3 マルティプライズ

文字数 6,113文字

3 Multiplies
 エジソンにしても、XEROXの経営陣同様、何度か見通しを誤っている。1097種類の発明および改良に成功したエジソンの発想すべてが支配的になったわけではない。エジソンが直流を主張したのに対して、ニコラ・テスラーは交流の安全性を提唱している。しかし、今では電力会社が供給するタイプのほとんどは交流である。直流は、電車のモーターのように、立ち上がりの際に大きな力、あるいは、オーディオ機器のように、一方向に安定した電流を必要とする電源に適している。けれども、電流の方向や電圧の大きさを自由に変えられる。発電・送電を考えれば、交流が選ばれるのは自然の成り行きである。”Yes, I’m back in black”(AC/DC ”Back In Black”).

 また、リュミエール兄弟が発明したスクリーンに映すシネマトグラフではなく、小さな機械の中に映し出される映像をのぞきこんで見るキネマトグラフに将来性を見ている。ただ、シネマトグラフには敗れたものの、エジソンが採用した35mmフィルムは映画の標準になっている。

 他にも、エジソン自身は死刑制度に反対していたものの、現に制度がある限り、それを合理的・人道的に行うのが現実的であるという当局からの説得に応じて、電気椅子を製作している。ギロチンは当時の最先端の科学的認識である重力によって執行される合理的・人道的な装置だったが、電気こそこの時代にふさわしいというわけだ。ただし、直流を推進していた発明王は交流を用いるという条件をつけている。処刑の道具に使われる電流など人々は敬遠するに違いないと彼は考える。エジソンの発明品の中で、現在まで、原型のまま生き残っているのは、先に触れた映画フィルムの標準だけである。

 エジソンは、失敗したとしても、それをうまく利用している。苦労や偶然をすべて美談にまで高めてしまう。エジソンが、それまでの発明家と違うのは、メディアを通じて、自分自身を等身大以上に見せることをやってのけた点である。“Genius is one percent inspiration and 99 percent perspiration”(Edison). 「人間というものは, 努力する限り迷うものだ(Er irrt der mensch, so lang er strebt.)」(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『ファウスト』)。

 エジソンは発明家が発明家としてだけではなく、社会的事件となった時代に生きている。「わたしは科学者ではない。発明家だ。ファラデーは科学者だった。彼は金のために働きはしなかった。そんなことをする暇がないと彼は言った。しかし、わたしは金のために働く。自分のすることを何でも銀貨の大きさで測る。その銀貨がある大きさに達しなければ、そんなことはしても無益だとわたしは考える」。発明家は科学者と違う。発明家はすべてを商品開発という観点から見る。

 発明家は自分の存在がつねに社会的であり、資本主義経済の中にあることを認めている。彼らの特許を担当していたアルベルト・アインシュタインの登場以降、その地位が小さくなっている。だが、エジソンは、いかがわしさから言っても、徹頭徹尾「発明家」である。エジソンには、そのため、資本主義社会と無縁でいるような態度の学者には我慢がならない。「わたしは数学者たちを雇うことができる。しかし、彼らはわたしを雇うことができない」。「数学者という連中には、うんざりするよ。たし算をやってくれとたのむと、紙切れをだして、AだのBだの、XだのYだのを何列も並べて、やたらに点や印をつけて、しかもその答えが全く見当ちがいときているのがおちなんだ」。

 20世紀において、科学技術の発達を担ったのは、大学・軍・企業であり、中でも、家電は企業が圧倒的に支配的である。新材料と新技術の開発、すなわち応用科学の開発において、知的推理力と失敗や予想外の結果に対応する柔軟性が要求される。市場を睨みつつ、学問的裏付けと経験に基づいた思考力と判断力が前提になる応用科学は、プロフェッショナルの世界である。偶然性を歴史的転機と認識できるかどうかが問われる。“Why I have not failed, I've just found 10,000 ways that won’t work”(Edison).

