夕刻の鐘

文字数 2,000文字

 どう考えてもおかしい! なぜ一国の王太子である私が息を切らして駆けずり回っているのだ。
 確かに市場は嫌いじゃない。賑やかだし、退屈な王宮では食えない旨いものがそこかしこにあるからだ。何を隠そう、父上の目を盗んでは近習(きんじゅう)を引き連れ、買い食いへと繰り出すのが唯一の気晴らしだった。

 自慢じゃないが冴えない(つら)だ。わずかな変装で、誰も私の正体には気づかなくなる。本当なら、いまも自由気ままな時間を満喫しているはずだったが、現実は、梨や酒瓶を詰めた籠を引っ提げて、夕刻の鐘に間に合うよう、異国人も混じる喧騒(けんそう)の中を縫うように走っている。
 それもこれもすべて、あの偽者のせいだ。

   * * *

 私はたびたび、学問や剣の稽古(けいこ)をなまけては、従者のテルゼンを伴って王宮をこっそりと抜け出していた。テルゼンとは幼い頃から共に育った仲で、下々が言う竹馬(ちくば)の友というやつだが、いまとなっては怪しいものだ。
 この男、顔の地味さも私といい勝負で、庶民に(まぎ)れて目立たない。おかげで私たちの街遊びは、これまでいちども失敗したことがなかった。

「おいテルゼン。都を離れて港町まで遠征だ」
 ある日に私が持ちかけた。まじめなあいつは渋ったあとでこう言った。
「お忍びのあいだ、わたくしめが殿下のそばにて御身の代わりをいたします」
 父上に敵対する隣国の王が、異国の秘密結社を使って我が国の要人を害しようと企てている、という不穏な噂があるからだ。
 その時は、忠義に厚いテルゼンが私を案じ、影武者を買って出てくれたのだと思っていた。

 いつもの食べ歩きとはわけが違う。視察を口実に父上の許しを頂いたうえで、テルゼンと共に都を出た。港町に着いた私たちは、腰を据えてじっくりと見物するため、宿を取って逗留(とうりゅう)を決める。
 身分を伏せるため、表向きはテルゼンが名家の御曹子(おんぞうし)で、私がその召し使いということになっている。見栄えしないふたりを、よもや王族とその側近だとは誰も思うまい。父上を心配させないよう、変装もぬかりなくやった。

 ところがやつめ、宿に着くなり雑用をすべてこの私に押しつけてきた。水くみ、荷ほどき、洗いもの。とてもじゃないが、ろくにやったためしがない。
 翌日は、やれ異国のチーズが食べたいだの、(ちまた)で流行りの帽子を探してこいだの、ここぞとばかりに休む暇さえ与えず、(あるじ)をこき使うのなんのって、おい待てテルゼン、これじゃあいくらなんでもやり過ぎだ!

 ついには鐘が鳴るまでに(つか)いを済ませて帰ってこいとうるさく厳しく注文する始末。主従が入れ替わっているのは不審な(やから)(あざむ)く芝居。なのに「殿下の御身を案じればこそです。どうか辛抱なされませ」だと? どの口が言いおる。この石頭、木石、うすらトンカチ!

 私はテルゼンを理不尽に扱ったことなどいちどもない、と言いたいところだが、思い返せば、子供の頃から私のわがままで随分ひどいことをしてきたものだ。我ながらに反省もするが、ころりと騙された宿の主人や町の者たちに、いんちき御曹子がちやほやされる様子を見ていると、わかっていても腹が立つ。
「おい! 騙されるな下々ども。そやつは名家の御曹子でもなんでもない、とんだ偽者だ」
 わめきそうになるが、正体を明かしては元も子もない。くやしいけれど、いまは我慢の一手だ。

   * * *

 もうじき夕刻の鐘が鳴る。急がねばと焦ってしまうあたり、この数週間ですっかり下働きが板についたものだと泣けてくる。
 ただ、こう言うのもしゃくだが、走り回った甲斐あって、めっきり体力がついたようだ。もとより体を動かすのは嫌いじゃないし、おまけに掃除や炊事は人生初の経験で、それなりに充実した毎日を送っている。
 また、家来を(おとし)めるのは器量の乏しい者がすることだ。そもそもテルゼンは忠実に私を演じているに過ぎない。あいつに会ったらこれまでのひどい仕打ちを謝ろう。ごめん……いろいろと。

 宿に着くなり店主が私を呼び止めた。
「若だんなだったらついさっき、召し使いに呼ばれたって、慌てて行っちまっただよ。行き先? 外れの墓地って言ってただ。あんれ? 召し使いって……おめえさんじゃなかったべか?」
 市場で見慣れない異国の連中とすれ違ったというのに、私は愚かにも遣いに気を取られていた。
 その時突然、鐘の音が夕暮れ空に鳴り渡る。

 私がしゃしゃり出て刺客の手にかかってはテルゼンの忠義も無駄になってしまうが、友を見捨てるような馬鹿にはなりたくない。それに、会って話したいことがある。
 腰の剣を確かめようと伸ばした手が空をつかんだ。
「あれ? そうか、雑用に剣などいらぬとあの堅物(かたぶつ)に没収されたのだった。なんだこの設定、意味あんのか!」
 どのみち剣を構えても、腕はすこぶるなまくらだ。けれど、なぜか走ることにかけては、いまは誰にも負ける気がしない。
「追いついてやる」
 妙な自信が湧いてきて、私は風を切るように駆けだしていた。
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