第4話 転移の兆候

文字数 7,096文字

1 リンガ泊地 昭和19(1944)年12月24日 15:00
・空母蛟龍 羅針盤艦橋
 この日、クリスマスとは何の関係もない日本海軍では、これまた何の催物も開催されずに戦時の艦隊行動訓練を終えすでに錨泊中で、ついでながら、翌日もその次の日も同様に、訓練以外の予定は何も組まれていなかった。

 本日の日課をほぼ終え、蛟龍羅針艦橋では、第25航空戦隊司令の桑園了也少将と蛟龍艦長の稲積正樹大佐が、来るべき神武作戦について会話を交わしていた。
 二人とも、服装は緑色の背広式上下にネクタイを締める第三種軍装である。
 
 桑園少将は、艦橋前方の窓から霞み始めた外を見遣りながら、右舷側に立って窓外に双眼鏡を向けていた稲積艦長に話し掛けた。

「空母を使って特攻とはな。いよいよ聯合艦隊司令部(G.F.)も切羽詰まったか。」

 双眼鏡で右舷側の戦艦出雲を眺めていた稲積大佐は、その言葉を聞いて双眼鏡から目を離し、桑園の方へ顔を向けた。

「いいえ、私なんぞは、聯合艦隊(G.F.)司令部が、まだ空母を使った作戦を計画するなどとは、到底思いもしませんでしたよ。」

 そう言い終えた稲積は、再び外へ目を向け

「えらく霧が出て来ましたな。スコールならともかく、この辺りじゃあ濃霧なぞ、とんと珍しいです。」
 
と桑園に言ったが、桑園からは気のなさそうな

「そうだなぁ。霧はともかく、紫月は作戦に間に合わんかなぁ…。」

という返事が戻って来ただけだった。


 蛟龍後方飛行甲板

 普段、蛟龍の飛行甲板後方には、敵潜水艦の出現に備え、両翼に6番(60㎏)対潜爆弾を装備した九九艦爆3機が、いつでも発艦できるように待機していた。

 それら艦爆のうち1機の機付兵(整備担当)である渡辺上等整備兵は、機体を雑布(ソーフ)で拭きながら

「艦が揺れると、機体の固縛が面倒だな。」

などとぼんやり考えていた。

 艦が動揺する場合、飛行甲板上と格納庫内の機体は、甲板(床)上のアイボルトと機体を、係止索で固定しなければならないのである。

 作業中の渡辺上水が、ふと顔を上げてみると、海上には霧が発生し始めており、右舷500mほどの場所に錨泊しているはずの出雲の艦影が、霞んできている。
 それどころか、目を艦首に向けると、艦首付近の飛行甲板すら霞んできていた。

・戦艦出雲羅針艦橋
 出雲の羅針艦橋では、艦長の白石源助大佐が、前甲板の第一、第二番砲塔を見下ろしながら、副長の星美貞夫中佐と雑談を交わしていた。

 主砲塔を見下ろしているからという訳でもないが、白石艦長は嘆くような口調で、星美副長に語り掛けた。

「もう、本艦の主砲が敵艦に向けて火を噴くってことはないんだろうなぁ。」

 星美は、いかにも同意というように

「昨今、主砲の発砲は対空戦闘だけですからな。徹甲弾なんぞ、積んでおくだけ無駄になっております。」

と答えた。

 出雲左舷側前上甲板
 第一分隊(第一主砲塔分隊)の清水一等水兵は、分隊士の命令で、第二一分隊(主計科)へ伝令として向かうため、艦尾方向へ走っていた。
   
 擦れ違う上官にいちいち敬礼しながらであるから、正直、面倒なことこの上ない。

 そもそも伝令といっても、主計科が管理する酒保(手拭い、塵紙、石鹸などの日用品や酒、菓子、煙草などの嗜好品を販売する軍隊内の売店)へ、分隊所属将兵の買い物リストを届けに行くだけである。

