第15回 原因を教わる 対処に悩む

文字数 9,987文字

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グロテスクな光景への言及が含まれます。苦手な方はご注意ください。
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 雲を飛ばして、トシュは渓流にやってきた。岸の両側は見渡す限り、立派な柳が枝を揺らして並んでいる。南側を探して、幹が九つに分かれているものをみつけてそこに下り、根元を左に三度、右に三度回ると、両手でバンとその幹を叩いた。と、木の皮が割れ、中から門が現れて、独りでに開く。
 門の中は屋外のように明るく、しかし山奥に似てやや暗く、霧が立ち込めて涼しく、濃い緑の苔や珍しい草花が視界を彩っている。ずんずん歩いていくと、これも色の濃い岩でできた洞窟の前に、雪のように真っ白な鹿が、疲れ切った様子で座り込んでいた。
 トシュは無造作に、鹿の前に狐を投げ出した。
 鹿はまず跳ね上がり、次には飛び下がったが、それから恐る恐るといった風に近づいてきて、頭を下げて狐のにおいを嗅いだ。きゅうん、と小さく鳴いたかと思うと、長い首を()らして天を仰ぐ。切なく悲しい鳴き声が、尾を引くように長々と響き渡った。
「そいつが可愛いのか?」
 木霊が静まるのを待って、青年は冷たく言った。
「うちの可愛いお(ひい)さんはおまえに殺されかけたがな。そいつの胸を()いて心臓を取り出してやろうか」
 鹿は頭をこちらへ向けると、あの老人の姿になった。
(むご)いことを」
 その目は短い間に、泣き()らしたように赤くなっていた。
「こんな小娘ですぞ。わしに使われたに決まっておりましょうが。何故この娘を先に罰したのです」
 言う間に涙が盛り上がって、しばし、(むせ)び泣く。
「いかにも、いかにも、わしは非道なことをした。だが、これを殺す前に、申し開きをさせてくだすってもよかったではないですか」
「本人にさせたさ」
 トシュは鼻を鳴らした。
「俺より何十倍、何百倍生きてきて学んでねえのか知らねえが、身内に対してだけ犠牲的精神を発揮したって美徳にはなんねえんだよ。おまえがそいつを持ち上げれば持ち上げるほど、あの太守もあの小娘もそうじゃねえっつうことが強調されるばっかりだ」
 そう言いながら実のところ、この非難は少々分が悪いなとは思った。妖怪同士か人間同士なら妥当であっても、一方は妖怪、一方は人間というのでは、そのまま当て()めるわけにはいかない。他人を平等にいたわる人間だって、獣をその同列に置くことは稀だろう。
 だが、それでも、非道であったと自身を評した口で、反省の看板を掲げた下で、こちらを責めるのでは筋が通るまい。看板を掲げること自体が悪質なのだから——本当の目的は全く違うところにあるくせに。
「よくいるんだわ。自分の罪は認めるが、自分以外を巻き込むのは違うだの、自分の『大事な人』やら『大切な人』やらに手を出すなら容赦しないだの言って——自分をきれいに言い(つくろ)って、何とか相手を『自分より悪者』にして逆転しようとするやつってのはな。罪を認めるなんて言やあ聞こえはいいが、()()()しが効かなくなっただけだろうがよ」
 ぎろりと老人を睨む。
「そいつを退治されてべそつくんなら、なんでそいつに実行犯を任せた?」
 太守にずっと貼りついていたのは、美女に化けた狐の方だったろう。太守の体を妖気漬けにして病ませていったのも。
 老人はしばし、睨み返すようにしていたが、
「わかり申した」
 狐の前に座り直した。
「殺すがよかろう。これに追いつけるならば本望」
「だからそれをやめろっつってんだよ」
 トシュは苛立ちに顔を(しか)めた。
「それに、まだ逃げられちゃあ困るな。なんでまたあいつの心臓なんぞをそんなにも欲しがったのか、洗いざらい吐いてもらわなくちゃならん」
「あの娘の心臓を食べれば、不老長生、ひょっとしたら不老不死が手に入るんだ」
 後ろから声がした。
 老人ははっと顔を上げた。トシュの方は眉を寄せて振り返る。
「そなた」
「言うまで出てくるなっつったろうが」
