第11回 水中を追う 水上に誘う

文字数 10,351文字

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戦闘シーン、暴力描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
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 トシュは再びセディカの姿になって、河の(ほとり)に立った。
 凍りついた水面は鏡のようであった。鉄棒を叩きつけてみれば、ゴンと音を立てた氷はへこみができただけで、割れはしなかった。雪に覆われた岸辺に立つと、赤い衣装は浮き上がるようだった。
 もう休むと人間たちに告げたことは方便で、実際のところはトシュもジョイドも、眠って英気を養っていたのではなく、主に呪符を描きながら夜を明かした。一夜ぐらいなら眠らなくともどうということもない。とはいえ、敵のことをもう一つつかめないまま、一般論のような準備をしたにすぎないから、夜なべの成果が役立つかどうかは未知数だ。
 氷の上へと踏み出した。コツ、コツ、とピンクの靴が鳴る。あまりここで慎重になっても仕方ないなと、途中からは速度を上げて、コツコツコツといっそ軽快なリズムを刻みながら対岸を目指した。もう振り返っても岸辺は見えないだろう、と思われるほど進んでからも、さらにしばらく、何も起こらない時間が続き——。
 バリン! と。
 唐突に、足の下の氷が割れた。
 その瞬間、トシュは宙に飛び上がり、指に絡めて準備しておいた髪の毛を一吹きした。髪は身代わりに変わって——つまりこの場合、赤い豪華な服を着たセディカに変わって、割れ目に落ちていく。別にまた一本、自分の髪を抜いてこちらは浮きに変え、氷の上に投げ出すと、トシュはトシュで海老に変身し直して、同じ割れ目から水の中に飛び込んだ。
 水中では魚その他の水の生き物が殺到して、偽のセディカを捕まえた。抵抗するどころか動くようにすらしていないから、暴れることも()()くこともなく連れ去られていく。目は閉ざしておいたから、水に落ちたショックで気を失ったように見えるだろう。
 セディカを連れ去る集団の後を、少し離れて海老はついていった。人間の姿をしている者はいないが、(ひれ)を手のように使って、人間めいた動きをしている者は見受けられた。これらは妖怪なのか、妖怪に近づいているが妖怪になりきってはいない段階と見るべきか。(もっと)も、その気になれば人間の姿を取れるのだとしても、水中でそうするメリットもなさそうだ。
 やがて、古風な館に着いた。魚たちはどやどやとその中へ消えた。
 妖怪はしばしば人間の姿を取りたがるし、しばしば人間が建てるような家なり館なりに住みたがる。といっても、人間の館は水中に建てる仕様にはなっていないわけで、館の周囲は水のない、地上のように空気の満ちた空間になっていた。館自体に水を避ける機能が備わっているとは本物の〈通天霊王〉から聞いた。元々は〈通天霊王〉の先祖の力によるものだそうで、ひょっとしたら後に河の神から譲与された力で強化したかもしれないけれども、他者に奪われたからといって、今さら館からその機能が消滅することはない。
 この館がでんと構えているのだから、この付近の魚やら亀やら海老やらは、その影響で普通よりも妖怪になりやすくなっているだろう。そうでなくとも先祖代々住み着いていたわけだから、本物の〈霊王〉の周りには、手下か子分か家来のように弱小妖怪が集まっていたという。偽物となる妖怪に襲われて名と地位とを奪われたとき、その小妖たちの一部は逃げ、一部は本物に付き従い、一部は積極的に寝返り、一部は心ならずも下った。職場の上司が代わった程度の感覚でいるらしい者もあれば、偽物が現れた後で近づいた者もある。忠義者と裏切り者に単純に二分できれば楽だが、そうもいかないわけだ。
