは広上麟太郎率いるオーケストラが、ベートーベンの交響曲第三番を演奏した。この催しは、一応オーケストラの定期演奏会ということになっているので、これはしなければならない。しかし、40分以上の長大な交響

曲に、果たしてお箏は、対抗できるだろうか?という不安も感じさせた。ベートーベンはそれだけ偉大過ぎるということか。

15分の休憩をはさみ、第二部が開始された。

羽織袴を身に着けたノロが、指揮者の麟太郎と一緒に舞台の上にやってくると、観客はそれなりに拍手をくれたが、中にはちょっと違和感があるなあとつぶやいた人も少なくない。

ノロが用意された箏の前に座ると、麟太郎は指揮台に乗って、指揮棒を振り上げた。

そして、箏協奏曲の演奏が始まった。第一楽章は、かなり激しい曲でまるで戦争状態であった。この楽章では箏よりも、オーケストラが絶えず支配的であった。

続いて第二楽章。こちらはどこか民謡的な温かい雰囲気を持っており、箏の腕の見せ所と言える叙情楽章であった。なんとなく悲しい、いわば戦争の後の国民の声だろうか?広上さんが、ノロに配慮してオーケストラをわざと小さくしているのが印象的であった。

そして終楽章。これはロンド形式であり、広上さんたちの西洋的な主題と、ノロの箏が受け持つ民謡的な主題が交互に繰り返される。やがて二つの主題は重ねられて一つの和声を作った。まるで一緒に生きていきましょうと語り掛けるように。そして音楽はとても静かに曲を閉じ、まさしく、さいごは平和を願っているのが目にとれた。

暫く間が開いたが、予想外の大拍手。

演奏は成功したのだ。

ノロも、広上さんも深々と、ありがとう、と頭を下げた。

会場は割れんばかりの大拍手。

麟太郎は、スタッフの方にマイクを持って来てもらい、こう話した。

「えー、本日は、邦楽と洋楽の共演という、素晴らしい音楽の初演に、皆さんも参加して下さり、ありがとうございました。初演に置きまして、共演してくださった、野村勝彦先生に、ご挨拶を頂きます。では、どうぞ!」

麟太郎は、ノロにマイクを渡した。静かに椅子から立ち上がり、ノロはマイクを受け取る。

「只今ご紹介に上がりました野村でございます。本日は、このような演奏をご拝聴下さりまして、誠にありがとうございました。」

また、観客からバッと拍手が沸いた。

「ありがとうございます。実はわたくし、この演奏会は成功するかどうか、実は無理なのではないかと思っておりました。このような演奏を、皆さんはただのわけのわからない、はたまた敷居が高い、とても自分たちには手の届かない、そんな音楽にしか印象に残らないだろうと思っていたため、私はこの取り組みに反対していたのです。かつて、邦楽を一般的な人につながる音楽にしようと試みた作曲家もいた事にはいましたが、かえって気持ち悪い音楽にしてしまい、より邦楽を一般大衆から遠ざけてしまう結果におわってしまいました。そのようなこともあって、邦楽が洋楽に助けてもらうということは、遣りたくなかったのです。しかし、皆さんがこのような音楽を、こうして受け入れてくださったことに、わたくしは予想以上に驚いております。わたくしたちは、もうつぶれる運命、この世から存在しない音楽になってしまうと思っておりましたが、こういう形であれば、まだ生きていけるのではないかと、只今確信いたしました。皆さんどうも、わたくしたちの音楽を受け入れてくださって、ありがとうございました!」

さらに、会場は嵐のような拍手で渦巻いた。

麟太郎が、再びマイクを受け取って、

「ありがとうございます。それではですね。ここで、プログラムには載せていなかったのですが、野村先生に、日本の伝統音楽である、松竹梅を演奏していただきたいと思いますが、皆さんよろしいでしょうか?」

と、観客に向けて尋ねると、また大拍手が起こった。

ノロが一瞬ポカンとしているのが見える。実はこれ、ノロも予想していなかったのだ。置観客ばかりではない。オーケストラの人たちもそろって拍手をしている。麟太郎が、お願いできますか?といって、ノロにもう一度マイクを渡した。

「わかりました。それでは、松竹梅を演奏いたします。今までの楽曲にない、日本らしい雰囲気をお楽しみください。」

ノロはそういって、再び箏の前に座り、松竹梅を弾き始めた。

「立ち渡る、霞の空の知るべにて、、、。」

勿論、ベートーベンの交響曲とは雰囲気も違うし、華やかさもない。それでも観客はつまらなそうな顔をするものは誰もいなかった。

前歌は、春の風景を自然描写、短い手事を挟んで、

「君が代は、濁らで絶えぬ御溝水、、、。」

新しい年代に向けての誓いの言葉だろうか?これから、国民に豊かな暮らしを提供し、どんな嵐が来ても音を上げないという内容が歌われている。

そして、長い手事。大変華やかな、宴席の描写だろうか?それとも、自然描写だろうか?とにかく祝いの風景であることは確かである。

しかし。終盤で中空調子に変り、なんとなく物悲しい雰囲気に変わっていく。

「秋はなお、月の景色も面白や、、、。」

なんということか。西洋音楽であれば、間違いなく派手なカデンツァで終わる終盤が、一人寂しく月を眺める風景で終わるのだ。なんだか、新しい時代がやってくるのはうれしいけれど、それでも寂しいな、という気持ちで曲は終わる。日本の音楽は、時代に取り残された人の気持ちを歌うのが得意なのかもしれない。