「もういいだろう」
 女は簡単に言った。嘆息して手を振れば、狐の死骸は消え失せる。否、狐の毛に戻ったのだ。
 無論、殺してなどいない。この場所も、入り口となる柳の特徴も、門の呼び出し方も、観念した狐から教わったのだし。
 狐は鹿に歩み寄り、その(かたわ)らに(ひざまず)いた。鹿は涙ながらにその手を取る。結局、こちらは毛ほども反省していないだろう。妖怪が人間を食って何が悪い、と妖怪の倫理で反論されたなら仕方ないとは思っていたけれど、これではすっきりしない。
「どいつもこいつも、それで説明したことにしやがって。なんでそう思い込んだのかっつう根拠を聞きたいんだよ。俗人の小娘じゃねえか」
「あの清らかなにおいがわからないか。わかる者の間では噂になっている。ただの人里、俗世間のただ中に、高僧もかくやという清浄な存在が現れたと」
 八つ当たりめいた言だったが、狐は反発するでもなく答えた。それは確かに根拠の説明で、青年は眉を寄せた。そんなに、自明なことなのか。自分が知識不足か鈍感なのだとしたら、もう一歩踏み込んだ解説を求めなくてはなるまいが——。
 青年の顔色をどう取ったか、狐は続けた。
「我々の前にも、食おうとしたやつがいただろう。だから焦った。急がねば他のやつに取られてしまうと」
 ——目を(みは)った。聞き出そうとしていたこととは角度が異なるけれども、疑問の一つはこれで氷解したので。
 マオのせい、なのだ。
 マオが焚きつけたのだ。マオがセディカを襲ったことで、セディカを狙う妖怪たちを刺激してしまったのだ。狙われること自体の直接的な理由が何であれ、この狐と鹿が、あの金魚が、今、急に決行したのは、マオのせい——だ。
「……どこが……そんなに、必死になるほど清浄だって」
「残念ながら、というのも不適当だが。見込み違いだな」
 第四の声が割り込んだ。
 トシュは目を()いて(ちん)入者を見た。〈天(せい)〉——ではないか。
「何してんだよ。こんなとこで」
「その鹿の主人が心配するんでね。おまえが怒って殺すのではないかと」
「主人だって?」
「天神が乗用に飼っていたんだよ。主人が客と話し込んでいる間に逃げたらしくてね、捜し出したと思ったらこのありさまだったから」
「……ほう。天じゃ大した評判なんだな、俺は」
 皮肉を(こら)えなかったのは、別にマオのことの動揺を引きずって余裕がなかったということではない。純粋にカチンと来たのである。戦闘中でもうっかり相手を殺してしまわないよう気をつけているのに、怒りに任せて殺しなどするものか。
「〈あかがね(こう)仙〉の孫だとわたしが言ったせいで不安になったんじゃないかな。勘弁してやってくれ」
 そこを突かれると少々痛かった。父は強大な力を持つというだけで危険視されている節があったが、祖父は故意に暴れ回って天にも地にも迷惑をかけた前科があるので。
「天神に仕える鳥獣虫魚には、他者に仕えることが嫌になって地上に逃げたはいいが、そこで問題を起こすやつが時々いるんだ。自分より弱い者に威張れる代わり、自分より強い者が守ってもくれないとわかって、慌てた余りにね。主人の元にいれば修行にもなって、地上で自己流の研(さん)を積むよりよほど効率的だっただろうに」
 効率的って何だよ。
 鹿はと見ればすっかり縮こまっていた。いい気味だという思い半分、さっきまで自分の方こそが哀れだと言わんばかりの態度だったくせにという思い半分で、トシュは半眼を向ける。狐の方は〈天甥〉を知らないのだろう、鹿に(なら)って神妙にしてはいるものの、心底(かしこ)まってはいないようである。
「そんなだから、地上に生まれ育ったそいつが取り違えないようなことを混同するんだ。あの娘はなるほど清浄に感じられるかもしれないが、不死や不老を(もたら)す高僧の清らかさとは全くの別物だよ」
「別物……」
 〈天甥〉の言葉に、鹿は傷ついたような顔をした。
 はっとした。溜飲を下げている場合ではない。
「あんたはわかってるんだな? こいつらが何をどう誤解したのか」
「ああ。これの主人に頼まれたときに、この目で見たからね」
 額を示して、だが、〈天甥〉は先回りした。
