サトル

文字数 9,423文字

−−−神様、どうかお願いです。ほんのささやかでいいから僕に、勇気を一つください。

 ギターのメロディが聞こえていた。アンプで増幅された弦の振動は、単体では薄っぺらくて吹き飛びそうな軽音だが、ベースの野太く重い低音が下から支え、ドラムの拍が追随して作った波に、ボーカルの歌声がサーフィンする。
 誰一人として一言も発しない夜の満員電車で僕は、頭の上から爪先まで音に包まれていた。思い切ってイヤホンを新調したのは正解だった。音量はマックスに近いというのに、音漏れも音割れもせず、激しく繊細な一音一音が、突き刺さるように染み込んでいく。
 足元にはじんわりと疲労が滲み、外回りでかいた汗でインナーが肌に張り付いていたが、午後九時過ぎの倦怠感を打ち消すような激しさは、ロックの優しさのような気がした。
 激しい揺れと共に電車が停まった。閉じていた目を開け、電子版に目を向けると降りなければならない駅で、今にも閉まりそうなドアの隙間からホームに躍り出る。
 天まで続くような階段を一段抜かしで登り、改札を出たら果てしなく長い通路を進む。最後に待ち受ける地上への階段を登り切ると、怪しく儚い煌めきが眩しかった。
 今夜のマヨヒガはどことなく騒ついているように思えたが、それはきっと、僕の気持ちが走っているからかもしれない。
 革靴の木板みたいな平べったさにウンザリした足を叱咤し、マヨヒガの外れに佇むビルの地下へ降りる。黄色く、オモチャのような金属扉の巴手を下ろすと、仄暗い灯の下で酒を作っていたバーテンが顔を上げる。
「いらっしゃい」
 流し目の一瞥を向け、女のバーテンはまた手元に集中する。端の席がお気に入りだったが、観光客の外人二人がコントローラーを握り、プロジェクターに投影したゲームに夢中になっているので奥の席に腰を下ろした。
 ボトルチャージしていたスコッチの水割りを半分まで飲んだあたりで誰かに呼ばれた気がした。振り向くと、後ろ手でドアを閉めるサトルが手を振っている。
「いやぁ悪い。仕事が終わらなかった。待たせたか」
「いや、今来たとこだよ。とりあえず、一杯やろうや」
 僕の隣に腰を下ろし、居座りを正したあたりで二人、手を打ち鳴らす。サトルの体からも強烈な汗の臭いがしている。ロックグラスとビールグラスを打ち合わせると、余程喉が渇いていたのか、サトルは一気に胃の中に酒を流し込んだ。
 マヨヒガに通って約三年。久々に顔を合わせたサトルの飲みっぷりは、出会った頃からちっとも変わっていない。口の周りに着いた泡をなめ取り、ビジネスバッグからコピー用紙を取り出したサトルは、僕の方に身を寄せながらそれを見せつける。
「よぉジュン、お前まだギターの練習してるよな? 見ろよこれ! 抽選通っちまった!」
 なんだそれ、と受け取った紙ペラに目を通してみる。書いてある日付は全て二ヶ月後。時間は昼の一時から夜の六時まで。その下に並ぶのは数々の、混沌としたチーム名らしき文字の羅列だった。
「え……マジで?」
 コピー用紙のプログラムは、二ヶ月後のマヨヒガの祭りで行うライブの仮題目である。グラスを置き、よく目を凝らすとバンド名の中に「ドロブネ」の四文字を見つけてピンと来た。サトルと出会ったばかりの頃、酔いながら決めたバンド名だった。
「あの話は冗談じゃなかったのか? もし組むなら何にするって話だったじゃないか」
「それがようやく実現できるんだ、細かいことはいいんだよ」
 はっはっと軽く笑いながらグラスを開けたサトルはお代わりを注文する。
「急に出ることになられたと言われても、僕がギターやってたのは大学までで、今は趣味でたまに触るくらいなんだって」
「だってお前、こうでもしないと何もしないじゃん。趣味でもやってんだろ? 出てみようぜ。ほんとにビビリだなお前は」
