八重一重(やえひとえ)
文字数 1,998文字
赤い小袖の裾 をひらめかせ、やや太めの白い足を露 わにした若い娘が材木座海岸を走る。伊豆国から運んだ石を積み重ねて造られた鎌倉の港、和賀江島 に伊豆大島から船が来る。海は眩 しくゆらぎ、笹の葉のような小舟が波間 を滑 る。
息を整えながら、人足たちの怒号や喧噪 にひるむことも無く、潤 んだ大きな目で船を見上げ、待ち人の姿をさがす。長い黒髪を風になびかせた涼 やかな眼差 しの若衆が、手を振りながら下りて来た。大切そうに布袋を抱えている。
「久しぶり。会いたかった。これ、お土産 」
「ありがとう。一重 ねえさん、わたしも会いたかった。短袴が良く似合う。美丈夫な若衆姿だね」
嬉しくて声が震える。
土産の布袋はずしりと重い。八重 は両手で受け取り覗 き込む。一尺ほどの苗木がわずかな土に植えられていた。
「八重に見せたかった大島桜。庭に植えよう。あたしたち二人の桜だから、薪 にしないでね」
一重ねえさん、なんて優しい笑顔。今夜からしばらく桐ヶ谷 の屋敷に泊まって、わたしと一つの褥 で眠る。本当は離れて暮らすのは嫌。いつも一緒にいたい。
男の格好をしているねえさんの胸にきつく巻かれた、さらしをほどいてあげる。褥 の上では生まれたままの姿で眠る。なめらかな肌と柔らかな胸のふくらみを感じながら眠るのが好き。舟乗 りだから黒く焼けた肌。でもお尻とお腹は白い。秘密の桜貝に触れると、震えて変な声を上げる。わたしも仕返しされて、最後には叫んでしまう。散々ふざけて汗まみれになるから、父さんがくれた絹のはぎれで、お互いの体中の汗を丁寧に拭 いあう。そして体が冷えないように抱き合って眠る。甘い吐息と潮の香りがする肌。くすぐったく纏 わりつく絹糸のような髪の一本まで、ねえさんは、わたしだけのもの。
二人で手をつないで材木座海岸を歩いていると、急に強い風が吹いてきた。波が白い牙を研いで襲いかかろうとする。強い風に舞い上がった砂が容赦なく、目や口に飛びこんでくる。急に何故 こんなに風は荒れ狂うのかしら。
「嗚呼 、目が痛い、何も見えない」
ねえさんが抱きしめて風から守ってくれた。しばらくすると風は弱くなった。
「八重、目を見せて。まばたきしないで」
顔をしかめて恐る恐る目を開ける。ねえさんの形のいい唇から真っ赤な細長い舌が覗いている。目玉についた砂を舌先でチロリと舐めてくれた。ちょっと怖いけど、気持ちがいい。
「ありがとう。そういえば、いつか羽虫が目に飛び込んできた時も舐めてくれたね」
「ふふ、八重は大きな目玉で、いつもぼんやり何かを見ている。だから、羽虫が吸い寄せられて飛び込んでくる。姉妹なのに、あたしは細い目なのに似てないね」
ぼんやりしているのは、ねえさんに見とれているから。ねえさんとわたしは腹違いの姉妹。父さんが宴に呼んだ流浪の傀儡女 と戯 れて生まれた子だという。すぐに、父さんの弟分の伊豆大島に住む船乗りにもらわれた。その二年後、わたしが生まれた。
初めてねえさんに会った時、まだ互いに幼かった。痩せていて真っ黒な顔で短い髪をしていたから、ずっと男の子だと思っていた。背が高くて、しなやかな長い手足の美しい男の子。わたしの初恋だった。
また強い風が吹く。
「風は嫌い。船を転覆させて、あたしを海の底に沈めた」
「え、ねえさん、何を言っているの。泳ぎが得意なのに」
そっと唇をふさがれた。ねえさんの唇は桜の花びらのように、ふわりと冷たい。
ふと気づくと、いつの間にか、わたしの柔らかい手は硬く皺 だらけになっている。ねえさんが優しく撫でてくれる黒髪が、白く見えるのは砂を被 ったせい。
そういえば、わたしは歳をとった。ねえさんは大島桜を持って来てくれた帰りに、船が嵐に遭 って沈んでしまった。まだ十七歳。悲しくて涙も出なかった。