「話せないようなことではないが、わたしから言うのはやめておこう。君のご主人様から聞いた方がいい」
「主人じゃねえよ」
「失敬。君を庇護している〈慈愛神〉から聞いた方が、何かと面倒が起こらなくていいと思うよ。義理堅い君のことだから、先にわたしから知らされたとなると恩を——いや、借りを返さなければと思うだろう」
 どうにも反感を覚える言いようだったけれども、違うとも言いにくくてトシュは無言で膨れた。何が庇護だ。
「これはわたしが連れて帰るよ。そら、主人から盗んだ杖を出しなさい」
 老人はしおしおと、龍の巻きついた杖を差し出し、先のように白い鹿の姿を現した。
 と、女が目を円くした。
「この人を連れていってしまうの」
 と思うや両手を地面につくから驚く。
「嫌だ。わたしからこの人を奪わないでくれ。後生だ、後生だよ」
「君もそうして、狐に生まれながら人間の姿を取り、人間の言葉を話せるまでになっている身だ。罪を(つぐな)い、徳を積んで修行を重ねれば、いずれ天を訪ねる道も開かれるだろう。そうだね、君が(おびや)かしたこの郡の守り手になってやったらどうだい」
 〈天甥〉の言葉に、女は涙をこぼしながら鹿の首を抱くようにした。鹿も悲しげな声を立てる。本当は何歳と何歳なんだろうなと思わないでもなかったが、どうでもよい。
「こんなことなら離れるんじゃなかった。いつかあなたの隣りに戻る日が来ることだけを支えにしていたのに」
「誰のせいだよ」
 これには、トシュは口を出した。自分たちから太守に近づいたくせに。
「自分の方が哀れだと思ってる限り、またいつ何時同じことをやるかわかったもんじゃない。天に向かって誓いを立てるぐらいのことはしてくんなけりゃ、俺は胸を張ってあのお姫さんに復命できねえんだがね」
「そういうところは〈慈愛神〉に影響を受けているとは思えないな」
 〈天甥〉は笑った。
 狐は従順に、罪滅ぼしと修行のために人間を守ると誓い、だからいつか鹿に再び会わせてくれと付け加えた。これはこれで苦笑いせざるをえなかった。まあ、自分を飾り立てて弁護しようとしないだけ、鹿より潔くは、ある。

 〈天甥〉の勧めに従って、トシュは南天へ飛んだ。
「主人がお待ち申しております」
 あの緑の衣の女性が出迎えた。
「ああ、孔雀どの。〈通天霊王〉の一件では世話になった。いいタイミングであんたの主人が来てくれたよ」
 あのとき、〈慈愛天女〉の留守にも、この女性が応対してくれたのだ。その正体が孔雀であることも、そのときに聞いた。毒に当たらず、毒のある蛇や蠍を食べる霊鳥。
「わたくしは主人の手間を省くだけですわ」
 手柄顔をするようなことではないと言って、孔雀は案内に立った。
 神々に間近く仕える者たちはそうした意識でいるのかもしれない。神々の意思を実現するための手足として自身を規定するのかもしれない。自分は決してそうではないけれども——〈慈愛天女〉に代わってその慈悲を実現するために行動しているわけではないけれども、と女神の前に出ながらトシュは思った。
「あんたの助言が欲しいことは幾つかあるが、今は一つに絞る。セディカ=テュール——あの〈武神〉の末裔のことだ」
 まず、宣言する。
「あいつが()(たら)と妖怪に狙われる原因と、それを解消するにはどうすればいいかを知りたい。いや、最悪、言えないってんなら理由は言わんでもいい」
 因果がわからないでは気持ちが悪いけれど、それはトシュの問題だ。この女神が指示をくれるなら、ただ機械的に従っていてもきっと最良の結果が出るだろう。トシュ如きが詳しいことを聞いて有効性を検討しなくとも。
 女神は変わらぬ微笑みを浮かべていた。
「それを知ってどうするつもりだね?」
 青年は眉を上げた。
「あんたらしくねえことを訊くな。俺がどうにかしてやれるようならやってやるし、俺の手に負えねえようなら——何ならできるか考えるさ」
 勿体(もったい)をつけるではないかと思ったのだったが、その先はさらりと、(むし)ろ今少し勿体ぶってほしくなるほどあっさりと、続けられた。
「それなら、あの子を西の果てに連れていくといい。おまえの師なら、あの子を救う方法がわかるだろうし、実行することもできるだろう」