 サトルの物言いに反論しようにも、ついつい苦笑が溢れる。事実、サトルの言う通りではあった。何かしたいことがあっても、それがもたらす利益よりも、不安要素を真っ先に考えてしまうのは、悪い癖だとはわかっていても、これをどう直したら良いのか皆目、見当がつかなかった。
 穏便かつクールに生きようや、と言うのが僕のスタイルなのだが、言い換えればつまり、行動を起こさざるを得ない時以外に行動を起こそうととしないということである。
「出るにしたって、他はどうするんだよ。僕がギターやるとしてお前はベースだろ? ドラムとボーカルは? アテはあるのか?」
「そいつは、まぁ、これから考える」
「なぁ、やっぱやめとこうよ。恥をかくだけだって。あと二ヶ月でメンバー集めて、土日フルに使えたとしても、クオリティの高い演奏なんて絶対できないって」
「何言ってんだ、やってみなきゃ分からねぇだろ。大学の時やってたんだよな。どんだけ、ど下手くそでオナニーみたいなライブでも、その瞬間だけはみんなが俺たちを見るんだ。注目してくれんだ。お前がなんだかんだギターやめられないのは、その気持ち良さを知ってるからだろ」
もう一回、やってみようぜ、と囁くサトルの言い分は近からず遠からず、と言ったところだが、自信は無い。
 大学を卒業してからもう五年が経つが、社会人になってからライブなんて一度もしたこともなければ、あれだけ足繁く通っていたライブハウスにも行かなくなってしまった。
もう十代後半から二十代前半の子供ではないのだ。ライブの、みんなに見られる快感と無理やり見せつける快感は確かに覚えているけれど、僕らはもうアラサーで、ライブやろうぜ! なんてバカなことを言っていないで、結婚相手を探すとか、株とか投資信託の勉強をしてみるとか、もっと現実を生きるべきなんだ。
 コピー用紙を見下ろしながら、ロックグラスを傾ける。この話は、やっぱり断ろう。
 口火を切ろうとしたところで、扉が開いた。廊下の電気が、小柄で長い髪のシルエットを作り出す。バーテンの挨拶に答える声は女のもので、目ざといサトルが隣で「おっ」と小さく声を漏らす。
ノブを離し、コツコツとヒールを鳴らしながら店の奥へとやって来た彼女は、サトルと僕の後ろを通り過ぎ、一番端の席に座ると酒を頼んで溜息をついた。
「なぁ、なんか訳あり気じゃねぇか? ちょっと話しかけてみろよ」
 マジかよ、なんて辟易する一方で、確かに気になることは気になる。まぁ待てよと、はやるサトルを抑え、彼女のグラスが開いたところでバーテンを呼んだ。
「お代わりをロックで。あと、あそこの彼女にもボトルから一杯」
 一瞬、怪訝な顔をされたがバーテンは何も言わずに酒を二杯作る。サトルが二の腕のあたりを軽く叩いて茶化す中、覚えのない酒を出された彼女は顔を上げ、バーテンに促されながらこちらを振り向いた。
「ごめんよ、お邪魔して。スコッチは嫌い?」
「ううん、そんなことないです。初めてだからビックリ。ありがとうございますね、お疲れ様です」
 ニコリと笑ってくれた彼女に安堵した。
「お姉さんもお疲れ。その……何かあったの? あんまり元気そうじゃないけど」
 いくらマヨヒガと言えど、酔いが回りきっていない状態で初対面の女性と話すのは緊張する。唇を結び、しばらく瞳を泳がせ、最初の言葉を探しあてた彼女は、思い切ったという風に口を開く。
「いや、大したことじゃないんです。確かにあんまり元気ではないけど……ううん、違う。やっぱり、許せない」
 なにがなにが、とサトルがグイと僕の前に身を乗りだす。グラスを片手に身を反らしながら、僕も彼女に意識を集中する。