「ま、雑魚が何匹いてもな」
 敵ではない、という意味で海老は呟いた。何匹もの雑魚を、盾にされるようだと——困るが。
 見張りもいないらしいので、ひょこひょこと館の中へ入っていく。本物の〈通天霊王〉が逆襲に来る様子がないから、もう警戒もしなくなったのかもしれない。
 奥へ奥へと進んでいけば、広間がありそうなところに(まさ)しく広間があって、偽〈霊王〉が上座におり、人間らしい魚たちや魚らしい人間たちが二列に並んでいた。魚らしさがよく残っている者も、ここでは大体、人間らしい衣服をまとっている。
「そなたの計略、見事であった。わしとそなたはこれより兄と妹ぞ」
「ありがたき幸せでございます」
 偽〈霊王〉の言葉に、すぐ前にいる魚の娘が感激している。が、偽〈霊王〉の方は今一つ浮かない顔であった。
「だが、捕らえたところで、やつは薬屋の娘を食らっておるのだ。食おうとして食われようか」
「でも、お話を伺うと、不死にまでなったかはわからないのでございましょう? 試してみる価値はありますわ」
「ううむ、賢妹の言うこと、一理あるが」
 長々と聞くまでもなく、偽のセディカを食べる相談をしているらしいとわかる。トシュはしばらく聞き耳を立ててから、別段新しい情報も得られそうにないと判断してその場を離れた。魚を食う人間どもに対する復讐だ、といったことを口走るようならまた頭を悩ませなければならなかっただろうが、それらしい気配は全く見受けられなかった。
 館の中をぶらついているうちに、厨房らしいところでよく肥えた海老の老婆をみつけ、トシュはそちらへ寄っていった。人間の大きさをして人間のように歩いているけれども、姿はほとんど海老そのままだから、女性と判断したのは女物を着ているためにすぎない。まあ、少なくとも女性扱いされて怒りはしないだろう。
「ちょっとちょっと、お姉様」
「おや、見ない顔だね。新入りさんかい」
「そうなの。今日から置いてもらうはずなんだけど、誰も相手にしてくれないのよ。お取り込み中なの? 人間を食べたら不死になるって何のこと?」
「そういう人間を捕まえたんだよ。奥御殿の石の箱に入れてあるからね、あの辺りを通ったときに人声がしても勝手に開けるんじゃないよ」
 口の軽い婆様だなと思った。どのみち本物のセディカではないから、居場所がわかって助かるということでもないが。
「本当に人間なんか食べて不老不死になれるのかしら」
「さあてねえ。清浄なにおいがするといっても、あたしにはわからなかったけれど」
 老婆は若者の感覚を理解しかねるときのような溜め息を()いた。
「前の〈霊王〉様は、人間を縁者と思ってらした。あたしも年だからね、これからは食材と見て料理するんだよと今さら言われても気が進まないよ」
「〈霊王〉様を捨てたのは人間どもの方だ」
 不意に厨房の入り口で声がした。はたと見返れば、若い男性が忌々しげな顔をして扉に(もた)れている。大分人間に近いけれども、これも海老らしいなと迷わず判断できるだけの触角や赤みは残っていた。
「〈霊王〉様の恩を忘れた挙げ句、〈霊王〉様の敵をその名で呼ぶなど」
「おまえ様は今の〈霊王〉様よりも人間が憎いんだねえ」
 海老の老婆は首を傾げた。
 立場に差はあるが、同じ海老であるよしみで気安い口を()く間柄、といった風だった。若者も老婆がしたように新入りかと声をかけ、困ることがあったら自分を頼れと付け加える。面倒見がよいというより、同族意識が強いのだろう、これは。