 そのためにはチーム、すなわち「雲」(ジョシア・ウィラード・ギッブス)が確率的に高い結果を期待できる。あくまでそれは確率解釈にすぎず、共存度と干渉が決定する。科学的理論とは違い、電気に限定すれば、科学的技術の発展の歴史は波の性質を持っている。電子の運動には可逆性があるように、電気に関する限り、科学技術の開発には可逆性があり、必然性はない。

 森毅は、『異説数学者列伝』において、自然科学での天才の存在の皮肉さをヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスを例に次のように述べている。

 ところが、彼を「天才」とするなら、彼の存在は「天才産業」にとっての皮肉な結論を与えている。ガウスはその知りえた結果を完成形式において発表するという習癖を持っていて、未完成をさらけだして物議をかもすようなことを嫌った(このことは、ガウス崇拝から追随者を生み、後世に悪影響をもたらした)。それで、その多くの業績は、篋底深く秘められ、あるいは友人だけに私信でほのめかされ、彼の生前には人に知られることがなかった。それで、アーベルやヤコビ、あるいはロバチェフスキやボヤイ、ときには老ルジャンドルが何かを「発見」したとき、ぶつぶつと異議を唱えたり、さりげなく無視したものだ。それで陰険に思われたりもしたが、事実たしかにガウスはすでに知っていたのである。つまり、この半世紀ほどの多くの数学者の業績をひとりでまかなえたことになる。
 しかし一方で、この半世紀間の重要な業績がガウスの篋底に見出されたとはいえ、他の数学者によって「発見」されなかったような著しい事実もまた、そこにはなかった。つまり、ガウスなしで数学が半世紀間に発達したぶんだけ、この「天才」は私有していたことになる。それで、人類にとって「天才」なしで間に合うということを、ガウスの「天才」が証明したことになる。

 同様に、エジソンが発明しなかったとしても、誰かがそれを発明する。特許をめぐる訴訟に明け暮れたエジソン自身がよく承知している。しかも、特許をとったからといって、成功するとは限らない。

 2000年12月21日に82歳で亡くなったアル・グロスは、第二次世界大戦前に、トランシーバーを発明し、1949年にポケベル、50年代には携帯電話を発明している。しかし、彼は富を手にすることはできない。早すぎる。無線にも、ポケベルにも、携帯電話にも、メーカーは躊躇し、消費者は冷ややかである。1971年までに特許の大半が期限切れを迎えてしまう。商用化が適切な時期に行われていなければならない。「後35年遅れて生まれていたら、今頃はビル・ゲイツ顔負けの億万長者だったはずだよ」が口癖である。

 確かに、予想より遅いものは科学技術としては未来がない。実用化には予想という理念が基準となり、予想は最善の広告であるとしても、予想さえされていないものを開発したところで、市場には理解されない。製品開発には、イノベーションだけでなく、マーケッティングが不可欠である。イノベーションとマーケッティングの弁証法が製品品開発の過程に働いていなければならない。”Genius is hard work, stick-to-itiveness, and common sense” (Edison).

 トランシーバーと電話では通信方式が異なる。トランシーバーを含めた無線の通信方式は半二重通信であり、両方向の通信が可能であるが、一方向のみ通信可能な方式である。線路の性質としては同時にいずれの方向にも通信が可能であるけれども、端局装置の性質により、一方向しか通信できない。スイッチを切りかえることにより、一方が送信のみをおこない他方が受信のみを行う。

 電話の通信方式は全二重通信を採用している。これは、2地点間で、同時に両方向の通信が可能な通信方式である。アル・グロスの着眼点は非常によいが、この説明が示している通り、個人の移動中など特定の状況下で使う発明が多く、mobile lifeの一般化を待たなければならない。

 発明品は新たな生活スタイルを予感させるタイムリーなものである必要がある。そうした画期的な発明があると、なだれ現象が起こり、突然、それは終わる。このなだれの最初の原因としての一点を解明することは難しい。リチャード・ファインマンの「経路積分」は理論的には可能かもしれないが、現実的ではない。科学技術は実用化されて、初めて、意味を持つ。実用化を妨げるものは、コストや量産の方法、運搬などあまりに瑣末なことが多い。科学技術には政治的な側面もあるが,経済的側面がより強い。

 20世紀の科学技術はたんなる科学理論と連関しているだけでなく、法律やライフ・スタイルなど広範な社会的な変化と相互作用している。基礎科学はあくまで上部構造にすぎず、応用科学が下部構造である。商品化された新たな応用科学の登場は人々の生活や認識を変化させ、メディアがその状況を増幅させる。科学技術は市場経済的な資本主義に基づいている。20世紀における科学技術は開発者である以上に、経営者としての能力が要求される。エジソンはその典型であろう。

 応用科学の歴史は、IBMに対するAppleの挑戦が示している通り、ゲリラと正規軍の闘争の歴史である。ゲリラは遊撃戦を挑むだけでなく、支配的製品に対して革命戦争あるいは人民解放戦争を遂行する。支配的製品の隙間や辺境から、その対抗勢力が生まれる。支配が強固であればあるほど、独占状態が強ければ強いほど、時代の変化に対応できなくなるので、ゲリラが生まれやすい。その勝利を判断するのは市場である。市場はゲリラの登場を待っている。発明ではなく、アル・グロスの不運が告げているように、販売が革命をもたらす。ネット社会はゲリラの活動には非情に有利である。"They're like fish out of water or cats with wings"(Margaret Mitchell "Gone with the Wind").