「そよぐは窓の村竹。」

花ではなく、身近な植物である竹なのである。

ノロが、さいごの音を弾き終わると、いきなり後ろの席からブラボー!という声が飛んできて、また割れんばかりの大拍手となった。

この拍手であればベートーベンの交響曲に匹敵するくらい、称賛されたということが確認できた。日本の音楽も、こういう形にすれば、聞いてもらえるのかもしれないというのは、確かだった。

「ありがとうございます!それでは最後に会場の皆さんとご一緒に、故郷を合唱して終わりたいと思います!」

麟太郎はもう一度指揮棒を振り上げた。

オーケストラの演奏が始まる。そして、麟太郎が指揮棒を大げさに振って、歌を歌うようにと合図したのがわかると、観客も交えて歌い始めた。

「ウサギおいしかの山、小鮒釣りしかの川。

夢は今も廻りて、忘れがたき故郷。」

会場の観客も、オーケストラのみんなも、そしてノロも、みんなで故郷を演奏している。

全員、朗らかな笑顔で、戦おうという雰囲気は全く見られなかった。邦楽も洋楽も関係なく、同じ音楽として、一つになった瞬間だった。

「志を果たして、いつの日にか帰らん。

山は青き故郷。水は清き故郷。」

水は清き故郷、を歌い終わると、また大拍手になって、麟太郎とノロは我を忘れてだきああった。同時に、報道陣のフラッシュがバチバチと飛び、カリカリと鉛筆を動かす音が聞こえ始める。まるで、父親と息子が抱き合っているのにそっくりであった。

勿論、杉三もブッチャーも、大きな拍手を送ったが、

「故郷の歌は、僕は歌う気になれないな。水穂さんのような人はどうすればいいのだろう?」

杉三が、そうつぶやく通り、二人は故郷の歌を、でかい声で歌う気にはなれなかった。

ひとまず、演奏会はお開きになった。みんな今日はすごく感動したねえ、なんて言いながら帰っていく。

「なんだか、ちょっとかわいそうな演出だったな。故郷って、日本が単一民族の国家と思っている人だけに言えるような気がするな。」

ブッチャーは、市民会館の中を歩きながら、そういった。

「本当だね。なんか過去をもうちっとしっかりしてれば、ああいう演出はしないはずだよ。」

杉三がそういうと、

「そうだね杉ちゃん。でも、こんなことをいうのは、杉ちゃんと僕たちなのかもしれないよね。」

ブッチャーがそういうほど、周りの人たちは幸せそうだった。というか、幸せそうに見えた。

でも、きっと何か抱えているに違いないのだけれど。



一方。

製鉄所では、水穂が、布団に座ったまま、相変わらずせき込んでいた。

「水穂さん大丈夫ですか?」

由紀子が背をさすっても、叩いても収まらない。

「今ごろ、本番やっているじゃないですか。もう、野村先生と、広上先生の共演は終わったのかな?うまくいったと思いますか?まあ、きっと、お二人とも上手だと思うから、悪い結果にはならないと思うんですけど、、、。」

由紀子は、何とか咳のほうから、別のほうに気持ちを持っていってもらいたくて、そういう発言をしたのだが、それどころではないといえるほどせき込んでいた。

返事なんか返ってくるわけでもなく、咳しか返ってこなかった。

「こんなにつらそうな人に、私、何しようとしているんだろ、、、。」

自分が罪深く感じる。そこで思わずはっとした。あ、口に出して言ってはいけないと、蘭からきつく言われていたのではないか!

「ごめんなさい。今の発言は聞かなかったことにしてください!」

といっても、もう口に出して言ってしまったのだから、何のことですかと、きかれるに違いない。

あ、まてよ。そのほうがいいのかもしれない。蘭さんが話していることを、すぐに行ってしまえば、そういう関係を作らせろなんて、なんて馬鹿なことを計画しているんだと、青柳先生が蘭さんを叱ってくれるかもしれない。

これなら言ってしまえ!と思った由紀子は、よし、と身構えて、口を開いた。

「水穂さん、あのね、蘭さんが、、、。」

ところが、返事の代わりに来たものは、声ではなくて、激しい咳であった。口に当てた指の間から、また赤い液体がぼたぼた流れ落ちてきたので、これでは、そんな話をする前に、こっちの始末をするほうが先であった。すぐに手を拭いて、薬を飲ませ、布団に寝かせてやる。この作業の間に、蘭の考えていた計画のことを話すなんてどころではなくなってしまった。