 それでも、手違いなどがあろうものなら下士官や古参兵から嫌というほど殴られるから、下級の兵隊に気を抜く余裕はない。

 その清水一水も、艦全体が靄のようなものに覆われ始め、前楼トップにある方位盤射撃所の辺りが霞んでいることに気が付いた。
  
・松型駆逐艦 (くぬぎ)艦橋
 出雲の後方1㌋ほどに錨泊していた、駆逐艦櫟の艦長松戸紘一少佐は、艦長個室で少し溜まった資料の整理中であったが、ひんやりとした空気の流れに気付き、開け放れた舷窓から外を見ると、ひどく濃い霧が海上を漂よい始めていることに気付いた。
   
 松戸は、いったん万年筆を置くと羅針艦橋へ行き、様子を見ることにした。
   
 彼の入室に気付いた航海長薬園大尉以下の当直将兵が一斉に敬礼したので、答礼する。
   
 答礼を終えて艦橋の窓から外を見回すと、一面の白い世界で、錨泊中の友軍艦艇は、一隻も見えなかった。

「ひどい濃霧だ。」

 場を和ますために冗談の一つも言おうとしたが、彼の口からは、そんな当たり前の感想しか出てこなかった。

 そのほかの駆逐艦葉月と給油艦野付も、濃霧、と言うよりも白い闇の中に包まれてしまい、他艦どころか自艦の前後の端さえ見えない状況に陥っていた。
 
 蛟龍の防空指揮所で、視界が真っ白で何も見えない双眼鏡を覗いていた対空見張り員が

「俺たち、神隠しに遭っているみたいだなぁ。」

と呟くように言うと

「ホントだなぁ。」

 隣にいた別の見張り員が、それを聞いて、やはり呟くように言った。

2 千島列島択捉島南方海上
・特設水上機母艦 令川丸艦橋 12月24日 15:00
 令川丸は、元は欧米航路用に建造された1万t級の貨物船で、海軍に徴用された後、後部甲板を飛行甲板とし、水上機母艦として運用されるようになり、水上偵察機など12機を搭載、青森県の大湊を母港としながら、ついに飛行場が建設されなかった、アリューシャン列島のアッツ島、キスカ島方面の貴重な航空戦力として活動を続けるなど、僚艦が輸送艦に改装される中、唯一、水上機母艦として残っていた。

 今回の輸送と対潜掃討は、令川丸が特務艦籍ながら先任艦として先任旗を掲げ、今は艦橋で前方窓際に腰掛けている南郷徹大佐が、臨時に指揮を執っている。
  
 乗組み将兵たちは、ここのところ着用することの多かった第三種軍装ではなく、紺色の第一種軍装の上に厚手の防寒着を着用し、毛皮が内張りされた防寒帽を被り、ミトンの厚い手袋をはめている。

 南郷大佐は、霧のため白さを増してきた前方を凝視しながら

「副長、後続艦は着いているか。」

と、後方で航海長と一緒に海図を眺めている、副長の大谷地茂中佐に、何回目かの同じ質問をした。

「着いております。」

 大谷地中佐は、艦橋の張り出しから後方を確認してから答えた。
  
 霧のため、後続艦は航海灯がようやく見えるほどに霞んでいる。

 太平洋戦争劈頭、華々しく真珠湾攻撃を行った南雲機動部隊は、択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)から出撃した。

 先刻、霧が出始めるまでは、澄んだ空の向こうに散布山や神威岳といった、雪を戴いた択捉島の美しい山々が、くっきりと見えていた。

 この艦隊は、利尻と天売が、単縦陣で進む令川丸、輸送艦第百号、根室を挟み込む隊形を組み、時速12㌩で北東方向へ進んでいる。

 大きさも最大速度もバラバラの艦艇で艦隊を組み、しかも荒れる冬季の北の海を航行するのは、ただでさえ骨が折れるのに、先刻から、追い打ちをかける様に濃霧が発生してきている。