 しばらく適当に喋ってから、偽海老は二匹と別れてもう少し館の中をうろつき、これ以上見聞きすることもないと見切りをつけてから外へ出た。一旦館が見えないところまで離れ、自分自身の姿に戻る。襟から針を引き抜いて、手頃な大きさにひゅんと変え、二、三度振ってみてから、また針にして襟に刺し直した。
 それから、今来たところであるかのような顔を作って、のしのしと館に近づいてく。門の前に立って、息を吸った。
「——頼もう!」
 その声は凛と響き渡ったが、門番がすぐそこにいるわけではないから、しばらく待たされることになった。それでも中に伝わるようにはなっているのだろう、やがて出てきたのは鰭や(うろこ)を覗かせた人間といったところで、魚らしさも人間らしさも兼ね備えていた。
 トシュは偉そうに胸を張った。
「俺の名を言っても知らんだろうから祖父(じい)さんの名を言う。〈あかがね(こう)仙〉の孫だ。〈通天霊王〉にお目にかかりたい」
「あかがね、何だと?」
「〈霊王〉はご存知さ」
 魚は気圧された様子で一度引っ込み、再び出てくると素直にトシュを招じ入れた。ついさっき一通り見ておいた廊下を導かれて、例の広間にトシュは行き着いた。
「お初にお目にかかる。〈あかがね猴仙〉の孫だ。いつぞやは祖父様が世話になった」
 祖父が世話になったらしいのは本当だ、つい先ほど聞いたばかりだが。亀の巨大な白い甲羅を船代わりに、河を渡してもらったらしい。祖父一人なら雲に乗ればよいのだが、そのときは妖怪でも方士でもない人間と一緒にいたからと。
 偽〈霊王〉よりも、その横に控えている女性、〈霊王〉の妹の地位を貰っていた魚の娘が青い顔をしていた。〈あかがね猴仙〉の評判を、偽〈霊王〉の方は知らず、妹の方は聞き及んでいるのだろう。
「何用か」
「うちのお(ひい)さんが、この河の様子を見に出たっきり帰ってこなくてね。捜しに来てみれば、氷が派手に割れてるじゃないか。落っこちたかもしれねえんだが、あんたら、見かけやしなかったか」
 トシュはしゃあしゃあと言った。偽〈霊王〉は眉を上げた。
「知らんな」
「ほう、なら、奥御殿の石の箱に入ってるのは何だ?」
 長々と(とぼ)けるつもりもないから早速(さっそく)切り込めば、偽〈霊王〉は唖然としたような様子を見せてから、飛び上がるようにその場に立った。
「あれの仲間か!」
 慌てて手下たちも身構えたが、その様子をざっと見た限り、戦い慣れている者はいないようだった。
「『お姫さん』と聞いてピンと来なかったか?」
 鈍いなとせせら笑ってトシュは飛び退()いた。
「捕らえよ! あれの見ている前で引き裂いてくれる!」
「ここで暴れるのはやめようぜ、亀どのに悪い」
 ぎく、と偽〈霊王〉は傍目にわかるほど顔を強張らせた。小妖たちの間にもはっとした気配が走る。
「お姫さんを俺に返して、館と名前を亀どのに返すなら、おまえの悪事は大目に見てやるよ。反省して二度とやらんと誓え」
「ぬかせ!」
 飛びかかられるのを待たず、蜻蛉(とんぼ)返りを打って広間から飛び出し、(みさご)になって一気に廊下を突っ切った。門の外まで行ってから、自分に戻って待ち受ける。
 ややあって追いかけてきた妖怪は、(やしろ)に現れたときと同じ、金の(よろい)(かぶと)に身を固めて赤い帯を締めていた。今度は武器を手にしている。青々とした茎のような柄の先端に、一見したところでは赤銅製と思しい、(つぼみ)の形をした金属塊が光っているのだ。ぴたりと閉じた、膨らみつつある、九枚の花びらを持つ蕾。
 ——(すい)ってやつか。
 トシュは眉間に(しわ)を寄せた。一撃一撃が重そうだ。その分、その一撃を避ければ隙ができそうではあるが。ハンマーに似ているとも言えるが、蕾の先が(とが)っているから槍に近い部分もあるかもしれない。
