1:接触

文字数 4,272文字

 足に感触がある。
 水の感触か――しかし冷たさはない。
 大根田は目を開いた。
 見渡す限りの水。湖か、それとも海か。地平線の彼方まで真っ黒の水が広がり、その真ん中に自分が立っているのだ。
 夢。
 悪夢の類か。
 大根田は腕を組んだ。

 眠りに落ちる前に大根田は、妻の麗子と膝をつき合わせて話をした。
「マナモノ化していたとはいえ、俺は人を殺した」
 大根田は数時間前、警察本部ビル内で暴れていた岸本という人物と相対した。彼は佐希子の言葉を借りるなら『鬼人化』し、自分達に襲い掛かってきたのだ。
「成程。佐希子ちゃんや、ヤ――じゃなかった、五十嵐さんの話、そしてあなたの話を総合すると、私でもそいつを殺したでしょうね」
 大根田は、そうか、と頷く。
 麗子の目が鋭くなる。
「後悔している? 剣なんて持たなければよかったと」
 大根田は目を瞑った。
 剣術の道に入ったのは、映画の俳優に憧れてだった。
 だが、力を得るという事は、意識する、しないに関わらず、力をふるう場を呼び寄せる。
 そして、その場において、何をもって力をふるうのか、また、責任と義務を負うのかは自分が決めることなのだ。
「いや、後悔はしていない。自分の信念に従い、人を守るためにあいつを殺した」
「正確に言えば、あなたが殺したわけじゃないけどね」
「同じだよ」
「そうね」
 麗子の表情が緩んだ。
「私はあなたが生きて帰ってきてくれて、とても嬉しい」
 大根田も微笑むと、少し肩を落とした。
「俺も麗子にまた会えて嬉しくてしょうがないんだよ。だから――自分が一体どこまで冷たい人間なのかと不安になるんだ。あの時、一切の躊躇なくあいつに切りかかったのには、自分でも驚いちゃってね……」
 麗子はやれやれと肩を竦めた。
「終わった後にそうやって肩を落とすのは、昔っから変わらないわよねえ。もういい年なんだから、そういう顔をしなさんな、弟弟子(おとうとでし)殿」
「しかし、兄弟子――」
「いや、姉弟子でしょ。さらっと男扱いしないでよって――まあ、懐かしいネタだこと!」
 昔はこうやって、麗子の事をからかったものだったなと大根田は笑った。
「お互い年を取ったものなあ!」
「はいはい、老人トークはそのへんで。とにかく仮眠して頂戴。さっき話した通り夜回りのついでに提携している農家に行くから、二時間くらいしか寝れな――ま、それだけ寝れば十分か」
 今度は大根田が肩を竦めた。
「姉弟子殿は、相変わらず意気軒昂(いきけんこう)であらせられる」
 そうして二人は笑い合って、仮眠についた。

 大根田は足を一歩踏み出した。
 ふわりとした感触に、足の下に水紋が生じ、それがゆったりと広がっていく。
 それが彼方までうっすらと波立っていくのを見ながら、大根田は頭を捻った。
 何も聞こえず、何も臭わず、誰もいない。
 悪夢の類ではないのだろうか?
 しかし――大根田は目を瞑ると――夢の中で目を瞑るというのは妙な経験だ――意識を集中する。
 体の中にわずかな隙間ができ、それが埋まっていく感覚がする。
 マナの消費があった証拠だ。
 とするとこれは、『そういう類』のことなのだろうか?
 例えば、誰かが寝ている間にマナ電話をかけてきて、それを無意識に受信してしまった。それで、夢がこんなふうなのに、意識がはっきりしているとか?

『おおよソは、それで合っテイる。家の土台ヲ経由しテ、キみの無防備な夢を見テいる精神にアクセスしている』

 大根田が目を開くと、前方で黒い水が湧きたち始めた。
『君ハ、そう――随分と年を取ってイルが――まルで今にも弾ケそうナ火球のようニ見えル』
 ずるりと、水の下から人が上がってきた。
 男性。
 禿頭。
 のっぺりとした蛇のような顔に、酷薄そうな笑みが張り付いている。異様に背が高く細身。その体にぴったりと張り付いたような、水の色と同じく真っ黒いスーツ。
 反射的に腰に手をやるが、そこには勿論小太刀は無かった。

 だが――そこには、『何かがある』感覚があった。

 まるで小太刀のような手触りと重さの、空気――いや、マナの塊?
 大根田はゆっくりと半身になり、左手でそれを握り、右手をそっと添えた。そこに剣があるかのように、いつでも抜きつけられるようにと全身に力を回していく。
『成程、マナを本能デ理解シているようダ。君は素晴ラシイ剣士だ。
 だから、是非トも、その精神ノ剣ヲおさメテ欲しい。散らサレては面倒――』
「御託はいい。お前は誰だ」
 シンプルな質問に、男は長い指を組み合わせ、薄く笑った。
『ワタクシはアマツ。アマツの欠片だ』
 欠片? と大根田の眉が曇る。
「全く判らない」
『そウか――君の知リ合い、友人、家族、ナカマにマナにつイテ詳しいモノはイルカな?』
 大根田の頭に佐希子の顔が浮かぶ。
『カノジョか――ああ、別の欠片ガ接触しタ痕跡アリ――よろしい――』
 男はそう言うと、長い手を広げ、真っ黒な天を仰ぐ。
 水面がざわつき始めた。
 大根田は型を崩さず、アマツの名乗った男を見据える。
「お前の目的は」
 その問いにアマツは、笑みを深める。
『ソれは――よく判らない。あえて言うならバ――君達に戦ってホシイというとこロかな』