布団に寝かせても、薬が効くまで少し時間がかかった。だからすでに血痕で汚れている畳に、また鮮血の汚れが付着した。その間にも、由紀子は背中を叩いて喀出を促す作業を強いられるのだった。

「きっと今ごろは、一生懸命演奏しているかな、、、。」

それを言うだけでも、さいごのほうは、涙が出てしまって、うまく言えなかった。水穂さんには、もう通じないのだろうか。ごめんなさい、辛いことをさせて。

でも、蘭さんの話をちゃんと話すべきだろうか?もう一度、それを思い出した。

それよりも、この人をなんとかするほうが先だ!と自分に言い聞かせる。早くしないと、畳はまた張り替えなければならなくなる。急いで、畳についた鮮血をぞうきんで拭いた。

それがストップしたのは、数十分後のことであった。やっと薬が効いてくれたのか、静かに眠っている。

これでは、蘭さんの計画なんて、やめたほうがいいのかと思うけど、畳に熔岩のようにたまった血液は、もうこの人がさほど持たないことを示した。

そうなると、もしかしたら、蘭さんのやり方をしないと、生きようという気にはならないかもしれない。と、由紀子も思った。

そして、自分の中に、やっぱり彼には生きていてほしいという気持ちがわいた。

なぜか、こっちのほうが勝ってしまって、倫理的に言ったら、もちろんいけないやり方をしているということはわかるけれど、生きていてほしいという気持ちをどうしても止められない。でも、もしかしたら、ほかの女性と結ばれてしまう可能性もなくはない。そうなったらどうしようとも思うけど、それでも、この人が生きていてくれるためなら、我慢しよう。そう思いなおした。

「水穂さん、ごめんなさい。あたしは、何の役にも立たなくて、、、。」

赤い血液のシミに、透明な涙がぼたっと落ちた。

その蘭は、杉三たちと、演奏会にはいかなかったので、一日暇だったから、由紀子さんに郵便で送ってもらった「調査書」を読んでいた。

「桐朋か。結構富士から行く人、いるんだなあ。」

確かに桐朋音大出身者は、富士の演奏家にも数多くいた。やっぱり蘭が予想した通り女性ばかりだ。そこは当たっていた。やはり、田舎町では、音楽は女性のものという考えが根強いらしい。

音大出身者は、小さなサークルのような、団体を作っていることが多かった。蘭は出身大学別に集まるのかとおもったが、最近のサークルはそうでもないのだった。音大卒者たちは、ピアノを演奏するという行為でお金を得ている人は少なく、合唱団の伴奏や、音楽教室を経営したり、あるいは介護業者でピアノを演奏したりなどして生活していた。そういう平凡な生活をしているのなら、水穂のような人は、憧れの的に違いない。

しかし、蘭がいう「美女」という概念に当てはまる女性は少なかった。

でも、そこであきらめたくはなかった。美女ではなくてもいいから、とにかく刺客として、きてくれそうな人を探し出す。

こうして、女性選びに費やしていると、何人か候補が現れた。

よし、彼女たちに連絡を取り、磯野水穂、旧姓右城水穂が、共演を探しているとか、そういうでたらめを作り出して、何とか彼女たちと引き合わせよう!と、考え抜いて、さあやるぞ!と言おうとしたその瞬間、

「へっくちょい!」

と、でっかいくしゃみが出た。

ある意味そこが世俗的であった。



「由紀子さん。今日は来てくれてありがとうね。今ブッチャーから電話があったんだけどね、もうすぐ、こっちへ着くそうだから、もう帰ってもいいよ。」

恵子さんが、四畳半にやってくると、水穂は眠っていて、由紀子は、その傍らに座っていた。

「どうしたの?泣いたりして。」

「あたし、まだ帰りません。目が覚めてから帰ります。」

「だって、一度効くと、三、四時間は眠っちゃうから、遅くなっちゃうわよ。」

「いえ、構いません。今日はここにいます。」

「だって明日、仕事でしょ、、、?」

そんなのどうでもいいじゃないか!と言いたげな顔で、由紀子は恵子さんをにらみつけた。

「そう、それならいいけど、、、。あんまり迷惑はかけないでね。」

恵子さんは、部屋を出て行った。

「よく眠ってね。」

不意に、夕方が近くなってきて、外が寒くなってきた。日本家屋だから、夏には比較的涼しいが、冬はもろに風が入ってきて格段に寒い。

由紀子も、一瞬ブルっと震えた。あ、と思って、由紀子はそばに畳んであった毛布を、水穂にかけてやった。

「私、どうしたらいいんだろう、、、?」

と、同時に恒例の「唸り」が始まる。本来は、びっくりして逃げてしまうはずなのに、由紀子はなかなか、目が離せなかった。

ただ、申し訳ないという気持ちだけはした。

丁度その時、市民会館では、故郷の歌の合唱が行われていて、盛り上がりは最高峰に達していたのであった。
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