 振り上げて殴りかかってくるのを難なく(かわ)す。
「喧嘩腰じゃねえか、俺が折角(せっかく)謝れば赦すと言ってんのに。ああそうだ、ところで、〈あかがね猴仙〉の妹に〈水猴娘々(ニャンニャン)〉ってのがいるんだが、紹介してやろうか?」
「おまえの親戚なんぞ知るか!」
「知らんのか。モグリめ」
 猿に生まれながら水の妖怪として大成した〈水猴娘々〉は、〈あかがね猴仙〉ほどの知名度はないにせよ、同じ水の妖怪の間では知られていたはずだと思ったが。尤も、この(おお)叔母(おば)とは実のところ会ったことがなく、何なら〈天(せい)〉の方が気安く感じられるぐらいだから、いずれにせよはったりである。トシュが面倒をかけられたからとて、〈水猴娘々〉が大甥の報復に出張ってきてくれることはあるまい。
「なあ、うちのお姫さんが不死身になったってのは本当か? 薬屋の娘は俺も見たが、そんなご大層なお体には見えなかったぜ」
 回避に専念してぴょんぴょんと跳ね回りながら、これはほぼ本音で尋ねる。そこを何とか、聞き出したいのだ。
 ぎりぎりと妖怪は歯噛みした。
「価値のわからんやつが台無しにしおって」
 事実であれば確かに赦しがたいだろう。その点は理解できるのだが。
「生きて死ぬ(ことわり)を超越したもの、俗世に染まらぬ清浄なものを見分けることもできぬ濁った目が」
「わからんから訊いてるんだよ」
 マオが言っていたこととも通じる。出鱈目でもないらしい。……セディカの、どこが?
 と、館の門が開いて、魚の群れがどっと現れた。〈霊王〉の妹が指揮しているらしく、こちらを睨んで声を張り上げる。
「ちょっと! 聞きなさい、大人しくするのよ! あんたのお姫様が本当に不死になったか試してみる?」
 視線を投げれば、なるほど、縛り上げられ、力なく目を閉じたセディカを引きずっている。勿論(もちろん)、自ら動くようにもしていない偽物なのだから、体に力が入るはずもないし、その目が開くはずもない。正しくはセディカの偽物ではなく、セディカに成り澄ました「うちのお姫さん」の偽物になるわけだが、そもそも「うちのお姫さん」が架空なのだからややこしいなと思いながら、トシュはひょいと手を振った。セディカが消えた。
 刃物や棍棒を振りかざしていた魚たちは、縄だけがばらりと落ちたのをぽかんと眺め、それから理解が及んだのか慌てふためいた。よく探せば元の髪の毛が落ちているはずだけれど、仮にそれをみつけたとしても何にもなるまい。本当は首をころりと落としてやろうかとも思ったのだが、人間の無残な姿を見せても魚はそれほど(おび)えないだろう。
「おまえの目と鼻も大したことねえな」
 片手を顔の前で上から下に振り下ろし、顔と同時に体も、セディカのそれに変える。
「最初から」
 今度は振り上げて、元の姿に戻った。
「俺だよ」
 偽〈霊王〉はかっとなったようだった。
「貴様あ!」
 怒りに任せて突進してきたから、トシュは身を(ひるがえ)して逃げ出し、思い切って水中に突っ込むと、今度は水蛇になって河を矢のように横切った。あの割れ目を、正確には目印として投げ捨てておいた浮きを目指して。
 氷の隙間から飛び上がったと同時に元の姿になって、ついでに雲を足場にしてびゅんと上昇し、上空から来し方を見下ろす。鉄棒も武器らしい大きさにして、待ち構えた。
 とりあえず、これで引っ張り出せそうだ。氷の上もやりづらいだろうが、水の中よりはずっとよい。武術が際立って優れているわけではない、こちらが油断しなければ負けるような相手ではない。が、あの妖怪を殺せば済むという話ではないのだから、……いや、殺せば、済むことは済むのだが。
