第一話 天狗評議
文字数 1,409文字
人の体を持ち、大きな鳥の翼を持つ。
あるものは犬の頭、あるものは嘴、あるものは鼻の長い赤ら顔を持つ。
人はそれを天狗と呼ぶ。
悪しき天狗は激しい怨念を持って生まれ、争乱を好む大魔縁と恐れられたという。
だが一方で良き天狗は霊山に住む神通広大な賢者として敬われたという。
時は慶長五年九月十五日。
美濃国不破郡関ヶ原は濃い霧に包まれた。
それは天下の趨勢を示すが如く。
応仁の乱に端を発した長きに渡る争乱の世は織田信長や武田信玄、上杉謙信といった数多の英雄を生み出し、そして信長の元家臣であった豊臣秀吉によって統一された。
しかしその秀吉死後、豊臣政権に対して主に軍事面で寄与してきた武断派と内政面で貢献してきた文治派の対立が激化。
幾度の衝突を経て、ここ関ヶ原が決戦の地となる。
武断派を率いるのは東軍総大将、徳川家康。
一方文治派の中心となるのは毛利輝元を西軍総大将に担ぎ上げた石田三成。
しかし輝元自身は関ヶ原に赴かず、豊臣家当主秀頼とその生母の淀の方と共に大阪城に座し、西軍の指揮は三成に委ねられた。
秀頼や淀の方は中立静観の構え。
これはあくまで豊臣家臣同士の争い。
しかしこの時秀頼若干八歳。
慧眼持つ者にはわかっていた。
この戦の結果により、次代の日ノ本を動かす人物が決まると。
徳川家康か毛利輝元か、あるいは石田三成か。
毛利軍の先手として南宮山北の麓に陣を構えた吉川広家は、相対する池田輝政が陣取る方角ではなく、桃配山の先で陣取る徳川家康の方角を見据える。
床几に腰掛け、卓に肘をつく彼の表情は険しい。
彼方で微かに銃声が聞こえた気がした。
一発の銃声ならば気のせいとも思うかもしれないが、気のせいではない。
やがて銃声を追うように閧の声が届く。
始まったようだ。
広家は眉一つ動かさない。
程なく開戦を察知したのか、広家の後方に陣取る安国寺恵瓊から一騎の騎馬が送られてきた。
先手広家への進軍の促しだ。
「霧が濃い」
広家はただ一言そう言い、下がれと言わんばかりに手を振る。
この南宮山から相対する池田輝政、浅野幸長を抜けば敵本隊、総大将徳川家康の陣があり、西軍本隊と挟撃できる。
西軍に属する毛利軍の動きいかんでは、開戦早々にして戦況を大いに有利に導ける。
だが濃霧の進軍は当然視界も悪く危険も伴う。
「当然だ」
広家は誰に何かを問われた訳でもなしに呟いた。
それを聞いた近習達は顔を見合わせる。
声にこそしないが近習達の目は『また始まった』と言っている。
吉川家家中で広家の独語癖を知らぬ者はいない。
日頃は寡黙な広家が、大事の際になると目に見えぬ誰かと会話するように独り言ちりだす。
時に相談するようであり、時に教えを乞うようであり、時に口論をするようでもあった。
陰で『天狗評議』などと揶揄する者もいる。
しかしそれは決して嘲るものではない。
この天狗評議の末に広家が下した決断に誤りがあった事はなく、逆にその都度広家は武功を上げ、評価され、父元春なくとも毛利両川、武の吉川ここに健在と示してきた。
しかし広家には聞こえていた。
自分にしか聞けぬ天狗の声が。
「これで最後になればよいのだがな」
目に見えぬ天狗に話す広家が初めてその声を聞いたのは元服前、自身の初陣となる布部山の戦いの時であった。
あるものは犬の頭、あるものは嘴、あるものは鼻の長い赤ら顔を持つ。
人はそれを天狗と呼ぶ。
悪しき天狗は激しい怨念を持って生まれ、争乱を好む大魔縁と恐れられたという。
だが一方で良き天狗は霊山に住む神通広大な賢者として敬われたという。
時は慶長五年九月十五日。
美濃国不破郡関ヶ原は濃い霧に包まれた。
それは天下の趨勢を示すが如く。
応仁の乱に端を発した長きに渡る争乱の世は織田信長や武田信玄、上杉謙信といった数多の英雄を生み出し、そして信長の元家臣であった豊臣秀吉によって統一された。
しかしその秀吉死後、豊臣政権に対して主に軍事面で寄与してきた武断派と内政面で貢献してきた文治派の対立が激化。
幾度の衝突を経て、ここ関ヶ原が決戦の地となる。
武断派を率いるのは東軍総大将、徳川家康。
一方文治派の中心となるのは毛利輝元を西軍総大将に担ぎ上げた石田三成。
しかし輝元自身は関ヶ原に赴かず、豊臣家当主秀頼とその生母の淀の方と共に大阪城に座し、西軍の指揮は三成に委ねられた。
秀頼や淀の方は中立静観の構え。
これはあくまで豊臣家臣同士の争い。
しかしこの時秀頼若干八歳。
慧眼持つ者にはわかっていた。
この戦の結果により、次代の日ノ本を動かす人物が決まると。
徳川家康か毛利輝元か、あるいは石田三成か。
毛利軍の先手として南宮山北の麓に陣を構えた吉川広家は、相対する池田輝政が陣取る方角ではなく、桃配山の先で陣取る徳川家康の方角を見据える。
床几に腰掛け、卓に肘をつく彼の表情は険しい。
彼方で微かに銃声が聞こえた気がした。
一発の銃声ならば気のせいとも思うかもしれないが、気のせいではない。
やがて銃声を追うように閧の声が届く。
始まったようだ。
広家は眉一つ動かさない。
程なく開戦を察知したのか、広家の後方に陣取る安国寺恵瓊から一騎の騎馬が送られてきた。
先手広家への進軍の促しだ。
「霧が濃い」
広家はただ一言そう言い、下がれと言わんばかりに手を振る。
この南宮山から相対する池田輝政、浅野幸長を抜けば敵本隊、総大将徳川家康の陣があり、西軍本隊と挟撃できる。
西軍に属する毛利軍の動きいかんでは、開戦早々にして戦況を大いに有利に導ける。
だが濃霧の進軍は当然視界も悪く危険も伴う。
「当然だ」
広家は誰に何かを問われた訳でもなしに呟いた。
それを聞いた近習達は顔を見合わせる。
声にこそしないが近習達の目は『また始まった』と言っている。
吉川家家中で広家の独語癖を知らぬ者はいない。
日頃は寡黙な広家が、大事の際になると目に見えぬ誰かと会話するように独り言ちりだす。
時に相談するようであり、時に教えを乞うようであり、時に口論をするようでもあった。
陰で『天狗評議』などと揶揄する者もいる。
しかしそれは決して嘲るものではない。
この天狗評議の末に広家が下した決断に誤りがあった事はなく、逆にその都度広家は武功を上げ、評価され、父元春なくとも毛利両川、武の吉川ここに健在と示してきた。
しかし広家には聞こえていた。
自分にしか聞けぬ天狗の声が。
「これで最後になればよいのだがな」
目に見えぬ天狗に話す広家が初めてその声を聞いたのは元服前、自身の初陣となる布部山の戦いの時であった。