第5話

文字数 4,058文字

 酒に強い詩織だが、その夜はめずらしく酔った。ついてない身の上話を吐露しはじめたのは、学生時代に思っていることをバンバン口にしていた猪狩ではなく、どんな内容でも慎重に言葉を選んで口にしていた詩織だった。
詩織は、長く勤めた会社をリストラされたこと。だったら、長く付き合っていた男に嫁に貰ってもらおうとしたら、その男に妻子がいたことをおもしろおかしく猪狩に話した。すると、猪狩は意外なことを話し始める。
「実は、俺もいろいろあってさ」
猪狩は高校卒業後、二年ほどで結婚したと聞いていた。
詩織、猪狩君と仲良かったよね? 猪狩君、結婚したよ。
大学のときにはまだ高校時代の友達と頻繁に連絡をとっていた。その中の友達の一人が教えてくれたのだ。
郵便局で勤め、地元の女と結婚。親は幸せだねえ。
猪狩の近況を教えてくれた友達に、詩織はそう言った。どこか猪狩のことを馬鹿にしていたことを認めざる負えない。何も知らないまま小さな世界に留まり、人生を決めつけてしまう。その行為が愚かだと思ったのだった。
しかし、いまならわかる。馬鹿で幼くて世間知らずだったのは自分のほうだ。
身の丈に合った選択を続けた猪狩は冷静で賢い大人だった。
詩織は猪狩は、特別な喜びはないだろうが、平凡で安定した幸せを手にしていると思っていた。
猪狩君とこ、子供は何人? そう尋ねると、猪狩は表情を曇らせて、コドモねえとつぶやいた後、疲れた表情で続けたのだ。
「実は、俺もいろいろあってさ」
「いろいろって?」
基本、幸せな人間のいろいろなんてどうせ大した話じゃない。詩織は枝豆をいじりながら尋ねる。
「子供できなくて、不妊治療の末に夫婦関係が破綻して、嫁が浮気。頭にきたからちょっと平手打ちしたら、DV夫だって騒がれて離婚。DVの話が広まり続けて、長く勤めた職場も異動させられた。新しい職場でも何も知らない奴らにDV野郎って陰口たたかれて、でも、この年で行くところもないから我慢して働いてる。な? 意外といろいろあっただろ?」
詩織のどうせ大したことないだろうという表情を読み取っていたらしい猪狩が、嫌味ったらしく疑問形で話を終える。
猪狩は人の微妙な嘲りを読み取ったり、こんなふうに嫌味ったらしく皮肉を言う男ではなかった。十数年の間の出来事が猪狩を変えたのだ。傷ついてきたのは自分だけではないと思わされる。
「そっか。みんないろいろあるね。ごめんね」
「何が?」
「いや、私、自分だけが不幸みたいな気になってて、自分の気持ちってゆーか、話するので精一杯で。猪狩は幸せだと思ってたから、なんか気をつかうのもしゃくで・・・ごめん」
「別にいいよ、そんなこと。あんまりわかったような顔されてもな」
「そうね」
私だってそうだ。わかる、わかるなんて簡単に言って欲しくない。それぞれの地獄はそれぞれにしかわからない。歯痛や腹痛が決して他人と共有できないのと同じだ。
「でもさあ」
「うん?」
「私の付き合った男も最低だけど、あんたの嫁も最低だね。浮気したあげくに、ちょっと殴られたら、それを逆手にとって、DVって騒いで離婚まで勝ち取るなんて。まさか慰謝料って払ってないわよね」
「ばっちり払ったよ、百万」
「嘘でしょ? ほんとなら先に浮気した女のほうが慰謝料払うべきなのに」
「手を出したほうが悪いんだって」
「正当な理由があるのに」
「惚れたほうが負けなんだよ」
「え?」
「俺、子供ができなくてもそいつのことが好きだったんだよ。十九で出会って、すぐに夢中になって、頼んで頼んで結婚してもらった」
「そうなんだ」
男子とばかり騒いでいて、女子にかけらも興味を示さなかった、あの猪狩が、ねえ。
「結婚しても、ずっと好きだった。あいつは、すぐに冷めたみたいだけど」
「そんなこと」
「あるんだよ。だから、あいつは子供を欲しがった。俺も、あいつが望むなら、あいつとずっと一緒に居られるようにするためにって子作りに精を出した。でも、できなかった。俺たちの家族になるって夢はかなわなかった」
そんな夫婦はごまんとある。それでも壊れる夫婦と壊れない夫婦がある。思っても、思い詰めた猪狩の前では言えないのだった。
猪狩にとっては、奥さんとのことはまだまだ終わってない出来事なのだ。
男に妻子がいたとわかると急激に冷めた自分とは違う。詩織ななぜか負けたような気になる。
「俺があいつを殴ったのは、まだ好きだったからだ。でも、あいつには通じなかった。ただの暴力としか、思われなかったんだ」
「奥さん、ちょっと悲劇のヒロインになりすぎたね」
「え?」
猪狩が鋭い視線をよこす。詩織はひるまずに続けた。甘えた根性の女がいつまでもいい女として誰かの胸に残り続けるのが、なぜか許せなかった。
「子供ができなくて苦しいのは、なんとなくわかるよ、私も女だから」
嘘だ。子供を強く望んだこともない自分には想像もつかない。私が夢見たのは結婚までだ。その先のストーリーは結婚してから考えるつもりだった。