 さほど間を置かず、妖怪が追いかけてきた。同時にさあっと香り高い風が起こって、これは何なんだろうなと顔を(しか)める。錘の先端が本当に何かの花である、というわけでもあるまいに。
 妖怪もまた雲に乗って、錘を振り被って襲ってきた。赤銅の蕾よりも下、青い茎をはっしと受け止め、迎え撃つ。急に反撃されたためか、相手は焦った様子だった。
 (はじ)き返し、打ち込み、三度、四度と押して、ふっと高度を下げるや棒を横に薙いだ。雲ごと上下するとも、棒が振り抜かれると同時にぐんと伸びるとも思わなかったらしい妖怪は、まともに食らってもんどり打ち、氷の上に転がり落ちた。
 トシュは手を休めた。
「よせよせ、おまえは俺に勝てんよ。〈あかがね猴仙〉も〈水猴娘々〉も怖くないかもしれんが、俺が素人じゃないのはわかったろ。大体、おまえの言い分じゃあ、俺は不死身になったんだろうが」
 セディカを食べれば不死身になるなら、セディカを食べた設定のトシュは不死身になっていることになる。
「おまえさんはやりすぎた。人間に豚や羊を献上させる分には、人間だって文句は言えんのさ。だが、豚に豚を差し出させたり、羊に羊を差し出させたり、人間に人間を差し出させるのは悪党のやるこったよ」
 (うずくま)り、打たれた胴を押さえて、妖怪は目をぎらつかせていた。神妙に聞き入れそうにはないなと思いながら、ぴしりと指さすように棒を向ける。
「悪事を認めて、二度とやらんと誓いな。〈天帝〉にでもどこぞの龍王にでも。俺がおまえを騙したことに文句があるなら、それは別枠で〈天帝〉にでも訴えるがいいさ」
「愚弄しおって」
 憤怒を隠さず、武器を手に妖怪は立った。
「貴様はこの手で潰さねば気が済まん」
「潰せそうに見えるか」
 思わず苦笑がこぼれたものの、トシュも自らの武器を構え直して真剣な顔をした。昨夜は逃がしたが、今度こそ。
「そんなら仕方ねえ、一度叩きのめしてやるよ。泣いて謝りたくなるまでな」

 旅の途中で出会った祖母と結婚はせず、母が生まれるのも待たずに旅に戻ったという祖父と、セディカは結局、一度も会ったことがない。そんなだから母に異母兄弟がいないとも言い切れないのだが、少なくともチオハ家には認知されていない。セディカの母方の親戚には、伯父(おじ)従兄(いとこ)といった聞き()()みのある続き柄はおらず、(おお)伯父(おじ)従伯父(いとこおじ)再従兄(はとこ)といった、もう一段階遠い相手ばかりが(ひし)めいている。
 ちょっと聞けば、まるで居場所のないように思える境遇だ。仮令(たとえ)普段は親切に扱われたとしても、セディカを犠牲にしなければ何が起こるかわからないときに、()いて守ってもらえるとは期待しにくい位置だろう。……そのはず、なのだが。
 寝直せるとも思えなかったから、セディカはそのまま起きていた。朝食には早いが空腹は感じ始める頃で、従伯父と従伯母(いとこおば)が味噌漬けの豆腐と熱い茶を用意した。味の濃い豆腐をつまみながら、お酒が欲しくなるなと冗談のようにジョイドが呟く。
「トシュどのお一人で、対処できるものですか」
 従伯父が気にしているものの、トシュの相棒は平気な顔だった。
「あいつは強いんですよ。相手に情けをかけて、後れを取ることもありますけど」
 それは結構な不安材料であるようにも聞こえたが、今回はそうはなるまいと考えているわけだろうか。
「逆らえば民家を叩き壊すと脅されれば、あいつは投降せざるをえなかったはず。ここの人を集めてくださって助かりました。護符が足りていないはずだと思いながらでは、あいつは心置きなく戦えなかったでしょう」
「いえ、備えが足りないことを痛感しました」
 謙(そん)でもないらしく、従伯父は顔を(しか)めた。
