第3話

文字数 716文字

 下関の実家に戻ろう。そう思った。恋人がいなくなれば、この東京に縁の深い人間はいない。地方出身の詩織には幼なじみはいないし、結婚したり子供を産んだりした学生時代の友人も縁が薄くなってしまっている。
一人暮らしをしてきた詩織には大した蓄えもない。詩織を東京に引き留める要素はもはや何もなかった。しかし、その考えが甘いことを詩織は、その夏の帰省で思い知る。
 実家は、すっかり兄のものになっていた。一年ほど前に、嫁をつれてUターンしていたのだ。ずるいと思った。
そう、兄はいつもずるかった。三つ年上の兄は、勉強はできなかったが要領がよく、人付き合いがうまかった。こつこつ勉強して学校の成績をあげ、特定の友達とのみ関係を構築していく詩織とは正反対の性格をしていた。
兄は高校を卒業し、埼玉の調理師専門学校に進んだ。関東に出たい兄の希望を、長男だからと父が受け入れたのだった。
詩織は焦った。詩織の家はけっして裕福とは言えない家だった。兄に金がかかれば、自分の進学が危うくなる。せっかく勉強してきたのに。
予感は的中し、父は詩織にこう言った。申し訳ないけど、おまえは福岡あたりの短大で我慢してくれ。
自分だって東京とはいわないが、その近辺に出たい。詩織は抵抗した。すると、父と詩織の衝突を避けるために、母が折衷案を出してきた。
生活と学費に金がかからなければ関東に出てもいいと言ってくれたのだ。詩織は猛勉強して、茨城の国立大学に進学する。
周囲の協力を得られない詩織が自力でつかんだ、それは実家からの脱出だった。
そんなにしてまで離れたかった実家なのに、今は懐かしい。自分の都合の良さにうんざりしながらも、他に選択肢は思い浮かばなかった。
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