「小さなバー……半分スナックみたいなところなんですが、そこで歌っているんです。ママも他の従業員もいい人なんですけど、ママと昔から付き合いのある常連さんが芸能界にコネクションを持っている人で。いい人を紹介すると言われたので、さっき会って来たんですが、ホテルに無理やり連れていかれそうになって逃げて来たんです」
「ちょ、ちょっと待って! え!? マジでそんな話あるの!?」
 試しに突っつくだけのつもりが予想外の返事に、思わず声が裏返る。実際にあったから私も驚いているんです、と沈んだ声で言う彼女になんと返せばよいのだろうか。
「ん? ってことは、お姉さん歌手なの?」
 狼狽えている隙を突き、サトルが話題を捻じ曲げる。俯向き気味の彼女は口角を上げ、やや困りながらも小さく、そんなんじゃ無いですよ、と返事をした。
「一介のバイトに過ぎませんが、一応、歌手になるのは子供の頃からの夢です。たまに、地下アイドルとしても活動してます。でもしばらく、活動はお休みしようと思っています。今働いているところもそうだし、今は周りにいる人たちをちょっと、信用できそうにないんです」
「じゃあさ、じゃあさ! これ、出てみない!?」
 プログラムを掴み、サトルは彼女に突きつける。眉間に皺を寄せ、なんですかそれと呟きながら、彼女はこちら側に席を詰めるだけでなく身まで寄せる。距離が一気に近づき、心臓がどきりと大きくなった。
 薄暗い店の中でも、胸元から覗く彼女の肌の白さはよくわかった。溢れそうな大きな瞳は、ついつい触れてみたくなるような衝動を掻き立てる。太すぎず、かと言って細すぎない頬は、吸い付くだけでは飽き足らず、歯を立てたらどうなってしまうのだろう。
 ここはマヨヒガ。新宿の一角にひっそりと佇む魑魅魍魎が集う町。のさばっているのは必ずしも人間とは限らない。それにしたってこの娘はなんと、小悪魔じみた顔立ちをしているのだろうか。地下アイドル程度に収まっているのが、なんだかもったいないように思えた。
「お兄さん達、バンド組んでるんですか?」
「ああそうさ、今結成したばかりだけどな。だからボーカルとドラムはいないし、なんならセッションすらしたこともない。せっかく参加できる場所があるってのに、このアホはメンバー探しもしないうちに日和ってて困ってるんだ」
「待て待て、日和ってないから」
 呆れたようにのたまったサトルから、軽く貶められたような気がして慌てて否定したが、彼女はそんなものなんか聞いちゃいなかった。
「私に歌わせてくれるんですか!?」
 巨大な目をさらに見開き、期待に満ちた声と共に左腕をがしりと掴まれ、グラスの中身が大きく波打った。真剣そうな眼差しが、僕を捕らえて離さない。彼女の手が握る部分がじんわりと熱を帯びはじめる。
「……わ、わかった。思う存分、歌ってしまえ。気が済むまでやったらいいよ。僕たちは今知り合ったばかりだ。これまでの君のことは一切知らないし、それで君が安心できるならお互いにとっても良いことだと思う」
「じゃあ、お兄さん、演奏してくれるんですね!? 嬉しい! 本当に歌い続けられるのね! もう、大好き!」
「だ、だだ、大好き!?」
 ダイレクトにぶつけられた率直な好意は、僕への思慕なんかではないとわかっていても、芯を激しく揺さぶるような力を持っている。かっこ悪い動揺を悟られたくなくて、酒で誤魔化そうにも、むせてしまって全く取り繕うことはできなかった。
 連絡先の交換はサトコから持ちかけられた。僕とサトルと交互に交換し、登録された証拠として早速、彼女にメッセージを送る。
「沢城ジュン……綺麗なお名前ですね。阿久津と言います。阿久津サトコです」
 よろしくお願いしますね、とニコリと笑ったサトコは財布を取り出し会計を済ます。腕時計を見てみると、十一時半を過ぎている。そろそろ、いい時間だ。