「非常事態となれば、第一に寺院と役所が人を保護します。が、(さば)ききれないようであれば我々が引き受けなければならない。我々や、ノヴァの家がね」
 ちらとキイを見る。
「全くそんな準備はなかったし——それにしたって、もう少しやりようがあったはずだ」
「事情を大っぴらにできなかったんですから、普通よりやりにくかったと思いますよ」
 ジョイドはそんな風に言った。
「寺院だって役所だって、危険が迫っていることを隠していたのは非道と言えるかもしれません。でも、()(かつ)に公表していればパニックが起きたでしょう。誰もが、何らかの点において間違っている対応しか取れなかったはず」
 どうしようもなかったのだ。何一つ責められたくないのなら。
「ご自分では反省点が意識されるのかもしれませんが、俺は……そうだな」
 不意に微笑みかけられて、セディカは少し、どきりとする。
「セディをここに送り届けてよかったんだなと、実感できますよ」
 その言葉には、しかし、自分こそ微笑まれた。
 トシュもジョイドもそうだし、従伯父も従伯母もそうだ。さほどの義理もないセディカに、驚くほど親切で——違う国に生まれ育った従姪(いとこめい)など、近所の子供よりも疎遠な相手だろうに。
 けれども、段々、わかってきた。セディカが特別なわけではない。手を差し伸べる余力があって、手を差し伸べる意志があって、手の届く範囲にセディカが現れて、手助けをセディカが必要としていただけのこと。そこにたまたまセディカが当て()まったというだけで、セディカ相手でなくても同じように手を差し伸べる人々なのだ。
 自分を助けさせている、という意識はある。この騒動の真の狙いは自分であったらしいという罪悪感はのしかかっている。だが、自分が関わっていなくても、同じように力を尽くしたのだろうと思えることは、幾らか、気持ちを楽にしたし——自分の手柄でもないのに、誇らしいような気もした。これが、自分の——家族だ。
 従伯父は幾分、困ったような顔をした。
「どうかな。教育を誤っていなければいいが」
「え?」
 思いがけない言葉にセディカは動揺した。
「お二人がいらしたからいいが。チオハの人間としての責任感のために、君が本当に自分を犠牲にしようものなら——君の母上に、顔向けできないところだ」
「そんなこと言われたらどうしたらいいの」
 セディカの反応を待たずにキイが抗議する。思わぬことであったのだろう、従伯父は一瞬きょとんとしてから、すまない、と苦笑を浮かべた。
 それから再従弟(はとこ)をじっとみつめたまなざしに、セディカは何か、期待のようなものを覚えた。手を焼いている、悩まされている身内に向けるものとは違ったからだ。
「キイトラト——」
 語りかけようとした穏やかな声は、だが、(さえぎ)られた。
 がたん、と大きな物音が、外で——多分——響いたのだ。
 何だ、とみなが驚いたり混乱したりしたような、静まり返った一秒が過ぎて。
 ガタガタガタガタ、と(やしき)を揺さぶるような激しい音が鳴り始めた。地震かと、流石(さすが)に一同は慌てた。
 と、
「——幻覚です!」
 ジョイドの声が鋭く飛んだ。同時に、閉じた扇子でパシンと掌を叩いたらしい。どこから扇子が出てきたのかはわからないが。
「みなさん、部屋から出ないでください! 戸も窓も開けずに! よく見てください、音だけです——揺れは全く、ない!」
 本当だ、とキイが呟いた。
 そう言われて気をつければ——それはそれで、脳がどうにかなりそうだった。壁も床も家具もじっとしているのに、視界がぶれてもいないのに、音だけが響いているのである。
 そう思った途端に、音がやむ。
「帝国の娘を渡せ」
 おどろおどろしい声がした。
 セディカは(すく)み上がった。従伯母がすばやく、身を寄せて腕を回す。