「な」
 青年は目を白黒させた。あまりにも想定外の言葉だったので。
「何だよ、それは? 西の果てだって?」
「〈高寄と高義と高臥の里〉までおまえの師に来てもらうこともできるだろうけれど、それで叶うのは言うなれば診断までだからね。治療のためには、結局、西の果てに行かなくてはなるまい。おまえはあの子を〈五つの連なる山〉から〈高寄と高義と高臥の里〉まで連れていったのだから、今度は〈高寄と高義と高臥の里〉から西の果てまで連れていってもいいだろう」
「無茶を言うんじゃねえよ!」
 悲鳴に近い声が出た。
 〈金()が羽を休める国〉は西国の一つであり、セディカを拾った山は帝国と別の西国との国境にあった。セディカ一人で旅するのは厳しかったにせよ、一般の人間が往来しうる範囲ではあったのだ。大陸の果て、世界の果てまでの旅路と、並べて語れるはずがない。距離も、時間も、——責任も。
「あいつは女だぞ。それも、何もわからん子供でも自分でどうにかできる大人でもない、子供から大人になる年頃の。そんなやつを俺なんぞについて歩かせろって?」
「あの子は女ではないよ」
 女神は平然と言った。
 ぶつりと、断ち切られたようにトシュは言葉を失った。女では——ない?
「我々神の目から見れば間違いなく女だが、地上の者には見分けられまい。技術が発展していけば、いつか識別できる日が来るかもしれないけれど」
「どういう……」
「あの子に性別はないのだよ。生まれつきね」
 その言葉は、ゆっくりとしてはいなかったとしても、聞き違える余地のない程度には丁(ねい)であった。
「原因はあの子の祖父にある。子を儲けるまいとして、中途半端な知識で作った手製の薬を服用していたからね。彼自身の体は損なわれなかったが、彼の子供、あの子の母親は、子孫を残す能力に損傷を持って生まれた。あの子の父親との相性がよかったから、辛うじてあの子が生まれたと言うべきか、相性が悪かったから、あの子に至って完全に壊れたと言うべきか」
 〈慈愛天女〉には珍しく、セディカの祖父に対する非難が含まれているようでもあったが、その顔つきや声音は子供のやんちゃに困ったときのように穏やかだった。
「このこと、人間には話さないでおくれ。薬というもの一切を、無闇に恐れる者が出てしまうからね。ちゃんとした薬師や薬屋であれば、あのような薬は作りえない。いい加減に作ったことでああした出来上がりになるのは、百年に一度だけ海面に浮かび上がる亀が、そこへ偶然流れてきた木切れの穴の中へ、勢い余って()い込むようなものだ」
「それは……いいが」
 青年は呆然と応じた。理解が段々と追いついてきた。
「それだからあの子は、性というものを超越した存在であるかのように誤解されてしまうことがあるのだよ。子孫を残さない体であることは、子孫を残す必要がないということではないのだけれど」
 それが——理由か。次から次へと、狙われた。
「女の体の持ち主を連れ歩くことを気にしているのなら、心配は無用だよ」
 女神はにっこりとしてさえ、いた。

 トシュはジョイドを〈高寄と高義と高臥の里〉の外へ連れ出して、太守と鹿と狐のことからセディカのことまで一切合財を語った。太守のことなどもう些事にすぎない気がしたが。マオの襲撃が引き金になったらしいことに、ジョイドも衝撃を受けたようだったが、幸か不幸か、マオの責任を追及するよりも重要な問題が別にあった。
「単に子供を産めないっていうことじゃないんだよね? 体の作りそのものが、何て言うかな、普通じゃない?」
「そういうことだろうな。まあ、子供ができないくらいで女じゃないなんて言わねえだろうよ、慈愛の神が」
 正直なところ、もしもセディカでなくキイであったら、西の果てまで連れていけという指示を、今少し受け入れやすかっただろうと思う。女ではないから安心おし、という理屈は、要所を的確に突いたのである。とはいえ、本人も周りも女のつもりでいる以上は、それで全てが解消するわけでもないのだけれど。
「……俺らにはどうにもできねえってことだよな。仲介してやるのが精一杯で……。師匠は……こう、知るべきじゃねえことを知らせるようなことには厳しいから……だから〈慈愛天女〉も、連れてけとしか言わねえんだろ」