 それじゃあ、と帰っていた彼女に続き僕とサトルも金を払う。運命的な出会いを果たした気分だった。
「ちぇ、お前ばっかりいい思いしやがってズリィぞ」
ビールの残りを流し込むサトルの悪態は、耳に入ってこなかった。口には出さず、腹の中で彼女の名を呟く。阿久津サトコ。次に顔を合わせた時、なんと呼ぼうか。久々の春の気配に、酔いはどこかにか消えていた。

 ボーカルが見つかったからと言って問題が全て解決したわけではなく、肝心のドラムを見つけなければならなかったが、それよりも先に、相棒の手入れをしてやらなければならなかった。
 数ヶ月ぶりに引っ張り出した真っ赤なセミアコの弦は錆びが進行していた。張り替えるのは面倒だし、このままでも使えることはまぁ使える。アンプに繋いだりもしないので、そのままにしたままだったが、これではライブどころか練習すら話にならない。
 錆びた弦を全て取り払い、ネックやボディ、マイクを入念に磨く。換えの弦があったはずだがケースを見てみると、三弦と一弦が無かった。なんでこんな残り方をしているのかなんてとっくに覚えてはいなかったし、定期的に触っていたとは言え、気持ちがそれだけ離れていた証拠だった。
 硬質な弦を押さえ続けてひび割れを繰り返し、平たく硬くなっていた指先の皮膚も随分と柔らかくなりつつある。
 真っ青なギブソンに焦がれていた僕の心を、手に入れる直前で横から掻っ攫っていった真紅な無名のセミアコと、これまでどれだけの夜を共にしただろう。ごめんよ、またよろしくな。
 そんな、どこまでも都合のいい言葉が通じるのは相棒と言えど、所詮はギターだからである。だからこの言葉はセミアコだけでなく、かつての自分にも向けることにした。これ一本と共に歩んでいくのだと、本気で思っていた馬鹿な自分が、また必要になってきそうだった。
 現状、僕ができる範囲でのメンテナンスは全て終わってしまった。セミアコをケースに戻し、外出の準備をする。相棒の細い命を、また繋ぎ直さなくてはならない。
 午後の渋谷はどこもかしこも人で溢れている。服装や顔面を整え小物で飾り、自信満々に歩く人々の合間をおっかなびっくり縫いながら、楽器屋に駆け込んで弦のセットを棚から取った。
 空調の効いた店を出ると、湿気を孕んだ空気が顔面に吹き付けられる。どこにも寄り道せずにさっさと帰ってしまおうと、駅へと急ぐ道すがら、雑踏とタワースクリーンが映し出すCMの大音量に紛れて、微かに、不思議な音色が耳朶を震わす。
 木琴のように柔らかいがどこか金属質で、水の底から伸びてくる優しげな腕のような音色の正体を探し、自ずと首が動く。
 駅へ向いていたつま先の方向を変え、人混みの中をしばらく彷徨っていると、折りたたみの椅子に座って目を閉じ、傍らに小銭入れを置いている男を見つけた。
 腿の上に所々がへこんだUFOのような物体がのっており、指先を踊らせ感覚だけを頼りにリズムを奏でている顔を見る限り、僕と年頃はそう変わらないだろうけど、焼けた肌が野性味を醸していた。
 歩いている人間達は彼の姿を見つけるとふと立ち止まり、遠巻きに眺めてまた歩み去る。その様子は、彼が奏でている音よりも、彼が叩いている物に興味を抱いたから足を止めたという風に見えた。
 確かに、無心に名前もわからない楽器を叩く彼から立ち昇っている雰囲気は近づきがたいが、一心に打ち込む姿はどこか、惹かれるものがある。顎の下に滲んだ汗を拭い、一歩ずつアスファルトを踏みしめながら、彼に近寄ってみる。
「お前の何がそうさせた」
 数メートルの距離を保ち、リズムを刻む彼を眺めているとそんな声が聞こえた。
「その袋の中身は食い物か? それともまた別の、お前が生きるために必要な物か」
 声の主が彼だと気付くのも、僕を呼んでいることに気づくのもしばらくかかった。彼は楽器を叩いているし、目も瞑っている。しかし、程近い場所にいる僕を完全に認識しているようだった。