「帝国の娘を渡さぬか」
 声は再び凄み、音が再び鳴り始めた。渡せ、渡せと、その向こうから声がする。
 ジョイドは何か忙しく呟きながら、時折扇子で掌を打ちつけた。そのたびに音は小さくなっていき、八回で隣家の喧嘩ほどにしか聞こえなくなった。その頃には敵の方も効果がないと悟ったか、静かになる。
 他の部屋にいるはずの人々が、特に現れないことにセディカは気づいた。この騒がしさでは、寝ていても起こされそうなものだけれど。それとも、幻覚であるということは、目覚めていないと騙されようもないのだろうか。とにかく、この化け物を追い払うためにセディカを差し出してくれ、と言いに来るような者はいなかった。
 やがて——。
 先ほどよりは小さい、何かを叩くような、打つような音が聞こえ始めた。
 バシッ。ガツッ。ドカッ。
 一回一回、間が空く。叩いては様子を見、叩いては様子を見、といった具合の間隔が挟まる。
 ——空耳かと、最初は思った。殴りつけるような音に重なって、(うめ)き声が——聞こえないか?
「が……っ」
「助けを求めたらどうだ」
 恐ろしげというほどではない、普通の声がもう一つ聞こえた。
「ぐうっ……!」
「娘を呼べ」
 家の外から聞こえるにしては妙に明瞭な、命令と——。
「い、今、の」
 自分の声は震えているのをセディカは感じた。
 トシュの声では、なかったか……?

 錘を()(くぐ)って敵の胴を強かに殴りつけ、しかし手応えほどの成果は上がっていないように感じて眉を(ひそ)める。先ほど放った呪符が鎧に貼りついていて、鎧の効果を多少なりとも減じているはずなのだが。鎧そのものが頑丈であるにせよ、妖術や何かで強化されているにせよ。随分いろいろ可能性やパターンを検討して用意してきたのに、こうも不発か。
 苛立たしいのは、戦闘能力という意味ではやはり素人らしいことだ。強敵とのわくわくする勝負、であれば長引いても楽しめたものを。
 ひゅっとセディカの姿に変わって背丈を縮めた、その頭上に赤銅の蕾が突き出される。これを躱すのは造作もない。雲を駆るのも自分の方が得意らしい。なのに。
「——ええい!」
 八つ当たりのように叫ぶ。
「いつまでもだらだら付き合ってなんかいられないのよ! こうなったら」
 殺してやる、と怒鳴ろうとしたのは結局呑み込んで、トシュは鉄棒を相手の武器をそっくり引き写した錘に変えた。(がく)然として動きを止めた相手に、真っ向から叩き込む——。
「貴様!!
「とっ」
 これまでにない勢いの反撃が来て、面食らった。驚かして隙を作ろうとは思ったが、これは——逆鱗にでも、触れたか。
 形勢逆転となるほどのものではなかったが、不意を()かれてトシュは少し、押された。そこで一気に後退し、それから右手に跳ねるようにして、一旦離れる。すぐに距離を詰められたけれども、我を忘れているだけだから恐るるには足らない。思惑通り隙だらけにはなったのだから、渾身の一撃を見舞ってやればよいのだ。仙術と妖術を併用して、目いっぱいに威力を増して——。
「霊王様! いました!」
 聞き覚えのある声がした。
 制止されたかのように、トシュの呪文は途切れた。ばっ、と氷上を見下ろす。
 そこにいたのは海老の若者だった。もう一つ、その腕に抱えられて——(うつむ)いた少女の姿が、あった。
「これが本物です——薬屋の娘です!」
 どきりとした。海老が少女の(あご)に手をかけて、ぐいと顔を上げさせたのだ。
 無論、見ずともわかっていたことだ。今のトシュと同じ顔を——セディカの顔を——しているに、決まっていると。
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