 いざ西の果てに到達したとき、何をどうすればどういう形で解決するものか、説明されなかったのはそういうことだろう。知ったところでどうにもできないし、どうにもできないなら知るべきでないことなのだ。トシュの力では実行できない秘術であったり、セディカの極めて個人的な事情だったりで。
 セディカ自身も知らない身体事情を明かしてまで——そうしろと。
「西の果てまで、本人を連れていくのか。流石(さすが)(おお)(ごと)だね」
 ジョイドは(あご)に指を当てて、辿(たど)ることになるだろう道(のり)に思いを巡らせたようだった。雲には乗せられないのである。トシュとジョイドだって、歩きにくいところは地上を行かずに飛び越えていくのに。
 トシュは嘆息した。
「他にやりようはねえもんかな。(せっ)(かく)——今の家で可愛がられてんのに」
 そうは言ったものの、より適切な手段がありうるのなら、〈慈愛天女〉がこう極端なことを言い出すとも思えなかった。神の尺度は人間や妖怪のそれとは違うけれども、〈慈愛天女〉は弱者に寄り添う神だ。祖父に相談してみれば別の方法を教えてくれるとか、自分よりすばやく片づけてくれるとかいうこともないのだろう。自分がこの里に住み着いて用心棒を務めたとしても、本質的な解決にはならない。もしもあの狐が誓いを果たして、この里を含むこの郡の立派な守護者になったとしても同じことだ。
 ジョイドも同じように思ったかもしれないが、口に出しては考えてみようと言った。それから少し、間を置く。
「〈慈愛神〉の命令で、護衛に就いたとしたら——威張れると、思うけどね」
 ゆっくりとした、どこか慎重な物言いに、トシュは目を上げてその顔を見た。
 こうして言葉を濁すのは、多分、大抵、天を意識しているときだ。分けても、トシュを——祖父の孫にして父の息子を、警戒し、危険視する者たちを。
 ……〈慈愛天女〉直々(じきじき)に与えられた任務の遂行中だという、それこそ看板を掲げられるなら、そういった者たちが喧嘩を売ってきても、堂々と追い返せるだろう。トシュにとっては、その方が得——だ、きっと。自分の利害——。
 と、そこまで考えて、別のことに気づく。
「それを言ったら——命令されたのは、俺だけだな」
 あ、とジョイドも軽く目を瞠る。
「俺が手を出しちゃいけなかったりする?」
「いや」
 助けを借りるなと禁じられてはいない。が、協力して当たれと指示されてもいない——けれど。
「一人でお嬢さんの面倒を見る自信はねえな。正真正銘人間の俗人の十五にもならん子供を、西の果てまで連れていって、またここに連れて帰ってくるのは、正直厳しい」
 トシュは相棒の目をみつめた。
「俺はおまえの助けが欲しい。手を貸してくれるか」
 それは当然のことではない。当然であるかのように本人も振る舞うけれど。西の果てへ向かうにせよ、この里から動かずにどうにかするにせよ、他の方法を模索して知恵を出すにせよ、自動的に付き合うことになっているわけではない。
 勿論(もちろん)、とジョイドは微笑んだ。勿論、そう言うだろうとは思った。

 〈高奇と高義と高臥の里〉に戻るよりも先に、トシュは再び、南天へ飛んだ。
「さっきの話」
 言葉を切ったのは、(ちゅう)(ちょ)ではなく抵抗のためである。
「あんたが——命令するなら、受けてやる」
 ほとんど睨むようだったろうか。
「自発的な奉仕を期待してんならお生憎だ」
「そうしよう。おまえはあの子を、おまえの師匠のところまで連れておいき。引き合わせよとは言わない、気まずければそこは相棒に託すといい」
 〈慈愛天女〉の方はあっさりとしていた。ジョイドのことに関しては、間接的に同行を指示されたというより、どうせ一緒に行くのだろうと思われているか、何なら先ほどの相談を知られているような気がする。
「あの子に(あだ)なす者あらば、我が名において堂々と()らしめておやり」
 そうとはっきり言われたことに、少し、目を瞠り。しばらく、葛藤と戦ってから。
 トシュは片膝をついた。
「——御意」

 先に決めておかねばならないと思ったのだ。自分の立ち位置を。