「え、あぁ。これは、ギターの弦です」
「そうか。お前の女は、良い女か? 毎日ちゃんと、抱いてやっているか」
 開いた片目の鋭さに、思わず口内の唾液を飲み込んだ。彼の声音の、有無を言わさず真実を語らせるような静けさの前に、思考が一瞬停止する。
「き、気が向いた時に、触るようにしています」
「そういうものかもしれないな。人は孤独でも生きられるが、ふとした瞬間に誰かを渇望してしまうものだ。そんな時に頼れる拠り所が有るだけで、健全な精神は保たれる」
てっきり叱責が飛んでくるかと思っていたが、半分くらい訳のわからない肯定に安堵する。
「つまりお前は風の人間と言うことか」
「……と、言いますと」
「メロディは、歌やリズムが乗る風だ。しかし、気持ちの良いそよ風や、強力な嵐を産める人間はそういない」
「いや、風なんてそんな大した物ですかね。ベースやドラムでも、それこそボーカルでだって、メロディは生み出せますよ。それこそ、他の楽器だって……」
そういうことではないと、一際大きな声で言われ、体がびくりと反応する。
「バンドになぜ、ギターがあるのか。それはギターが風を生み出すことに特化しているからだ。矢面に立ち、リズムと下音と歌声を乗せる風の発生器なのだ」
 楽器を叩く手を止め、彼はすっくと立ち上がる。頭二つ分ほど高い位置から見下ろす鋭い眼光に、否応無しにたじろいでしまう。
「風を吹かす者は故に、根拠の無い信仰と勇気の持ち主でなければならない。ギタリストを志した時からすでに貴様は、風の先兵なのだ。青年、お前は風を起こせるか?」
彼なりの哲学とスピリチュアルワールドを広げられたところで、どうだと聞かれてもなんとも言えないが、頭で考えて出す答えではないことは理解できた。僕が片手にぶら下げているのは、相棒の生命である。
「起こせるよ。……起こしたい」
 勢いに任せて答えると返って来たのは、そうか、というたった一言だけである。口角と目尻をわずかに上げながら彼は楽器をケースにしまい、椅子とスタンドをたたんで帰り支度を始める。
「リズムのあなたはなんです?」
「なんだと思う? 考えてみろ。お前の首の上についているのはなんなんだ?」
「し……衝撃とかですか」
「まぁ、悪くないがもっとそれっぽく言えないのかまったく。
 呆れた調子で彼は一言、波動だ、と漏らす。
「流動的な音の中に拍子を入れて、方々へ散ろうとする風のラインを導くのが俺の役目だ。バンドマンなら簡単にわかってみせろ」
「あなたが独特な話し方をするからややこしくなるんです! そんなに言うなら、どうです。僕らのバンドに入って頂けませんか。ドラムだけいなくて困ってるんです」
「それは構わないが、いくつか質問がある」
 あまりにもあっさりと得られた承諾に拍子抜けし掛けたが、楽器のケースを肩に下げ、椅子を片手に僕に向き直った男の顔は、楽器を叩いていたとき以上に力が篭っており、背筋にピリピリとした緊張が走る。
「そのバンドは、お前が立ち上げたのか」
「友達が持ちかけて、自然と広がりました」
「直近の演奏予定とか、出るライブハウスのイベントとかは」
「二ヶ月後にステージに上がります。町内会のお祭り程度なんですけど」
 途中で云い澱まないように、事実だけを短く述べる。得体の知れない彼を勧誘するのは後ろめたくもあった。僕達にしろ、彼にしろ、素性がわからないのであればお互いが不安要素でしかない。しかし、その垣根を越えられなければ、バンドが組めないのは学生時代に嫌というほど思い知っている。
