第7話

文字数 2,336文字

 出勤して朋之が席に着くなり、隣の大滝が声をかけてきた。
 まだ月曜だというのに、週末飲みに行かないかというお誘いである。なんでも飲み屋で知り合ったOLと合コンの約束を取り付けてきたらしい。
 ふとヒミのことが頭をよぎり、朋之は小さくかぶりを振った。必要以上に干渉する気はないし、干渉される気もない。ヒミだって子どもじゃないのだ。冷凍庫の食材を切らしさえしなければ、問題ないだろう。現に今このときだってひとりで留守番しているのだ。
「すみません。俺、家の事情でしばらく早く帰らないといけなくて」
 だが、朋之の口からこぼれたのは、断りの文句だった。
 ヒミのためではない。ただ何となく合コンというものが面倒に感じられた。ただでさえ、厄介事を引き受けているのだ。これ以上、誰かにペースを崩されることに抵抗があるのかもしれない。
「なんだよ、日比野。付き合い悪いな。さては恋人でもできたか」
 断られると思っていなかったのか、大滝が口を尖らせる。
「違いますよ。ちょっと親戚の子どもを預かってるんです」
 ガキのお守りは大変ですよ、と朋之は笑ってみせたが、大滝はじっと疑り深い目で朋之を見ている。まさか家出少女を匿っているなんて思いもしないだろうが、嫌な汗が出そうになった。
「親戚の子ねえ。それじゃ、まあ仕方ないか。ほか当たってみるわ」
 大滝はあっさりと引いた。
「すみません。大滝さんの吉報待ってますんで」
「日比野に言われると嫌味に聞こえる」
 冗談交じりに言われて、朋之は苦笑した。
「嫌味なわけないじゃないですか。ひどいなあ」
 大滝は気のいい人間だ。真面目だし、面倒見もいい。
 先日三十五歳になったばかりで、本人は早く結婚したいらしいのだが、なかなかこれといった相手が見つからないのだとよくボヤいている。
 朋之は大滝のことを優良物件だと思っているが、女たちの見る目がないのか、はたまた大滝が高望みなのか、なかなか浮いた話には発展しないのだった。
「だってさ、日比野はモテるだろ。なのに、彼女作らないなんて贅沢だよ」
「別にモテませんよ。それに彼女を作らないんじゃなくて、縁がないだけです。大滝さんと一緒ですよ」
「いやいや、全然違うよ」
 大滝が苦笑する。
 そこへ営業の佐々木が通りかかり、ゴミを見るような目で朋之に一瞥をくれた。
 部は違えど、佐々木とは入社時期が近かったこともあり、ふたりで飲んだこともある。もうだいぶ前の話だ。
「大滝さん、日比野は誘わないほうがいいですよ。人を人とも思わないで、好き勝手食い尽くす、そんな奴ですから」
 吐き捨てるように言うだけ言って、佐々木は外回りに出かけていった。反論する余地もない。
「はは……日比野、あいつに嫌われてるなあ」
「はあ」
「……まあ、噂は知ってるよ。あいつの彼女、その、寝取ったって」
 大滝が声をひそめた。
「そんなんじゃ、ありませんよ」
 本当にそんなんじゃなかった。
 佐々木と同席した合コンで知り合った女が佐々木と付き合い始めたなんてまったく知らなかったのだ。
 だから、彼女から連絡がきたとき、一度だけ寝た。もし、佐々木とのことを知っていたのなら、適当にあしらっておいたはずだ。そんなことで波風を立てるほど馬鹿ではない。
 何より、面倒事は朋之が一番苦手とすることなのだ。
 朋之はこっそり息を吐いた。
「うん、まあ、そうだな。あんまり気にするな」
 大滝は朋之の肩をぽんと一つ叩くと、仕事にとりかかった。

 帰宅すると、鍵の音を聞きつけたヒミが玄関へ飛んで出てきた。ふと昔飼っていた犬を思い出す。
「おかえり朋之! お風呂にする? それともごはん? それとも」
「気持ち悪い出迎えはヤメロ」
 犬どころか、昭和の新妻よろしく、今にも「それともわたし?」なんて言い出しそうなヒミの言葉を朋之は慌てて遮った。
「失礼だな。ちょっとテレビの真似をしてみただけだ」
「ったく、暇だからって一体何の番組観てるんだよ。どうせ昼時にやってる主婦向けのやつじゃないのか」
「よくわかるな」
 ヒミは関心したように顎に手を当てて朋之を見る。朋之はやれやれと肩をすくめた。
「そもそも風呂の沸かし方なんて知ってるのか?」
 ジャケットを脱ぎながら、ため息まじりに問いかける。
 風呂を沸かすのは栓をして湯をためるだけだが、レンジすら知らないヒミが風呂を沸かせるとはとうてい思えなかった。
「知らない」
 案の定、返ってきた答えはそれだ。
「じゃあ、どうやって沸かしたんだ?」
「沸かしてないよ。言ってみただけだ」
 朋之は全身から力が抜けていくのを感じた。人をおちょくってるのかと思ったが、ヒミの憮然とした表情を見る限りそういうわけでもなさそうだ。
「まあいいや。とりあえずメシにしよう。ヒミは食べたのか?」
 その答えはヒミの口から聞く必要はなかった。彼女の腹の音が雄弁に空腹を訴えている。
「朋之と一緒に食べようと思って待ってたんだ。わたしがすぐに作ってやるから待ってろ」
 ヒミは得意げにニッと笑うとぱたぱたと足音を立てながら、キッチンへ消えていった。なんの曲かもわからない鼻歌に混じって、冷凍庫を開け閉めする音が聞こえる。
「なあにが作ってやるだ。昨日までレンジも知らなかったくせに」
 朋之はひとりごちる。
 みぞおちのあたりにぞわぞわした違和感があるのは、家のキッチンに人の気配がするからだろう。それだけ、ひとりの時間が長かったということだ。
 だが、朋之にはひとりを厭う理由はなかった。
 朋之には大滝のような結婚願望はないし、誰かと一緒に生きていくなんて想像すらできない。むしろ、ひとりのほうが気が楽だった。今のほうが、よほど落ち着かない。
 そんな朋之の気持ちなど知る由もなく、ヒミの明るい鼻歌が響き続けていた。
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