第1話

文字数 1,050文字

「かあさん、腰は痛くないかい」
「いんや、どこも辛いはずがないよ」
 つい三日ほど前に、息子が拵えてくれた背負子の上にはどこか懐かしい落ち着きがあった。
 鈍色の空から雪がびちょびちょ落ちてきていたが、これもまた、かつて息子が丁寧に鞣した鹿の毛皮が身を寒さから守ってくれた。
 明け方に家を出た頃は、雲ひとつない星空が広がっていたのに、昼前になって急に雲行きが怪しくなった。
 そういえば山の天候は変わりやすいのだということをシアータは久し振りに思い出した。
 若い頃は春になると山菜を採りに、よく山へ入ったものだが、もう何十年も足を踏み入れていない。
 随分と登ってきたものだ。息子は時々背負子を下ろして、母であるシアータの様子を伺いながら、また背負って、ひたすらに雪山を登り続けた。
 幾日か前に、息子は母に母の姉の墓参りに行かないかと言い出した。シアータにしてみれば、姉に墓なんぞないし、死んだという言葉はおかしいので、それを墓参りと呼ぶのは変に思えたが、しかし、姉の足跡を辿りたいという思いは強かった。
 シアータの姉が「山神への贈り物」に選ばれたのは、今年と同じように酷い冷夏の年の冬だった。村の中で誰よりも土笛が上手く、美しかった姉は、神の許で永遠に笛舞を踊る大役を仰せつかった。
 シアータの姉が山神の許に迎え入れられたのは、まだシアータが七つの頃であったが、姉が家を出るその日の光景は、鮮明に覚えている。十四になったばかりの姉は、純白の衣に身を包み、髪を高くに結い、血のように赤い紅を唇に引いていた。元来見目麗しい姉ではあったが、その日の姉は他の村娘と比べるのが躊躇われるほどの美しさであった。
 あの美しさにどれだけ焦がれたことか。白銀の広場で艶やかに笛舞を奉じる姉の姿を何度も夢に見た。私も姉くらいの歳になれば「贈り物」に選ばれるのだと心に誓った。
 しかし、村の人々は姉以来、山神に娘を贈るのをやめてしまった。せめて時が訪れた時に、よい音で土笛を吹けるようにと、シアータは暇さえあれば笛を吹いた。けれども、彼女の母は土笛の音が聞こえるたびに、シアータに止めるよう金切り声で怒った。
 ただ、それも遠い昔の話である。
 母などとっくの昔に死んでいるし、今や己が母であるし、それどころか四人産んだ娘息子も、兵役に取られたり、遠い村に嫁にいったり、死んだりで、シアータがその居処を知るのは今や一人になった。
 唯一残った息子が、母の姉が笛舞を舞った広場を見つけたから墓参りをしようとシアータをこの雪山に連れ出した。
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