ネットは「ぼく自身のための広告」(ノーマン・メイラー)である。従来は、優れていても、一般ユーザーの間でベータ方式がVHS方式に敗北したように、資本力の前に伸び悩む製品は少なくない。「ティトゥス-リヴィウス がカルタゴ人を論じて申したように、 多数の勢いは常に最良なるものを凌ぐものである」(フランソワ・ラブレー『パンタグリュエル物語』)。だが、ネット社会では、匿名としての個人を強調する時、ゲリラ的活動として、Linuxの普及が証明している通り、企業との戦いでも十分勝算がある。「最小のものに最大の驚きがある(maxime miranda in minimus.)」。

 まつもとゆきひろが「Ruby」というオブジェクト指向のプログラム言語を開発している。まつもとによれば、「シンプルな文法、普通のオブジェクト指向機能(クラス、メソッドコールなど)、特殊なオブジェクト指向機能(Mixin、特異メソッドなど)、演算子オーバーロード、例外処理機能、イテレータとクロージャ、ガーベージコレクタ、ダイナミックローディング (アーキテクチャによる)、移植性が高く、多くのUNIX上で動くのみならず、DOSやWindows、Mac、BeOSなどの上でも動く」。Rubyは、ネットを通じて、CやHTMLの代替言語として、密かに広まっている。

 宣伝は、20世紀において、最大の武器である。”Cambell Soup”や”Coca Cola”、”Mac”、”Windows”といった商標を獲得し、アンディ・ウォーホル的に流通させる。応用科学の革命は、市場がなだれ現象を起こすため、ほんの一点が崩れるだけで起こる。「パラダイム変換」ではない。これは「表象転換」である。「理論的方法にあっても、主体は、社会は、前提としていつでも表象に浮かんでいなければならない」(カール・マルクス『経済学批判序説』)。

 これは全歴史に共通する視点ではなく、電気の世紀である20世紀に通用する見方である。この時代では、理論的・技術的限界にあるものをたった一つ作り出せばすむわけではなく、大量生産のラインに乗せて、大量販売しなければならない。それには、三つの「ム」、すなわち「ムラ・ムダ・ムリ」を斥ける必要がある。日本の町工場はそれをネットワークによって解消する。

 日本の町工場の技術力の高さと市場のシェアの占有力は競争ではなく、むしろ、彼らの持つネットワークによっている。「路地裏ネットワーク」あるいは「アメーバー型のネットワーク」と呼ぶ小関智弘は、『ものづくりの時代』において、「『あの仕事をやらせたら、あそこはうまいよ』という技術の信頼関係や、あくどいことをしないという人間的な信頼関係があってはじめて成り立つネットワークである。そういう目には見えず、名前もないようなネットワークが、町工場の町に張りめぐらされている。それが町工場の集積地として歴史を重ねた大田区の強さの要因のひとつだった。『大田区のビルの屋上から、設計図を紙飛行機に折って飛ばせば、三日のうちに製品になって戻ってくる』とたとえられたのは、そういうネットワークがあったからのことである」と言っている。

 先に述べた可逆性が電気というミクロな視点に着目した時に表われてくると同時に、開発製品が歴史的出来事として見れば不可逆性を持っているように、マクロな歴史との整合性の問題もあるだろう。それ自体は多世界解釈を用いれば容易に説明できるけれども、むしろ、20世紀の科学技術の歴史は商業主義によって発展してきたのであり、商業主義というメゾな視点から科学を捉えるべきである。

 20世紀における基礎数学から応用数学への数学史の変遷はヨハン・フォン・ノイマンが体現している。メディアを制覇した製品が市場でも勝利している。パウル・カール・ファイヤアーベントは、『方法への挑戦』において、認識論的アナーキズムを説き、さらに『自由な社会における科学』や『理性よ、さらば』、『知識についての三つの対話』などでイデオロギー的性格を持つ科学の国家からの分離を主張する。だたが、科学技術史はアナーキーな商業主義を背景にしている。

 アナーキーな商業主義に対するGalgenhumorによってのみ、新たな科学技術と科学倫理が生まれる。科学技術自身には倫理を決定できず、実用化=商品化上の倫理は、メディアを通じて、他者の認定を受け、市場によって最終的に決められる。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み