サトコ

文字数 5,339文字

 神様、どうかお願いです。こうしている間だけは、無鉄砲なただのバカでいさせてください。
 最初から最後まで曲を通し終わる頃には全身が汗まみれになっており、がぶ飲みしたスポーツドリンクの甘みが、一層強く感じた。楽器のチューニングを直したり、声帯の疲労具合を確かめたり、何も言わずとも各々が休憩に入る。
 僕とサトルは昔馴染みだけど、ボーカルはマヨヒガのバーで鉢合わせ、ドラムを見つけたのはたまたまで。しかし、その割には、僕らの相性は悪く無いように思えた。摩擦が起きそうな場面でも、お互い折り合うなり擦り合うなり、うまい具合に空気を保てている。
 青春の再誕と言えど、やはりそれだけ大人になってしまったことに一抹の寂しさを感じなくもないが、演奏の最中はそれも忘れられるので、さほど後にも残らなかった。
「お疲れさん」
 タオルで汗を拭っていたタカシにボトルを投げる。
 いつの間にかタカシの腕にはタトゥーが入っていた。ミステリアスでスピリチュアルで、行動も考え方も読めないタカシを、サトルやサトコは訝しんではいるが、タカシが穿つリズムは力が漲っているだけでなく、正確だった。
 人としては謎だがしっかりと演奏できればそれで良い。僕らも、己が役目を果たす。
「なんか腹減ってきたよ。中華食いてえ」
 ベースを抱えながらサトルがぼやいた。時計を見てみると昼の二時過ぎである。三時間も通していると確かに空腹感は無視できず、かと言ってスタジオを出ようにも料金はしっかり五時間分払ってしまっている。
公平に行われたジャンケンで、僕とサトコが弁当を買いに行くことになり、サトルの顔面が露骨に複雑になった。
 「さぁ、いこっ!」と、溌剌な声に促され、揃って外に出ると剥き出しの肌には埃っぽい空気がまとわりつく。春の半ばも過ぎ去り蒸し暑い初夏がそこまで迫っていた。
 真昼時のマヨヒガに足を進めながら、サトコはぴったりとくっついてくるだけでなく、手まで握られた時は変な声が出そうになった。
 そんな気も知らず、彼女はただ、隣でニコニコしながら「タカシとはどこで会ったの?」と、いつもの調子だから、突然握られた手に対してどうしたのと聞くのは、なおさらかっこ悪いような気がしてならなかった。
「ギターの弦を買いに行った時にたまたま、路上で演奏している彼を見つけたんだ。変な奴だと思ったけど、ドラムを叩けるって言うから声を掛けてみたんだ」
 ゼリーのような手が握り心地を確かめてくる度に、必死に保とうとしている平静が揺らぐ。しかし、落ち着かないからと言って払うには、少しもったいない。
「そっか。なんだか、あの人怖いわ。何を考えているのかちっともわからない。それにあの幻想的な物言いを聞いていると、不安になってくるの。ドラムは確かにうまいけど、ちょっと苦手」
 気丈に振る舞ってはいるがサトコの巨大な目は不安で潤んでいるように見える。しかし、それを訴える為だけに、僕に媚びているわけではなさそうでもある。
「そう? 僕はなんとも思わないけど」
 彼女の顔色を伺いながら否定してみると整った表情が一瞬、困惑を浮かべる。
「だって話がうまく通じないんだよ? コミュニケーションが取れないと、どうしたらいいかわからないじゃない。そんな傷つき方、私はもうしたくないわ」
 そんな傷つき方がどんな傷つき方なのだろうと脳内で反芻し、そういえば彼女がホテルに連れ込まれそうになった経験をしたばかりなことを思い出した。
 童顔であどけない顔立ちでありながらも、彼女の佇まいや表情の作り方にはどこか危うげな色気があったが、本人はそれに気が付いていないようである。
 日の目を浴びない場所とはいえ、小さなステージで歌っていた彼女はこれまで注目を浴び続けてきたのだろうが、歌手になりたいと願う少女に向けられていた視線は彼女を歌手というよりも性的な対象として捉えていたに違いない。
 だからこそサトコは敏感であり、明らかに異質な存在であるトオルに強い不信感を抱いてしまうのはなんとなくわからなくもないが、彼女の言葉に含まれていた「もう」という一言は、直近に降りかかった不幸ではなくもっと根本的な部分を訴えているようにも聞こえた。
「頑張って一生懸命歌っているのに、誰にも分かってもらえないのはやっぱり寂しいよ。私の何がいけないと思う?」