でも、寂しくない。ねえさんの大島桜が毎年春に花を咲かせてくれるから。一生懸命に桜を守ってきた。今年も美しく咲いてくれた。桜の木はいいな。花を何度も咲かせることができる。桐ヶ谷の人々が、わたしたちの桜を鎌倉一美しい桜だと誉めてくれる。
それに、とても不思議な桜だと評判になった。一枝に八重の花びらの桜と一重の花びらの桜が、寄り添うように一緒に咲く。だから八重一重 という名で呼ばれる。わたしと一重ねえさんの奇跡の桜。
だけど、やっぱり生身のねえさんと、もっと一緒にいたかったな。もっと抱き合いたかった。
童 が砂浜を走りまわり、誰かをさがしている。
「あ、こんな所で寝てる。起きてよ。もうすぐ征夷大将軍の足利尊氏がうちに花見に来るよ。京の都の御所に、八重婆ちゃんの桜を植えたいんだって」
白髪の老女は材木座海岸の砂浜で埋もれるように蹲 り、もう動かない。
鎌倉桜の別名は桐ヶ谷、八重一重、御車返し。薪用に植えられた大島桜が鎌倉の桐ヶ谷で突然変異した。足利尊氏によって鎌倉から持ち出され、京都御所の左近の桜として植えられたという。 了
息を整えながら、人足たちの怒号や
「久しぶり。会いたかった。これ、お
「ありがとう。
嬉しくて声が震える。
土産の布袋はずしりと重い。
「八重に見せたかった大島桜。庭に植えよう。あたしたち二人の桜だから、
一重ねえさん、なんて優しい笑顔。今夜からしばらく桐ヶ
男の格好をしているねえさんの胸にきつく巻かれた、さらしをほどいてあげる。
二人で手をつないで材木座海岸を歩いていると、急に強い風が吹いてきた。波が白い牙を研いで襲いかかろうとする。強い風に舞い上がった砂が容赦なく、目や口に飛びこんでくる。急に
「
ねえさんが抱きしめて風から守ってくれた。しばらくすると風は弱くなった。
「八重、目を見せて。まばたきしないで」
顔をしかめて恐る恐る目を開ける。ねえさんの形のいい唇から真っ赤な細長い舌が覗いている。目玉についた砂を舌先でチロリと舐めてくれた。ちょっと怖いけど、気持ちがいい。
「ありがとう。そういえば、いつか羽虫が目に飛び込んできた時も舐めてくれたね」
「ふふ、八重は大きな目玉で、いつもぼんやり何かを見ている。だから、羽虫が吸い寄せられて飛び込んでくる。姉妹なのに、あたしは細い目なのに似てないね」
ぼんやりしているのは、ねえさんに見とれているから。ねえさんとわたしは腹違いの姉妹。父さんが宴に呼んだ流浪の
初めてねえさんに会った時、まだ互いに幼かった。痩せていて真っ黒な顔で短い髪をしていたから、ずっと男の子だと思っていた。背が高くて、しなやかな長い手足の美しい男の子。わたしの初恋だった。
また強い風が吹く。
「風は嫌い。船を転覆させて、あたしを海の底に沈めた」
「え、ねえさん、何を言っているの。泳ぎが得意なのに」
そっと唇をふさがれた。ねえさんの唇は桜の花びらのように、ふわりと冷たい。
ふと気づくと、いつの間にか、わたしの柔らかい手は硬く
そういえば、わたしは歳をとった。ねえさんは大島桜を持って来てくれた帰りに、船が嵐に
でも、寂しくない。ねえさんの大島桜が毎年春に花を咲かせてくれるから。一生懸命に桜を守ってきた。今年も美しく咲いてくれた。桜の木はいいな。花を何度も咲かせることができる。桐ヶ谷の人々が、わたしたちの桜を鎌倉一美しい桜だと誉めてくれる。
それに、とても不思議な桜だと評判になった。一枝に八重の花びらの桜と一重の花びらの桜が、寄り添うように一緒に咲く。だから
だけど、やっぱり生身のねえさんと、もっと一緒にいたかったな。もっと抱き合いたかった。
「あ、こんな所で寝てる。起きてよ。もうすぐ征夷大将軍の足利尊氏がうちに花見に来るよ。京の都の御所に、八重婆ちゃんの桜を植えたいんだって」
白髪の老女は材木座海岸の砂浜で埋もれるように
鎌倉桜の別名は桐ヶ谷、八重一重、御車返し。薪用に植えられた大島桜が鎌倉の桐ヶ谷で突然変異した。足利尊氏によって鎌倉から持ち出され、京都御所の左近の桜として植えられたという。 了