 令川丸以下の各艦は、後方に霧標識を曳航し、後方の艦に注意を促して、後方の艦は、これを見逃すまいと必死に喰らい付き、また、全艦艇が電探(レーダー)で周囲を探査し、衝突や行方不明を防いでいる。

 「『ケ号作戦』の時は、多重衝突が起きたしなぁ。」

 南郷大佐が、後方の大谷地中佐へ、思い出したように話し掛けた。

 前年7月に実施し、奇跡的な成功を収めた「ケ号作戦」、即ち、キスカ島撤退作戦は、作戦の往路、海防艦国後が軽巡洋艦阿武隈に衝突したことを切っ掛けに、後方に続く艦が多重衝突を起こすなど、危うい場面があった。

 もっとも、艦隊を率いていた木村昌副少将は、恐縮する部下に向かい

「味方が衝突するんだから、霧は満点だな。」
  
と笑い飛ばしたという逸話がある。

「俺には、木村少将みたいな冗談を言える洒落っ気はないしな。」

 南郷は、苦笑いをしながら続けて言った。

「それこそご冗談を。」

と大谷地が笑いながら言い返すと、南郷も愉快そうに笑い返した。
   
 一瞬、微笑んだ南郷であるが、大谷地の愛想に言い返す代わり、気を引き締める様に

「対空、対潜警戒を厳とせよ。電探、逆探、水測も気を抜くな。」

とに命じ、自らも改めて双眼鏡を目に当てた。

「本当に『ケ号作戦』以来の霧かも知れん。夏場ならいざ知らず、こんな冬場に霧が出るなぞ、聞いたこともねえ。」

 南郷が独り言ちているうちに霧は濃さを増し、信号灯を点滅させながら両側500mを行く利尻と天売どころか、自艦の前甲板も見えなくなってしまった。

3 小笠原輸送隊 
 今回の小笠原増援輸送隊は、すべて小笠原諸島への補給を目的としていたが、小口輸送の方が敵に発見され難いことと、艦艇の速度の違いから先発隊と後発隊に分割された。

 先発隊は、海防艦第83号、輸送艦第九十九号で編成されたが、給糧艦浦賀は、レシプロ蒸気エンジンであるため、最も船足が遅かったことから、駆潜艇第59号とともに、後発隊として後を追ったが、結局のところ、最終的な父島到着は、先発隊よりも丸一日遅れるものと見込まれた。

 海防艦第83号以下の先発隊は、不定期にジグザグに進む「之の字運動」を繰り返しながら単縦陣を組んで時速14㌩で航行し、途中、敵潜水艦の魚雷攻撃を危うく(かわ)しながら12月23日午後、父島へ到着、二見湾内に投錨した。

 安着とはいえ、敵の空襲などがあれば、直ちに対空戦闘、回避行動へ移る準備は怠っていない。

・海防艦第83号 父島二見湾 12月24日 15:00
 海防艦第83号艦長の岩木予備大尉は、高等商船学校出身で、量産された海防艦同様、「促成栽培」された艦長である。

 ちなみに、日本海軍は、軍隊であるからは階級制度の組織であるのは当然として、貴族的身分制度の非常に色濃い組織でもあった。
   
 下士官や兵はともかく、少尉以上の士官についても海軍兵学校卒業者は普通に少尉、中尉などと呼ばれるが、高等商船学校や一般大学出身者は「予備」が付いて予備少尉などと呼ばれ、最下級の水兵や下士官から叩き上げた者は「特務」が付いて特務少尉などと呼ばれた。

 この「出自」の違いは待遇にも現れており、一般の士官は、公室は士官室で、分隊長(普通は大尉)以上は個室を与えられたが、そのほかの「士官」は、士官次室(通称ガンルーム)が公室で、居室は数人ごとであった。

