第7話

文字数 1,583文字

 予想に反し、猪狩はその場所に、居た。
猪狩の頭髪は真っ白になっていた。表情は硬くなり、深く長い皺や小さなちりめん皺が増えている。
顔色は全体的に暗くなり、十年前は一つもなかったシミが顔の外側に沿っていくつも浮かんでいた。猪狩もとことん苦労したようだ。
詩織は最後だと思い、美容院できっちり白髪染めした髪を利き手の手のひらでゆっくりと撫でつける。潮気と湿気を含んだ髪が、少し外側に膨らんでいた。
「久しぶり」
詩織が先に口を開く。
「久しぶり」
猪狩の声はもともと低かったが、さらに低くなっていた。自分の声も低くなっているのだろう。
「来ると思わなかった」
「俺も」
「じゃあ、行こっか」
「うん」
二人で海の中を歩き始める。ひんやりとした空気が半袖から伸び出た腕を包む。
「涼しいね」
「そうだな」
二人で黙って歩き続ける。
まさかこんなことになろうとは。
詩織は東京に戻り、生活を立て直そうと頑張った。仕事を得て、新しい人生の伴侶を得て、やり直そうと思った。家族を見返してやりたいという強い思いもあった。
しかし、詩織は何一つ手にすることができなかった。四十を過ぎた頃から、詩織は目標を持たなくなった。それは詩織にとって初めてのことだった。
いつも何かを目指して、頑張っていた。それが正しいことで、そうしなければ胸を張って生きていけないと思い込んでいた。
でも、そうではなかった。いつもぎゅっとハンドルを握りしめていたような人生は、それでも結果何も得られなかった人生は、手を離してみるとくすんだ色の得体の知れない塊だった。
なーんだ、こんなもんだったのか。詩織は頑張るのを止め、夢見ることを止め、猪狩との約束に賭けてみようと思った。
「手でもつないでみる?」
詩織は猪狩と最後のセックスをしてみたいと思っていた。猪狩のことが好きなわけでもない。でも、男として見れないわけでもなかった。一人になってから詩織の性欲は急速に高まっていった。一人の飢餓感がそうさせるのか、女の体の暦がそうさせるのか、詩織にもわからなかった。
猪狩がふっと笑い、詩織の手をとる。それと同時に、猪狩の歩く速度が少し緩まる。
優しい人。だから、幸せになれなかったんだ。
この年になって、幸せは取り合いだったんだと詩織は気づいた。数は限られていたのだ。真面目に真摯に得ようとするのではなく、誰かから盗みとったり、奪い取ったりしないといけないものだったのだ。
「猪狩の手、温かい」
「そうか」
猪狩がぎゅっと詩織の手を握ってくれる。詩織はぎゅっと握り返した。
「おまえの手は、冷たいな」
「末端冷え性だから」
詩織は笑って言う。楽しかった。何もないのに。
二人の歩く足音が前へ、後ろへ長く響いていく。入り口も出口も、どちらも遠すぎて見えない。
いま、猪狩が一緒に生き直そうと言ったら、自分はうんとうなずくだろう。しかし、それを自分から口にすることはない。
「いくら持ってきた?」
「え?」
「お金」
「ああ、百八十万。私の全財産」
「俺は二百七十万。家を売ったらもうちょっとあったんだけど、親がまだ生きてるから遺そうかなって思って」
父母の十年前の顔が浮かぶ。二人は明らかに兄嫁に遠慮していた。孫のことは可愛がっていたが、小さくなっているように見えた。詩織はそれを見ても、どうすることもできなかった。
「そうだね」
「二人で四百五十万か。結構、長旅できるな」
「うん、遠くに行けるね」
「そうだな。どこへでも行けるな」
それだけあったら、流れ着いた先で小さな商売でも始められないだろうか。詩織は急激に自分が生きようとしていることを感じる。
猪狩はどうだろう。いや、答えを急ぐことはない。この旅で、それを見極めればいいのだから。
詩織は猪狩の手を握りしめながら、ゆっくりとトンネルの中を歩いて行く。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み