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文字数 1,824文字

 揉め事の汚名を晴らす為にも、ここはしっかりと挨拶しなくてはいけないと思う。
 姿勢を正して、歩く姿にも集中する。
「アドルフ先輩!」
 後ろから俺の集中力を著しく削ぐ声がした。反響してより大きく聞こえる。
 誰かは分かっているが、こんな場で無視するわけにもいかない。後ろを向くと、リアーネが手を振りながら走って来ていた。
 その手に持っているのは、椅子の上にあえて置いてきた挨拶の紙。
 もう覚えてしまったが、念のために持ち込んでいた。緊張とかしたら一応一瞬でも確認しようと思っていた。でもさっき見たときにその意味をなさないことに気付いたんだが。
「これ、忘れてます! 挨拶するのに困ります!」
 小さな子どもが制服を着て走っているのにざわめきが起こる。そりゃそうか、今日来たばかりだ。今までミサに出てもいないし、今朝のミサだって一部が見たかも知れないと推測されるだけだ。話してもいないだろ。
 リアーネが俺に追いついて紙を差し出してきた。
「良かったです。舞台に上がってしまったら、ぼくきっと渡せませんでした。せっかく持っていたのに椅子に置いていくなんて、緊張しているんですね。頑張って下さい!」
「ヤマグチ代表! 小さなお世話係がついて良かったですねー! お世話係が今朝までいなかったから、髪の毛も寝癖ついたままなんですかー?」
 ニックスが大声でからかう。声楽を専門としているからかよく声が通り、全員に聞こえてしまったかも知れない。その証拠にあちらこちらから笑い声がした。
 そもそも何でリアーネが今朝までいないとか知ってるんだよ。周りを気にしすぎだろ。
「アドルフ先輩の髪は寝癖じゃないです! 天然なんです!」
 リアーネが反論する。発声もなにも出来てないから周り以外にはきっと聞こえてないだろ。しかも天然とか。間違った言い訳を偉そうに述べている。恥ずかしいだけだ。
 耳を塞ぎたくなる衝動にかられる。耳元まで持っていった両手で髪を撫でつけた。
 見えていないが、もしかしたらより変になったかも知れない。
 笑い声が収まり、今度は拍手。俺にじゃない、リアーネが拍手を送られていた。
 リアーネは手を上げてから礼をする。表情は見えないが、多分誇らしげにしているんだろ。
 それがより苛立ちを生む。
 一通りの拍手が終わっても、壇上へ進めずに立ちつくしてしまっていた。
 俺が呆けているように見えるのか周囲がざわめいている。まあ、代表挨拶なんて形式だけのもので、こんなに時間のかかるパフォーマンスじゃない。早く終わってほしい連中には鬱陶しいだけだろ。
 でも俺の足は全く前に進もうとせず、苛立ちと不快感で手が震えている。
 にやけた顔をして俺を眺めているクラスも名前も知らない奴の椅子を蹴り飛ばしたくなった。
「アドルフ先輩……あの……」
 リアーネが少し怯えた目で差し出す紙をひったくり、ようやく動くようになった足で舞台に向かう。
 俺が乱暴に取ったせいでリアーネの体がよろけていたが、そんなことはどうでもいい。転ばないなら俺に非なんてない。
 舞台脇にある階段から壇上に行き、校長に形だけの礼をして真ん中の机に進んだ。
 司祭が説教するだろう場所、いずれ自分も立ってミサを行うであろう場所で正面を……俺は向かなかった。
 視線はよく拭かれた机に落とし、ぼんやりと映る自分の影を見る。マイクを持ってきてくれる教師。そのマイクに口を合わせることもせずに俺は完全に頭に叩き込んである挨拶を始める。
 そこから誰も見なかった。みんなが俺を嘲笑してる気にさえなる。だから余計にその事実を知りたくなくて顔なんて上げない。
 マイクを通してないことで会場に声が届いていない可能性もあるが、それすらもどうでも良くなってた。必死で練習したはずなのに、どうでもいいだなんて。
 手に持つ紙は開くことなく、挨拶を終えた。声は、震えていたと思う。
 リアーネに起こった拍手より控えめな拍手が鳴る中、俺は無表情で自分の席に戻った。
「とても響いて美しい声ですね」
 メグの隣のアグネスがそっと笑いかけてくれるが、俺はそれにも返事せずに、式が終わるまでずっとこぶしを握り締めてうつむいていた。
 少しだけ心の端に、挨拶が聞こえて良かったという安堵の気持ちは生まれたが。
 メグの視線もリアーネの視線も、ニックスの視線すら時たま感じはするが、全て煩わしいだけだった。
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