 そんな状況であるから、士官と下士官、兵が個人的に交わることも少なく、同じ飛行機に乗り組んでいる(搭乗者は何人でも「ペア」といった。)のに、ろくに名前も分からないことが珍しくなく、軍歴の古い叩き上げの特務士官から見れば、兵学校を出て間もない士官は「経験のない坊や」であり、同じく軍歴の浅い予備士官については「スペア」と呼び、腹の底では馬鹿にしていた。

 こんな調子であるから、予備士官や特務士官が、小艦艇といえども「艦長」職を務めるなど、平時ではあり得なかったが、太平洋戦争突入後の艦艇と人員の大消耗と、海防艦や駆潜艇の大量建造が、岩木大尉のような立場の者をも大量生産したのである。

 岩木艦長は、とりあえず父島まで到着したことに安堵はしながら、未だ後発隊とは合流しておらず、また、これから先の硫黄島までが本当の任務であると気を引き締めるべく、艦橋で自ら高声令達器のマイクに掛かり

「本艦は幸運にも父島まで到着した。しかし、輸送艦を硫黄島へ送り届ることが任務である。各員、そのことを肝に銘じておけ。」

と、艦内放送で各部へ檄を飛ばした。

 放送を終えた岩木が、双眼鏡で周囲を見渡し、千早に焦点を合わせようと抓みを調整しているうちに、彼は、視野が白くぼやけ始めていることから、霧が出てきたことに気付いた。

・輸送艦第九十九号 12月24日 15:00
この艦、百一型二等輸送艦第九十九号は、満載排水量が約1,000tで、砂浜に接岸して艦首の渡し板から車両を上陸させるという、要するに、中型の戦車揚陸艦をイメージすれば良い艦である。

 前甲板は2段式になっていて、戦車などを上下2段に搭載することができるタイプであった。

 後方にある艦橋で、艦長の八木平一予備大尉は、横須賀出航以来、積載している三式中戦車、九七式中戦車(旧砲塔)、九五式軽戦車の各3輌ずつ計9輌と、自動貨車(トラック)2輌に加え、弾薬と燃料等の物資が硫黄島へ無事に届くかどうかだけを考えていた。

 物資揚陸後、上手く行けば、入れ替わりに現地の傷病兵を引き取って本土へ連れ帰る予定であったが、先行した輸送船が敵潜水艦に撃沈され、輸送中の戦車26輌が海没してしまった直後でもあり、責任を必要以上に感じていたのであった。

 そんな八木大尉も、視界を遮り始めた霧に気付いた。
 輸送中の戦車中隊長である似鳥陸軍中尉が、いつの間にか艦橋に上がって八木の傍らに立ち

「後発隊も未着でありますし、この霧が濃くなれば、硫黄島行きも、余計に遅れることになるのでありましょうな。」

と話し掛けてきた。

 八木も、今後の輸送への影響が気になり始めていたことは一緒だったから

「そうですね。今のところ、後発隊から敵襲の連絡は入っていませんが、霧の中では魚雷の航跡も発見し辛くなりますから、航海は慎重にはならざるを得ませんね。」

と答えた。

 似鳥中尉は、昭和14年に日ソ両軍が激突したノモンハン事件で戦って以来、太平洋戦争突入後はビルマ、フィリピンと転戦して来た歴戦の猛者である。
 
 口調は固いが、思考には柔軟性がある人物と八木は感じていた。

 本来ならば、もう佐官になってもおかしくはないように思えるが、きっと何か訳ありなのだろう、と八木は勝手に想像していたものの、無論、余計なことは口に出さなかった。

 話し終えた八木が、改めて周囲を見ると、さっきまで湾内に見えていた水上機母艦千早をはじめ、景色はもうすっかり霧の中に隠れてしまい、何も視認することはできなかった。

・父島二見湾口 後発隊
 先発隊に後れを取っていた駆潜艇第59号と給糧艦浦賀は、24日の15:00頃、ようやく父島の二見湾口付近まで到着、先発隊と合流した。

 横須賀出航以来、給糧艦浦賀は、駆潜艇第59号の後方約300mに着けて航行して来たが、如何せん大正年間に建造された老兵で、機関と言えば、相変わらず蒸気機関車と同じ石炭焚きレシプロエンジンだった。

