第5話

文字数 3,532文字

 夏木はその小柄な体形には不釣り合いな大きなバッグと三脚を抱えてやってきた。聞けば、夕方から撮影が入っているのだという。
「忙しいところすみません」
 朋之は謝罪した。
 夏木はあくまで仕事の取引相手だ。朋之のプライベートの頼みごとに付き合う義理などないし、断られたって文句は言えなかった。なのに、わざわざ仕事の合間をぬってきてくれたことに自然と頭がさがる。
「いいから。で、電話で話してた子は?」
 玄関先に荷物をおろしながら、夏木はすぐに本題に入った。
「まだ寝室に立てこもってます」
 だいたいの経緯は電話で話してあったが、あらためて細かく説明する。
「わかったわ」
 夏木は頷くと、迷いなく寝室に足を向けた。
 その足取りを見て、朋之の口の中に苦いものが広がっていく。もしかすると、自分はひどく不適切な相手に助けを求めてしまったのではないか。そんな不安がよぎり、それを振り払うように朋之は首を振った。今さら後悔したところでどうにもならないのだ。
「ヒミ、ほらお姉さんがきてくれたぞ」
 ドアのところからシーツの中で丸まっているヒミに朋之は声をかけた。
 白い塊がもそっと動く。
「おみやげにプリンもらったから一緒に食おう」
 嘘だったが、プリンという響きにつられ、ヒミはようやく姿を現した。
 寝ていたのか、眠たそうに目をこすっている。
「うーん……なんというか、日比野くんがロリコンだったとはね」
 夏木がぼそっと小声でつぶやいた。
 朋之は長く息を吐き、それから「違いますよ」と短く否定した。夏木の冗談であることはわかっていたが、笑えない。
 ヒミは朋之と夏木の様子からプリンが嘘だということを見抜いたらしく、不服そうな顔でベッドの上に正座している。
「それで本当のところ、この子誰なの?」
「名前はヒミ。今のところそれしか」
「苗字は? 年齢は?」
 だから知りませんよ、と力なく言ってみる。
 同情してくれることを少し期待したが、同情どころか心底呆れた様子で目をそらされた。まさか本気でロリコン疑惑をかけられているのだろうか。
「交番には届けたの?」
「連れて行こうとしても嫌がるんですよ。ここがいいって」
 夏木は驚いたように目を開き、なんでそんなに気に入られているのよ、と眉間にしわを寄せた。不信に満ち満ちた視線が痛い。「朋之と一緒にいたい」なんて言われたことを明かしたら、ますます疑われそうだった。
「……で、どうするの?」
「どうしましょう?」
 まったく、と夏木はますます呆れたように肩をすくめた。なんで後先考えず女の子なんか拾ってくるのよ、とヒミに聞こえないよう小声で怒る。
 別に拾ったわけではなかったが、夏木の言い分はもっともだった。
 下手をすれば淫行や監禁の疑いだってかけられかねない。そんなことになれば、当然、会社は懲戒免職だ。これまでとりたてて良い人生を送ってきたわけではないが、それなりに積み重ねてきたものはある。それがすべてパアになるのだ。たいした人生ではないとしても、失うものは大きかった。
「まったく仕方ないわね。とりあえず私が話してみるわ」
 夏木がゆっくりとヒミに近づくと、ヒミは警戒心をあらわに壁際に身を寄せた。野良猫のように、全身が逆立っていくさまが手に取るようにわかる。
「はじめまして、ヒミちゃん。私は夏木、夏木美保。日比野くんの友人よ。よろしくね」
 夏木は遠慮がちにベッドの端に腰をおろし、ヒミにほほ笑みかけた。もちろんヒミは笑みを返すどころか、夏木と目を合わせようともしなかった。一貫してふてくされた顔をしている。
「その、日比野くんは男性だし、外してもらったほうがいい?」
 夏木がドアにもたれる朋之をちらりと見やる。ヒミは首を横に振った。
「そう。ところでヒミちゃんは学生さん?」
 夏木と朋之の視線がヒミに注がれるが、その首は縦にも横にも一ミリたりとも動かなかった。
「ねえ、ヒミちゃん。もし困ってることがあるのなら話してほしいの。もちろん話せる範囲で構わないわ。協力できることなら、いくらでも協力したいから。って、初対面の人に言われても困るかもしれないわね。だけど私もね、ヒミちゃんくらいの頃はそれなりに悩み多くて、他人事とは思えないのよ」
 真摯に話を聞こうとする夏木のアプローチを、朋之は感心して眺めていた。これならヒミも何か話してくれるかもしれないとも思った。
 けれど、肝心のヒミはつまらなさそうに、フンと鼻を鳴らしただけだった。
 それから、
「あいにくだが、わたしには話すことなどなにもない。悩みなんてものもない。ここにいたいから、いるだけだ。どうせ朋之の差し金なんだろうが、わたしになにを言っても無駄だ。わたしはここを離れるつもりはない。わかったら、さっさと出ていけ」
 朋之はうんざりと天を仰いだ。こいつはまたなんでこうも偉そうなんだ。いったいどんな教育を受ければ、こんな礼儀知らずに育つのだろう。本気で親の顔が見てみたくなる。
 夏木はといえば、いきなりの洗礼に口をぽかんと開けたままだ。
「こほん……でも、あなた。未成年でしょう? 親御さんが心配してるわ」
 気を取り直したのか、夏木が続ける。その声は先ほどよりも幾分か固さを含んでいた。
「わたしには親などいない。それに……」
「それに?」
「絶対に戻るなって」
 ヒミが一瞬だけ泣きそうに見えた。
 夏木もそのことに気づいたらしく、気遣うように「誰に言われたの?」と訊ねた。けれど、ヒミはそれ以上はなにも話そうとはしなかった。
 そのあとは、質問してもなだめすかしても、ヒミはうつむいたまま完全に沈黙してしまった。夏木がいろいろと話しかけるが、聞いているのかどうかすらもわからなかった。
「困ったわね」
 ついに夏木はヒミを離れ、朋之にそっと耳打ちした。
(警察の人、呼んだほうがいいかもしれないわ)
 その瞬間、
「それはダメだ! そんなことは許さない! そうだ、ほら、これを見ろ!」
 ヒミは牙を剥くように叫びながら、ワンピースの左袖をまくり上げた。
 朋之は思わず目を見張った。露わになったのは、透き通るほどに青白く細い手首。そこには生々しく青紫色に変色した痕があった。
 何の痕かはわからない。だが、手首を縛られていたのだろうということだけは容易に想像がついた。ヒミは本当にどこかに監禁されていたのかもしれない。
「日比野くん……」
 夏木が視線を投げかけてきた。その目は何があったのかと問いたげだったが、朋之は静かに首を横に振った。
「ヒミ、お前、それはどうしたんだ?」
「……」
 ヒミの身に何があったのかは知らないが、ヒミは本当の事を言うつもりはないのだろう。
 いずれにしても、ヒミが真実を語らない以上、無理矢理警察へ届けるのは得策ではなかった。連れていけば間違いなく朋之が何かしら疑われるだろうし、事情だって聞かれる。もしヒミが嘘をついて「朋之がやった」なんて言いでもしたら、かなり絶望的だ。
 いずれ疑惑は晴れるだろうが、痴漢の冤罪と同じでそんなものが何の救いにもならないことくらい知っている。
 どうやら事態はだんだん面倒な方向へ進んでいるようだった。