 セディカが泣いても、女神に従うか。
 セディカが泣いたら、女神に逆らうか。

 青年たちは薬屋を訪ねると、まずは少女本人とだけ話をさせてもらった。親代わりの店主夫妻が同席していた方が心強いか、他に誰もいない方が気楽に物を言えるか、迷った結果の選択だった。真相を本人にだけ伝えるための人払いではなかった——妖怪を引き寄せてしまう理由については、体質のせいだと雑に丸めることにしたので。
「その体質を根本的にどうにかしようってんなら、俺らの師匠に助力を仰がなきゃならねえと思う。……で、な」
 西の果てまで自ら足を運ばなくてはならないと聞いたセディカは、無理もないことながら(がく)然としていた。対症療法なら他にも考えられる、とトシュはどうということでもないような顔をして続けた。
「妖怪を寄せつけないための護符なり印なり陣なりを、おまえの周りに目いっぱい仕込んどくとかな。この家にでも、おまえが持ち歩けるような形でも、併用でも」
「……それは、妖怪の血を引く人間にも、効くの?」
「強力にするならね。妖怪側で育ってたりすると、人間の血を引いていても人間を襲わないとは限らないから、効くようにした方がいいと思う」
「じゃあ、駄目よ」
 ジョイドの解説が(さえぎ)られる。
「うちは薬屋だもの。人が近寄れないようにしちゃ駄目よ。妖怪の血が流れてたとしても——純粋な妖怪だったとしても、悪いことをするって決まってるわけでもないのに」
 何だか必死に反対されて、トシュは目を(しばたた)き——そういう少女だったと、思い出した。マオのことさえ、自分が犠牲にならないせいで死ぬのかと考えてしまう性質(たち)の。
 ……(もっと)も、いずれにせよ。
「まあ、期待させといて裏切るようだが、言った通り、対症療法だからな。ベストじゃあない。師匠なら——完璧に、解決できるだろう。俺らがやった方が上手くいくなんて、どうしたって言えない」
 弁舌爽やかに述べながら、無念だとか悔しいとかいった気持ちを表に出さないよう気をつけた。この少女を余計追いつめる結果になりそうだったからだ。
「すぐ()つこたない。太守の件は大体片づいたが、やつらが約束通りにするか見届けにゃならんし、俺の野暮用もあるしな。そうだな、早くても収穫祭が終わってからにするか」
「……ねえ、でも、それは」
 しばらく考えて、恐る恐る、といった様子で少女は尋ねた。
「収穫祭が済むまで、この里が危ないってことじゃないの……?」
「……自分で道を(ふさ)ぐなよ」
 青年は天を仰ぐ。
「ご、ごめんなさい」
「いや、確かにその面はある。この里にいる方が気が休まらないってんなら、ちょっとでも早く出かけてちょっとでも早く帰ってくるってのもありかもな」
 太守の館へ運ばれる途中の輿(こし)から、ジョイドを呼んでくるために一時離れたときとは、規模が全く違うけれども。
「落ち着いたら、店主さんたちを呼んできてもらえる? 店主さんたちにも話をするよ。——落ち着いたらでいいよ」
 ジョイドの言葉に、セディカは腰を浮かせかけてから、頷いて座り直した。(うつむ)いて深呼吸をしたのは、言われたからでもあるまいが、気持ちを落ち着けようとしたのだろう。
 これを旅に出すのか、と青年は少女をみつめた。厳しいことも険しいこともある地上の道を、(はる)か彼方まで歩かせよと——慈悲の、慈愛の神が、言うのか。
 そうする理由、そうせざるをえない理由が、想像できないわけでも、理解できないわけでも、受容できないわけでもないが。その手先になれってか、と毒づきたくなるくらいには——酷だ。
 妖怪として、方士として、ただの人間には立ち向かえないだろう事態に、代わって対処したことは一度や二度ではないけれど。自分なら何でもできると、思い上がっていたつもりはないけれど。自分には大したことはできないのだと、見せつけられているような、気がした。

 助けたくとも助けないのは、助ける力がないために。
 連れたくなくとも連れるのは、他になすすべがないゆえに。
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