 したがって、空荷で頑張っても全速で13~14㌩がせいぜいであり、実用上は10㌩と少ししか出せず、船団が組めないために単独での行動が多かった。
 
 ただし、給糧艦はどこへ行っても将兵に超絶人気であって、万一、喪失することがあれば、全軍の士気に関わるとまで言われていたのは先述のとおりである。

 今回は、小笠原方面への、ほぼ最後の糧秣輸送(給糧)と考えられ、ついでながら、父島所在の水偵隊に、補充目的で、九四式水上偵察機1機と零式水上観測機1機を上甲板に搭載して来たため、聯合艦隊司令部でも、さすがに、駆潜艇を護衛に付けたのである。

 浦賀の艦長である千葉篤弘海軍大佐は、専門の無線傍受部隊が乗艦している戦艦の通信長を務めたことがある、その方面のベテランであった。

 給糧艦は、他艦の無線交信状況を監督する無線監査艦を兼ねていることから、艦長職には通信出身者が就くことが多く、千葉大佐も、例に洩れなかった。

 駆潜艇第59号と浦賀は、湾口が西側に開けた父島二見湾の入り口には到着したが、その頃から霧が発生し始め、じきにほとんど視界が効かない濃霧となってしまった。

 一時は進退窮まったが、駆潜艇の電探捜索結果と、こちらの霧笛に応え海防艦が放ってくれた砲声を頼りにして、ようやく、先発隊と合流を果たすことができたのである。
 
 父島はすでに戦場であったものの、この天候では、取りあえず米軍の空襲については、心配はしなくても良さそうであった。

 輸送隊各艦艇の乗組み将兵は、二見湾内に「正規の軍艦」である千早が停泊していることを、何となく心強く感じていた。

 輸送隊は、海防艦籍や特務艦籍にある艦艇で構成されており、「正規の軍艦」、即ち艦首に菊の紋章を掲げた艦はなく、今、父島に在泊する艦艇群の中で千早が唯一の「軍艦」であって、海軍々人たるもの、誰しもが、大なり小なり「軍艦」へのこだわりを持っているものであった。 

・水上機母艦千早艦橋 二見湾 12月24日 15:00
 千早が、横須賀から魚雷艇を搭載して小笠原諸島を目指し、敵潜水艦の襲撃を兄島付近で逃れ、その後、父島の二見湾で錨泊していたことは先述のとおりであるが、魚雷艇を降ろす作業に取り掛かったところで、輸送隊同様に濃霧に遭い、一時作業を中断していた。

 艦橋で指揮を執っていた艦長の如月大佐は、千早は単独で行動していたので、少し不安も感じていたところであるが、二見湾内に停泊後、輸送隊が到着したため、何となくホッとしていた。

 同じく艦橋で作業の監督に当たっていた副長の宇月中佐も似たような思いを抱いていたらしく、如月艦長に向かって

「やはり、味方が居ると心強いですな。」

と心境を吐露した。

「しかし、せっかく味方と出会えたのに、霧の彼方に消えてしまったな。」

 如月の残念そうな答えに宇月が

「それでも『そこに味方が居る。』というだけで、気持ちが随分と違うものです。」

と応じると、如月は「いかにも同感。」というように深く頷いた。

「ただ、軍艦は本艦ただ1隻のみですから、小艦艇の連中は、存外こちらを頼もしく思っているかも知れませんな。」

 続く宇月の言葉にも、如月は「確かに。」という風に頷いて見せた。

さてその頃、千早ほかの艦艇が停泊中の父島に向かい 南下中の、二式大型飛行艇が1機あった。

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