「でも、苦しいからって浮気したり、旦那を傷つけたり、離婚までして悪評をひろめたりって、ちょっと理解できない。猪狩は若い時から奥さんを知ってるから、美化しすぎなんじゃないかな。若い頃にいい人でも、女は、人間は変わるよ」
「そーゆーことじゃないんだ」
「じゃあ、何?」
「あいつ、親しい友達に言ってたんだ。私のせいで子供ができなかったのかもしれないって」
「そうなの?」
「違う。医者にも行ったけど、二人とも異常はなかった。わからないんだ」
じゃあ、相性が悪かったんだ。絶対に言えない言葉が詩織の中でぽこんと浮かぶ。
「だから、浮気したんだって」
「どーゆーこと?」
「他の男だったら、子供ができるか、試してみたかったらしい」
「馬っ鹿らし」
最低の女だ。
「誰かに惹かれたからじゃない。それぐらい子供ができなかったってことが、辛かったってことなんだ」
こんな女でも、男に深く愛される。美化しきれないほど美化されて。自分は一体何なんだろう。何が足りなかったんだろう。
「でも、それで妊娠したらどうするつもりだったの? 短絡的すぎない? 実験しました、結果が出ました、妊娠しましたじゃ済まない話なんだよ」
「そうだけど。一緒に頑張ってた俺には何となくその気持ちがわかったんだ」
男はいつも夢見がちだ。女がいかに嘘つきか、いかに現実的に計算高く物事を考えているか、そんなことにはちっとも思い至らないのだから。
「そっか。二人だけにしかわからないことだもんね」
詩織は矛を収める。どれが正解ではなく、これ以上は踏み込んではいけない話だと思った。
「なあ」
「うん?」
「これから門司まで歩かないか?」
「え?」
「関門トンネルで」
「ああ、あの海の中のやつ」
下関で育った人間なら一度は通ったことがあるトンネルだ。歩いて十五分ほどで門司に渡れる。
「なんか歩きたくなって」
「もう閉まってるよ」
テーブルの上に置いていたスマホを裏返すと十一時を過ぎていた。
「あれ、二十四時間じゃなかったっけ?」
「ちがうよ、たぶん。それに、いまから門司行ってどうすんの?」
「そっか・・・そうだよなあ」
「なんでいきなり関門トンネルなのよ」
「元嫁と最初のデートで渡った」
「はあ? そんなのに付き合わす気だったの?」
「いいじゃん。友達なんだから」
友達という言葉がじんわりと胸に沁みた。ああ、自分は思ってた以上に弱ってるな、寂しかったんだなと凹む。
「ああ、もう俺、人生終わったわ」
猪狩がテーブルに突っ伏した。
しょうがないな。男は弱っちくて。
自分なんか長く真面目に勤めた会社を追い出され、五年付き合った男には騙され続けていたのだ。そして、実家は兄夫婦に占領され、泣きに帰る場所もない。八方ふさがりだ。
猪狩の今の状況は悲惨だが、幸せな時間が長くあったではないか。それに、猪狩には仕事だってある。たとえ針の筵の職場でも、ないとあるとでは大違いだ。
無難な選択をし、冒険をしてこなかった猪狩は打たれ弱いだかけもしれない。しかし、不幸を比較しても仕方がない。誰もが皆、それぞれの不運に嘆き、苦しめられるものだから。
「なーんか、私たち、二人ともさえないねえ」
「そうだな」
突っ伏したまま猪狩が答える。
「不幸だよな、俺たち。三十五にもなって」
「そうだね」
この年になったら何をしていなければならない、何を持っていなければならない。そーゆー世間の目に応えるように生きてきた。でも、努力したのに幸せにはなれなかった。私が悪いの? 目の前に猪狩に聞いてみたいが、彼も答えを持っていなさそうだ。
「このまま不幸だったら」
「だったら?」
猪狩が詩織を促す。
「十年後も、四十五になっても、不幸だったら・・・」
「だからなんだよ」
「一緒に死のうか?」
「え?」
猪狩がゆっくりと視線をよこす。その目は思いのほか力のこもった鋭いものだった。
「こんな状態が十年も続いたら、もう、限界だよ」
「そう、だな。そうしよっか」
猪狩はゆっくりと起き上がり、十年後の二人の計画について語り始めた。
 十年後、四十五になってもどうしようもない人生を送ってて、死にたい気分だったら、仕事も何もかも整理して、お盆の始まりの十三日の午後三時に関門トンネルの前に集合。あ、下関のほうの入り口ね。でもって時間は厳守。遅れても三十分まで。三十分待って相手が来なかったら、相手は幸せになっててその気がなくなったってことで、恨みっこなし。
「それで、もし二人で合流したら、どうするの?」
「そしたら、そうだなあ。そのとき持っている有り金を二人で使い切ったら、どっかっで自殺すんだよ」
「どうやって?」
「どうとでもなるだろ、その気があれば。飛び降りでも、飛び込みでも、首つりでも。相談して決めればいい」
「そっか」
「どう? いい考えじゃない?」
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