 なんだそれは、と大根田が答えると同時に、アマツの前の水面が泡立ち、悲鳴をあげながら女性が三人飛び出してきた。
「うわわわああああっ!?
「な、なんであるか!?
 佐希子と抱き合った背の低い女性がわたわたと周囲を見回す。もう一人の長身の女性は、さっとアマツを振り返り絶句している。
「佐希子ちゃん! 無事か!? 動けるなら、こっちへ!」
「はへ? あれ? 大根田さん!!? え? ええっ!? なにこれ? どゆこと!?
「いやいや、栃木っ子! こりゃ、結構な状況のようですぞ!」
 背の低い女性――柳は、腰が抜けている佐希子に肩を貸すと、すぐさま大根田の方に後ずさりを始める。
「能美ちゃん! そいつから離れて!」
「……あなた! この前マナ通信で――」
 能美はそう言ってゆっくりと後ずさる。アマツは顎をさすった。
『ほう、君は――ワタシの同族を見たようだネ。それガ私の欠片でアる可能性は高い。接触した痕跡――残滓(ざんし)ガある。あなた方はマナにヨル意識交換ノ際、どのラインを使っていルのかな?』
 佐希子が、はい? と声を出した。
「いや、ちょっと待って能美ちゃん! この人を見たって――あと、ラインって? もう、何が何だか――」
 柳が大根田を振り返った。
「名前を!」
「大根田清。佐希子ちゃんの知り合い」
「栃木っ子から聞いています。あちしは柳。北海道」
 大根田は頷いた。
「佐希子ちゃんと連携している人ですね。ではあちらが能美さんですか。そいつはアマツと名乗っている。そして、ここは私の夢です」
 佐希子が振り返る。
「そ――えぇ!? じゃ、じゃあ、大根田さんが見ている夢に、こいつが現れて、私達を引き込んだっていう事ですかぁ!?
「恐らくは」
「そ、そんなことができるんだ! び、B級ホラーかよ! ど、どどどどど、どういう事なんだ、これ? いや、待て、これ、あたしの見ている夢――」
 佐希子達に並んだ能美が静かに言う。
「この人に似た影法師を、この前マナ通信遮断の直前に見たわ。周りの影の一つが、形をとってあたしを見下ろしてた」
 固まる佐希子。柳は水面を爪先で蹴って感触を確かめている。
「……で、友好的なん?」
「なんとも。しかしラインの意味は何となく解りますね。私たちがやっているマナ電話や通信は大気中のマナを使ってますよね」
 佐希子と大根田が頷く。柳がマジかよ、と声を出した。
「こいつ、『下』使ってんのか!?
 能美が頷く。佐希子の顔がみるみる強張る。
「『下』って――龍脈(りゅうみゃく)!? あ、あれ使えるの!?
 龍脈、というと風水のあれかと大根田は聞き耳を立てながら、じりじりと前に進む。アマツには人の気配というものが感じられない。まるで空気だ。いざという時にこの距離では、三人を助けられる自信がない。

 せめて、あと三メートル欲しい。

『そこまデ理解しているなラ、話が早イ。私はアマツの欠片だ。ワカリ易く言えば、龍脈にバックアップされたアマツの一部ダ』
 能美が柳の前にそっと手を出す。
「落ち着いてください。敵意はないようですから」
 柳は足から力みをそっと抜いた。
「大根田さんも、落ち着いてください」
 能美の言葉に大根田も、すり足を止めた。
「アマツさん。あなたが我々をここに呼んだ理由は何でしょうか」
『アマツの欠片は、私以外にも沢山イル。陥没から時間が経ち、自立シテ活動できるようになったので、その地域ノ中で、最もマナに適合している人間にアクセスしてイル』
 佐希子が口をさすった。
「それが大根田さんってこと? じゃあ、今日本各地であんたが誰かの夢に語りかけてるってこと?」
『恐らくは。ただ、地域ごとに龍脈が分断さレ、この地域においては地上のマナの溜まり場による圧迫で、龍脈の流れと龍穴は異常な状態ニアル。それ故正常な処理ができず、情報の共有化ガできなイので確実デハない』
 柳が、待て待てと顔を顰めた。
「龍穴ってのは――地面の下のマナの流れが噴き出る場所ってことで良いのか? ちゅーことはだよ――」
 能美がため息をついた。
「……ダンジョンが関係している可能性がある。あなたはもしかしたら、我々に龍脈を正常化しろと仰るのですか?」
 それで、『戦ってホシイ』か、と大根田は想像する。
 佐希子がううんと唸る。
「いや、それって――私たちにメリットってあるんですか? というか、龍脈を正常化すると、あなたはどうなるんです? というか、あなたはこの陥没の事を何か知ってるんですか? 理由とか!? 原因とか!? もしや、あなたがこの陥没を引き起こして――」
 アマツは両手を広げる。
『私はアマツの欠片。この姿もアマツ本人の可能性が低イ。私はこの状況ニなったならば、人ヲ助けるヨウ命令――いや、プログラムされているトいっていいだろウ』
 なんだそれは?
「あんたは俺たちを助けてくれるのか? 見返りもなく?」
 大根田の言葉に、アマツは頷いた。
『私の存在スル意味はそれノミだ。勿論できる範囲は限ラレテいるが、例えば龍脈を正常化すれば、この地域のマナが安定し、君達の生存率ガ上がるだロう。更に、安定した龍脈ならば君達モ利用できるハズだ』
 四人は顔を見合わせた。
『信じるようにハ、強制できナイ。まずは君達の命を優先シテ欲しい。そして――』
 大根田をアマツは見た。
「そして?」
『人間であるアマツを見つけたナラバ――殺してホシイ』
 夢はそこで、唐突に終わった。
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