第15話:バブル後、スペイン風邪、関東大震災

文字数 1,671文字

 しかし、このような急激な株価上昇は、いつまでも続かないと考えた。そのため、下げ始めたら売ろうと考えていた。そして、1918年10月、一気に持株の売り注文を入れた。そのお陰で株の税引き後利益は8千円「現在価値2億円」となった。

 その利益の半分以上が配当で、1年の配当金額が、株価を超えるような、信じられない高配当「配当率100%以上」が実際に行われた。やがて1919年になると、思ったとおり潮が引くが如く。株価が暴落した。それだけでなく1918年4月、当時日本が統治していた台湾にて巡業していた真砂石などの大相撲力士3人が謎の感染症で急死。

 1918年5月の夏場所では高熱などにより全休する力士が続出したため、世間では「相撲風邪」や「力士風邪」と呼んでいた。その後、1918年10月に大流行が始まり世界各地で「スパニッシュ・インフルエンザ」が流行していた。新聞でも国内でも多くの患者が発生していることが報じられた。

 第1回の大流行が1918年10月から1919年3月、第2回が1919年12月から1920年3月、第3回が1920年12月から1921年3月にかけて日本で起こった。当時の日本の全人口5500万人に対し約2380万人が感染したと言われている。特に第2派の時の致死率が突出して高く、大勢の人が亡くなった

その後、吉崎伸行さんは1919年12月、電話で熱が高いと萩原兵衛に電話を入れた。翌日も連絡がつかず、仕方がないので橫浜駅近くの警察に電話をして状況を見に行ってもらうと布団の上で仰向けになって倒れており既に息絶えている様だと知らせが入った。感染力の強い伝染病であり、今まで、あれだけお世話になりながら葬式も揚げられず無念さだけが残った。

 それでも1921年4月にスペイン風邪の日本での終息宣言が出てから吉崎伸行さんの葬儀を萩原兵衛と少数の知人だけで行ったが、原山渓からの大きな花輪が届いていて、救われた気がした。やがて「大正12年」1923年9月1日正午少し前に発生した関東大地震によって南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害である。

 その時、萩原兵衛は昼食を取っていた時で三渓園から近い高台の自宅にいた。慌てて外に出て、高波を避けるように夫婦での高台に逃げて無事だった。しかし自宅は見るも無惨に全壊した。不幸中の幸いで家の周りは、密集地帯ではなく火災の延焼は免れた。その後の原富太郎「原三渓」は、蚕糸業を救済する枠組みを策定し自ら帝国蚕糸株式会社の社長に就任。

そして、蚕糸相場の安定に奔走した。その後も横浜経済界の重鎮として第七十四銀行の破綻処理や関東大震災からの復興に率先して取り組み、また横浜港の近代化にも並々ならぬ成果を上げました。1923年「大正12」の関東大震災後は、横浜市復興会長に就任し、それまでの作家支援を止め荒廃した横浜の復興に力を注いだ。

 関東大震災の時、萩原兵衛は原三渓さんから弔慰金として千円「現在価値2500万円」をいただいた。その後、壊れた3軒の家を建て直す費用と近くの大工に算出してもらうと3軒建て直すとして、3千円「現在価値7500万円」言われ、契約を結んだ。しかし木材やその他の材料の調達の見通しが建ったのは、翌年1924年4月10日に開始して10月に完成した。

 それを差し引きと萩原兵衛の残金は2千円「現在価値5千万円」となり、長女、和美と次女、次子の所へ4百円「現在価値1千万円」ずつ渡した。そして1925年、昭和時代に入った。その頃、萩原兵衛は80歳、奥さんは78歳であったが、毎日、海辺を散歩した。そして、新鮮か行商の野菜、魚売りの人の商品を買い、比較的元気だった。

 投資からは足を洗い、郵便定期貯金と銀行定期預金で暮らしていた。1927年の1月末の寒い日、胸の痛みと頭の痛みが起こり、かかりつけ医に往診してもらうと血流が悪く血管がつまり始めてるかも知れないと言われた。そのため塩辛い物、お酒、肉、コレステロールの高い物を食べないように言われ、食事制限までされるようになった。
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