 静観していたらいつのまにかサトコの声が震えていた。何もわからない振りをして首をかしげると、彼女はそっと握っていた手を離した。遠回しに「こいつはあまり役に立ちそうにないな」と失望させてしまったが、それと引き換えになんとなく、サトコが抱えている不安が分かったような気がした。
 彼女はきっと、相手に触れて自身に注目させる形でしか他者と、特に異性とコミュニケーションを取れないのだ。歌を通さずに自分を発信する術を知らないが故に思わず、手が出てしまい、触れたくないものにも触れてしまってきたのだろう。
 歌うことを取り払ってしまったら彼女の中には何も残らない。決してそんな筈は無いのだが、あまりにも強く自分を歌に結びつけてしまっているせいでそんな錯覚に陥り、抜け出せなくなっている。
それだけ、彼女にとって歌を紡ぐ行為は自由であったのだろう。自分らしい自分を初めて発信できたのだろう。
 さっきまでサトコに握られていた手の感触を確かめる。すでに温もりはなく、皮膚の残滓も消えかかっていた。柔らかなサトコの手は何も考えずに握られている時は心地よかったが、一瞬でも拠り所にされかけたと思うと複雑だった。
 拠り所になれるほど、僕に余裕はない。そんな状態で彼女を抱えても面倒なんて見きれない。飼えない捨て猫に対峙した時の一番の対処方法は、目を背け、存在の認知を強く残さないようになるべく振り返らずに素早く立ち去ることだけだ。
 夜は飲み屋だが日中は総菜屋を営んでいる小さな店で、人数分の食べ物と飲み物を買ってスタジオに戻ると、サトコはサトルの側へぴったりと寄り添うように立ち、 弁当を渡し始めた。
「サトコに、何か言ったのか?」
小声でタカシに囁くと、弁当を受け取りながら首を振る。
「個人的に気にくわない女だとは思っているが、何かをした覚えはない。気をつけろ、あいつからはあまり、いい気が感じられないからな。あの女は嘘をついている」
 わずかに振り向き、二人を見やる。サトコはサトルに触れながら、サトルはそれをまんざらでも無さげに受け止め、仲睦まじそうに話している。なんだか、面白くなかった。

 ボロボロに剥けて硬くなった指の皮をひとしきり弄り、セミアコを持ち直す。連日、しこしこ練習して休日はスタジオというサイクルを繰り返しているせいか、筋肉痛が慢性化しつつある。
 ライブまで、残り三週間を切った。細かい所を突けば色々出てくるのだろうけど、なんだかんだ、バンドは良いコンディションである。このまま、全力で走り切れば僕達のライブはきっと成功するだろう。
 本当に小さな町内会の夏祭りだが、ライブができる場所さえあればそれでよかった。大学を卒業してからこの五年間、手探りで社会と折り合いをつけてきたが、その代償として抑圧せざるを得なかった感情が、体の内側で蠢き始めている。
 たわんでいた糸がキリキリと緊張して張力が増すように、僕の中の何かが研ぎ澄まされて行く感覚がとても懐かしかった。
 いつも使っていたマヨヒガの近くのスタジオは予約でいっぱいだった。祭りでライブをするのは僕らだけではなく、ぼちぼち他のバンドも動き始めているのかもしれない。わざわざマヨヒガ近くのスタジオを使っていたのは、練習終わりにすぐに飲みに行けるからであって、他にもスタジオなんてごまんとある。幸い、僕の最寄駅から二駅隣の街にあるスタジオがだいぶ安い値段で解放していたので、そこに他のメンバーを呼ぶことにした。
 曲の通しが終わる毎にピックを交換する。いくら増幅されているとは言え、自分の音から自信の無さは消えていた。
「おいジュン、ちょっと落ち着けよ」
 ベースのチューニングを直しながら、サトルが呆れたように囁く。
「一人で走りすぎてんぞ」
「ご、ごめん。つい……」
 気をつけるとは言っても、どう気をつけるかなんて考えちゃいなかった。だからと言ってお前らが僕に合わせろと要求するでもない。ただ、自分の役割を果たすことに注力する。
 サトコの息切れが治ったところでもう一度通し、今日はお開きとなった。近くの定食屋で晩飯を食べた後、サトルが僕の部屋に行こうと言い出し、「俺はやめておく」と帰ったタカシとは別方向の電車に乗る。