 サトルや僕は青春を忘れられないだけなのだ。何の生産性も無く、ただ寄り集まってライブを行い、何かを成した気になりたいだけなのだ。しかし、それの何が悪い。おかげで僕はまた、ギターを手に取れたし、諦めていたバンドも組めつつある。例え出来上がるものが大した物でなくとも、僕にとって本当にやりたいことなのだから、やる意義はあった。
「いいだろう。ただし、条件が一つある」
「この際、何でもいいです。お金も払います」
「なら払ってもらおう、と言われたら困るだろう? 軽々しく言うな」
 連絡先をよこせと言われたのでバッグに入れていたメモ帳に電話番号を殴り書き、破ったページを彼に渡す。
「何があっても、お前はステージに登ると誓え。それじゃあな、青年。連絡はこちらからする」
 颯爽と去っていった彼の姿は、瞬く間に人混みが消した。勢いで勧誘したはいいものの、果たしてこれでよかったのかと言う疑問は消えないが、如何様にできるわけでもない。
 一応、サトルとサトコにも報告をしておこうか。改札をくぐり、電車を待ちながらスマホを開くと、SMSが1通届いている。
『俺が叩いていた楽器はハングドラムと言う。覚えておけ。それで、顔合わせはいつだ?』
 秋山タカシなる人物から届いていた端的なメッセージが、現状、最も大きな不安を払拭する。これでまた、バンドが組める。

 マヨヒガの祭りまで丁度二ヶ月だが、学生の時のように期日までの約六十日をフルに使えるわけではない。社会人になった僕達にはどうしても仕事がつきまとう。月曜から金曜まで、一日の大半を会社で過ごさねばならず、となると平日はアパートで帰宅後に自家発電に励み、土日にスタジオで通す、と言うやり方になる。
 休日は約、十四日間。十分練習できるように思えたが、あくまでもこれは土日の二日間をフルに使えた場合の計算でどちらか、もしくは両方が潰れる時なんか最悪だ。
 天高く振りかぶったクラブを振り下ろし、広大な敷地に小さな球を吹っ飛ばす度に、ナイスと手を叩いて得意先のお偉いさんをヨイショする。何が悲しくて、オヤジ共とゴルフなんぞしなければならないのだ。今日は顔合わせと楽曲を決める予定だったが、のっけから貴重な一日が潰れてしまった。
 結局、メンバー全員の顔合わせができたのは次の日だった。筋肉痛で軋む体でファミレスに入ると、席ではサトルとサトコが農夫のような出で立ちでパフェを食べるタカシにたじろいでいる。何故そんな服装なのかとタカシに尋ねると、本当に畑を耕していたと言うのだから、どうしたら良いものかと懸念したが、話が進むごとに微妙な気まずさは緩和されていった。
 方向性の違いや、個人がやりたいこと、それらを差し引いてこのメンバー達でできることを擦り合わせて五曲に絞った頃には、既に日が暮れていた。マヨヒガで酒を酌み交わし、帰りの電車が同じなサトコとサトルを見送り、お開きとなった。
 ひとまず、最初の難所は越えたが、まだスタートラインに立ったばかりである。部屋に戻るなり相棒を手にし、パソコンを開くと決まったばかりの曲に合わせて弦を爪弾く。
 気まぐれに触れるのではなく、ギターのことだけを考え、腹を据えて頭を研ぎ澄ます。固まった指でも、動かし方まで忘れたわけではない。毎日こうしていればいずれ感覚は戻る。
 張り替えたばかりの鉄線が硬い。丸みを帯びたボディの淵は、二の腕が当たって少し鬱陶しいが、そんな相棒のクセを僕は愛してやまなかった。
 二つのサウンドホールから響く音色は、間違いなく僕と相棒だけが出せる音だった。熱に浮かされていた時の記憶はまだ、僕の中に残っている。フレーズを聞き直し、音程を確かめながら、眠りこけている最強の自分に揺さぶりをかける。
 さぁさぁ早く。目を覚ませよ、出番だぜ。座椅子の上でニヤニヤしながら、青春の再来を夢想する。
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