「夏木さん、すみません。せっかく来てもらったのに」
 玄関口で朋之は謝罪を口にした。
「ううん。私のほうこそ役に立てなくてごめんね。それよりこれからどうするの?」
「しばらく様子を見て、ヒミが落ち着いたらもう一度事情を聞いてみます。後のことはそれから」
「そう。私もたまに様子を見にくるわ。乗りかかった船だし」
「すみません」
 夏木は黒のスニーカーに踵を押し込み、バッグと三脚を持ち上げた。
「ねえ、日比野くん」
 あらためて名前を呼ばれ、朋之は夏木を見た。二呼吸ほどおいてから、ためらいがちに夏木が口を開いた。
「その、あの子のこと、本当に何も知らないの?」
「はい。残念ながら」
 はなから疑っているわけではないのだろうが、それでも再確認しなければ気がすまなかったのだろう。
 十四、五の少女がたった一晩で年齢(とし)の離れた見ず知らずの男に懐き、そばを離れたがらないなんてことは普通ではありえないし、信じられないのは当然のことだ。本当に面識がなかったのか、なにもしていないのか、疑いたくなるのも無理はない。
 夏木が時々様子を見にくると言ってくれたのは、本人が意識しているにしろないにしろ、見張りの意味も込められているのだと思った。
「あの、夏木さん」
「なに?」
「いや、なんでもないです。今日はありがとうございました」
 夏木の心配の種を取り除くために、何かに誓って自分の無実を訴えようとしたが、あいにく誓えるようなものは何もなかった。神に誓って、なんて無信仰の朋之が言ったところで、なんの説得力も持ちやしないのだ。
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