急に押しかけられた形だが、悪い気はしなかった。部屋が散らかっていても、そんな所にドヤドヤと集って近所迷惑も考えず、朝までよく歌っていたのが懐かしい。コンビニでつまみと酒を買い、蒸し暑い部屋には二人を通す。三人で座れるスペースを作りながら、今年初のクーラーを着ける。
 間にサトコ挟む形でテーブルを囲み、各々酒を手に取り適当に飲み始める。宅飲みは、マヨヒガで飲むのとはまた違った緩さがあるだけでなく、何より金が掛からない所が良い。
漫画を読みながら、サトルと目的の無い単発的な会話を繰り広げる。サトコは基本的には静かだったが、自分が反応できるワードが飛び出すと、すかさずアクションを起こした。
「私、それ知ってる!」
 タバコを吸おうとして突然、がっしり腕を掴まれた。どうやら、新調したライターに反応したらしい。ケースにはロバのようなキャラクターが描かれている。これが気に入って買ったのだが、僕はこのロバの詳細をまでは知らなかった。
 腕を掴んだまま、サトコは嬉々としてキャラクターのうんちくを語る。そのうち僕の手からライターをひったくり、片腕を絡ませぴったりと寄り添う形になった。サトコは既にチューハイを二、三缶空けており酔っているようにも見えるが、癖を知っている分完全に正気を保っているようにも見える。
「サトコ、お前のそれほんとになんなの?」
 酒の缶を口から離し、舌打ち増混じりでサトルが悪態を吐くが、サトコは「なんのこと?」としらばっくれている。二の腕に感じる体温は暑くもなく、冷たくもなくて心地良い。服に包まれている肉の柔らかさと存在感は、そばにあるだけで漠然とした安心感をどうしても抱いてしまう。
僕らはそれぞれ体を持っていることは確かだけれど、体は意識の邪魔にならないように、常に息を潜めている。しかしこうして触れられた途端に実態が露わになるではないか。意識だけが一人歩きしているのではなく、僕はきちんと形を成しているのだと、先行しがちな意識は再認識する。
 いくら無視を続けても彼女から来られてしまうと嫌が応にも印象は強く残る。紳士ぶったところで体は正直だ。好意も強くなるし良からぬことも安易に想像できるようになる。僕にはそんな余裕はないはずなのに、正確な判断ができなくなりそうで、それ故に怖かった。
「おいジュン、食うもんがなくなっちまったよ」
 空になった菓子の袋を丸めながら、サトルがボヤく。名残惜しいが良い口実でもあった。サトコの腕をそっと外し、腰を上げる。ぺたりと座り込んでいる彼女を見下ろしながら呼吸を整え、何が食べたい? と囁く。
「柔らかいのがいい。中にチーズのクリームが入ってる丸い御饅頭みたいなの。プニプニしてて可愛いんだよね」
「ああ、あれうまいよね。わかった、行って来るよ。サトルはスナックでいいよな?」
 なんでもいい、と投げやりな態度のサトルを尻目に部屋を出ると淀んで絡みつく初夏の夜空には、星一つ瞬いていなかった。その代わり、通りがかりの原付の駆動音がやけに耳につく。
 残金を確認しようとして尻に触れた手がなんだか物足りない。しまった。財布を忘れてきた。取りに戻ろうと踵を返し、ふと立ち止まる。幸い、左のポケットにはタバコが入れっ放しで、咥えた一本に火を点けた。半ばまで灰にして、アパートへ戻る。
 開けていったはずドアの鍵穴は沈黙したまま、僕のヘソの辺りを見つめている。どうせ近くだし、部屋の中に二人もいるしと思い、財布だけでなく鍵の部屋も置いてきてしまったことを後悔した。
軽いドアノブから手を離し、壁に背を預ける。タバコは数本しか残っていなかった。練習でかいた汗で臭くなったシャツは、また湿り気を帯び始めている。
 こんなにも吠えたいと言うのに、空には月すら出ていなくてキリキリと、不定形な心がまた姿を変える。張り詰めるのではなく、鋭く細く、より鋭利に尖って行く。
 脳内のプレイリストを反芻し、より激しく、より暴力的な曲を探って、落ち着いた一曲のメロディラインを継い付いする。そうして分かったのは、ポッと出の女なんぞに、まだ僕の心の全てを持っていかれたわけではないということだった。
 残り少ないタバコの一本にまた火を点ける。ドアが開くのはいつだろう。そうして出てきた二人をどう迎えようか。煙が目に入ったようだった。涙が出てきた。
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