最終話 ふたり②

文字数 2,712文字

 ミカとジーンはニューヨーク、マンハッタンの市街地を歩いていた。日中のマンハッタンは忙しなく、行き交う多くの多国籍の人々で歩道は埋め尽くされている。ふたりは等間隔の距離を保ちながら、秒針の何倍ものスピードで動くニューヨークから取り残されたようにゆっくりと足を進めていた。
「平気?」
 ジーンよりわずかに前を行くミカは振り返らずにジーンに訊いた。
「はい。警部補こそ、もう大丈夫なんですか? その、ギャレットとの闘いで随分と傷ついていたようでしたから」
 ジーンはミカの背中に向かって訊き返した。
「まあ、大丈夫かな」
 ミカは平然とした様子で答えた。
「ところで、あなたの家族は元気してる?」
 今度はミカがジーンに訊ねる。
「母はまだ横になることが多いですけど、ギャレットのことでニュースを見るようになったり、少しずつですが、変化があるように感じます」
 ジーンの言葉にミカはわずかにうつむいた。
「そう。それなら、よかった」
 ミカは心からそう思うように穏やかな声で呟く。
「警部補」
 ふと、ジーンが足を止めた。「何?」と返すミカはそのまま歩き続け、それとなくあたり気にしていた。
「私、警部補に伝えなければいけないことが……」
 突然のジーンの呼びかけにミカは呆れるように笑った。
「何よ? 今じゃなきゃ駄目?」
 ジーンが足を止めたことに気づき、ミカも足を止め振り返る。神妙な顔つきのジーンに、ミカは何事かとジーンを見つめた。どこかへと急ぐ人々は、留まるミカとジーンを気にも止めず、川の流れの如くふたりの横をすり抜けていった。

 ジーンは家の窓から外を眺めていた。警察官であるとわかるブルゾンを身に纏ったやや長身の女性が敷地の中へと足を踏み入れてくる。その女性のもとへ母親が近づいていった。彼女は警察官だ。そして、兄の第一発見者。兄の死の顛末を家族に伝えに来たのだ。
 母親が近づくと女性は何かを話しだした。ジーンのいる場所まで声は届かなかったが、彼女は誠意を持って母親に説明しているのがわかる。
 すると、突然、母親が女性の顔を勢いよく張った。反対の手でもう一度。彼女はよろめきながらも姿勢は崩さない。
 母親の暴力を見た長身のアフリカ系の男性で、女性と同じブルゾンを着た人物が慌てて母親を止めようと駆け寄るが、女性は男性に手を向けてそれを止めた。止める必要はないと、自分はこうされるべきなのだと伝えるようだった。
 ジーンは窓からその光景を見てショックを受けた。自分がこうして家に留まっているのは、訪れた警察官を前にしたら、滅茶苦茶にしてやりたいという衝動を抑えられる自信がなかったからだ。母親と同じように、大好きな兄を助けられなかった警察を思い切り責めてやりたかった。
 しかし、母親が女性の頬を叩くのを目の当たりにしてジーンが抱いたのは、その感情と真逆のものだった。それは彼女の誠実さを感じてのことなのかもしれない。
 彼女はここへ足を運ぶ必要はなかった。しかし、はじめに兄を見つけたことで、彼女は兄の死に責任を感じ、自ら赴いたのだろう。彼女は恐らく、生涯、兄の死を背負っていくつもりなのだ。
 ジーンは目に涙を浮かべ叫びだしたい気持ちになった。それは彼女を罵倒するためではなく、母親に「彼女を責めないで」と伝えるためだった。
 彼女は兄を一番に見つけてくれた。無惨に殺され、孤独にひとり助けを待ち続ける兄を誰よりも早く救ってくれた。決して彼女は悪くないのだと。

「あなたは……」
 ジーンはそこで言葉を止めた。自分の気持ちをうまく伝えられるかわからなかった。
 ジーンは決して認められなかった。ミカが誰よりも優秀な刑事であることを。いつかミカを超え、自分こそが(いただき)へ辿り着く、そう願い反発を繰り返してきた。しかし、それは復讐心などではなく、純粋な尊敬だった。ミカを超えることこそが、ミカに対する最大の恩返しなのだと、心のどこかでいつも思っていた。
 ミカは振り返ったまま、ジーンの言葉を待つ。その立ち姿にジーンの胸は熱くなった。
「はじめから、私のヒーローでした」
 ジーンは胸の内でミカへ告げた。
 すると突然、一瞬のうちにあたりが暗闇に包まれた。まるで誰かが太陽のスイッチを切ったかのようだ。
「来る」
 ミカが空を眺めて呟いた。すると、暗闇の中を青白いネオン管のような光が直線状に走り、意思でも持つようにひとりでに方向を変えていく。併せて何本もの光の線が同時に暗闇の中を駆け巡り、景色をかたどるように建物の輪郭を、道路を暗闇の中に描いていく。
 やがて光は分岐し、景色の細部を描きだすと、完成された景色は、色や質感を持ち始める。
 ミカとジーンの前に現れたのは深夜のニューヨーク。しかし、それは日常的に目にするものと明らかに違っている。
 建物はどれも不衛生で、どこの国の言葉ともつかない文字の書かれたネオンの看板が下品に夜の闇を彩っている。街は排水溝から立ち昇る蒸気で満ち、道路には壊れてスクラップに近い形となった乗用車が打ち捨てられ、歩道にはドラム管から上がる火の手で暖を取るように人影が群がっている。歩道と車道の境界がなくなった場所を闊歩する人々はどれも怪しく、暗い雰囲気を身に纏っていた。差し詰め、荒廃した近未来のマンハッタン。サイバーパンクと呼ばれる物語の世界がミカとジーンを迎えるように広がっていた。
 変わり果てたマンハッタンの街に足を踏み出したミカは、プロテクターの付いた黒のボディスーツに身を包み、足にはローラーブレードを履いている。隣に立つジーンもミカと同様であった。
 ミカは慣れた様子で頭部をすべて包み込むヘルメットを被ると、顔全面を覆う透明のシールドを下げた。
 ジーンは前を見据えたまま、緊張するように軽く息を吐くとヘルメットを被る。
 ミカはその姿を見て、唐突にフォーチュンの言葉を思い出した。
「君はひとりじゃない。これまでも、そして、これからも」
 ヘルメットを装着し、シールドを下げたジーンはふとミカを見た。すると、知らぬ間にミカがジーンに向い拳を差し出している。
 ジーンは無言でミカの拳に、自身の拳を合わせた。準備を整えたふたりは姿勢を正し、前を向いた。
「足引っ張るんじゃないわよ」
 ミカはジーンに言うと、姿勢を低く構える。
「そちらこそ」
 同じように構えたジーンがミカに言った。その言葉にミカがジーンを見ると、ジーンはシールドの中で笑みを浮かべている。ミカも生意気な様子のジーンに頬を緩めた。
 ふたりは気を取り直し、スタート位置にでも立つかのように身構える。どちらともなく、ふたりは一斉に混沌の世界へと駆け出した。

                 終
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