タカシ

文字数 9,886文字

 ああ神様、僕はどうすれば良いのでしょう。どうか進むべき道をお示しください。
 部屋の鍵が開くまで待っている間に僕は眠りこけ、気がついたら朝になっており、部屋はもぬけの殻になっていた。
 あの日以来、二人とは連絡が取れていない。ライブまでもう二週間を切っている。今さら、新メンバーを探している余裕は無く、かと言ってどこかのバンドに入り込む余地も無い。さっきから貧乏揺すりが止まらなかった。
 正面に座るタカシは沈黙している。しかし、何かを良い案を探しているようにも見えない。黒いタンクトップにビーチサンダルを突っかけ、見事なモヒカンがそそり立っているふざけた風貌が、さらに苛立ちを掻き立てるようだった。
「もうダメだわ、こうなったらもう、ライブなんてできない」
 ただ馬鹿みたいに、カフェに座っていても時間ばかり過ぎていくだけである。いい加減疲れてきたので貧乏揺すりを止め、ため息まじりに顔を上げると、タカシの片目が開いていた。
「諦めるのは構わないが、俺と交わした約束はどうなる。必ずステージに立つとお前は誓ったはずだ」
「いやそうだけど……これじゃあもう無理だよ」
 別に、部屋をホテルがわりに使われたのはこの際どうでもよくて、絶縁するのであればせめて、全てが終わってからにして欲しかった。言い出しっぺに雲隠れされた今、焚きつけられた方はどうすればいいと言うのだろう。
「何か、いい考えでも? 二人でどうやってステージに立つのさ」
「その方法を、今考えている。俺は俺の放つ波動を響かせることができればなんでもいい。俺の波動を受けた奴がどうなるのか知りたいんだ。自分の持つ能力にどんな効果があるかを知らなければ、誰だって使いこなせやしない。波動を打つ力をもっと正確に操るには、誰かに使ってみるのが一番なんだ。だから俺は何としてもステージに立たなければならない」
「いやだから、それが不可能なんだから、立ちようがないでしょ」
「お前、歌えないのか? 俺はドラムを叩かなくてはならない。それだと、さすがに無理だ」
「僕もそうだよ。リードボーカルくらいならともかく、メインは張れない」
 途中まで全てがうまくいっていたと言うのに、一転して右往も左往もできなくなった今、何処ぞへと消えた二人が何よりも憎たらしかった。
演奏時間は一バンド辺りおおよそ二十分から三十分程で、そんな一瞬で吹き飛ぶ僅かな間に燃え尽きるべく、相棒を再び手に取ったというのに。
 練習に費やしてきた時間が無駄になったからという訳ではなく、タカシに示しがつかないからという訳でもなく。再び息を吹き返した相棒に申しわけがなく、それと同時にギターに縛り付けられたままな自分にも苛立っていた。
 どうして僕はいつまで経っても大人になれないのだろうか。僕が考えている大人像なんかはっきりしてはいないが、それを抜きにしても潰しても出てくる餓鬼っぽさは、一体なんなのだろう。腹の中で堪え切れない怒りがあちこちに飛び火していた。
「ジュン、ダメだ。顔に出てるぞ。怒りは、燃料だ。温存しておかなければならない」
 いつもの口調でタカシが諌めてくる。
「俺達がいま考えなければならないのはステージに立つ方法と、怒りをどう維持し続けるかということだ」
「だから、その方法が思い浮かばないからかこうして苛立っているんじゃないか!」
「ベースとボーカルを集めている時間はないが、ツーピースバンドでどうこうする時間くらいならまだ余っている。波動と風だけでどう立ち回れば最大限の効果を発揮できるだろうな」
 ペースを崩さないタカシが、会話を建設的な方向へ持って行こうとしているのはよくわかったが、今はロジカルな思考そのものが不可能だし、悠長なことを宣っているようにしか聞こえなかった。
 財布を取り出し、紙幣をテーブルに投げ出して席を立つ。タカシはもう引き止めてこなかった。
 まっすぐ帰る気になれず、フラフラとマヨヒガに引き込まれて行く。どこに入れば感情が静まるだろうかと歩いていると、真上に伸びる小綺麗な階段を見つけたので、足を掛けた。
 さっぱりとしたカウンターには酒と缶詰めが並んで向こう側には、なで肩のバーテンが窓の外を見つめぼんやりしている。
「そうですか。私を差し置いてまた他の人と飲んでいたんですか。へー。そうですか」
「だから違うって、隣に座って声かけられたから話してただけだって」
「でも顔見知りだったんでしょう? なんで紹介してくれないんですか。あなたのお友達は私のお友達ですよ」
 端の席ではツンケンした女の子と気弱そうな男がなにやらいちゃついており、一杯だけ酒を飲んですぐに店を出た。ただ苛立ちが加速した上に金を失っただけで、喉や鳩尾の辺りがキリキリと締め付けられるようだった。
 二週間なんてわずかな時間はあっという間に過ぎた。あれ以来、相棒には指一本触れておらず、そんな状態で迎えた運命の日は極々平凡な穏やかな休日となんら大差はなかった。
 部屋のベッドに寝転びながら、スマートフォンの時計をぼんやり眺める。マヨヒガに行かなくてはならない時間はとっくに過ぎており、タカシからの着信は既に十を越していたが全て無視をしていた。
 丸一日、眠りこけているつもりだったのだから、着信で起こされたところでなにかしらが変わるでもない。明日は月曜である。今日一日をこうして耐え忍べばまた、変わらぬ日常が戻ってきて、それを繰り返すうちにきっと、今回のことも想起した過去の青春は忘却へ帰すだろうし、相棒との距離感も元の淡白な状態へと戻る。
 いい加減体を起こし、出しっ放しだったセミアコをケースに戻して端の方へ追いやり、タイムスケジュールを破って捨てた。
 今日の予定はなにも考えていなくて、再びベッドに戻って目を閉じる。タカシから十三回目の着信がかかってきたのでコールを切断し、電源を落とす。約束を守れなかったのは申し訳ないけど、今日だけはそっとしておいて欲しい。今は何にも応じたくなかった。
 じわじわと潮が満ちて行くように、際限のない微睡みが込み上げてくる。それに身を委ね、現実と夢想の間を心地よく漂っていたところに劈いた破砕音が僕を現実に引き戻す。
身を起こして背後を見やると、割れた窓から黒い影がぬぅっと部屋の中に侵入してくるところだった。
汗まみれのタカシは荒い呼吸を繰り返しながら僕の胸ぐらを掴むと、ベッドから引き摺り下ろしてただ一言、行くぞと吠えた。
 冗談じゃなかったし、窓が台無しだ、どうしてくれるんだと、言いたいことは色々あったが、タカシが来たと言う事実と獣のような彼の佇まいが発言の全てを許してくれなかった。
 僕のマンションは五階建てて僕は三階のちょうど真ん中あたりに部屋を借りていた。電車に揺られつつ、どうやってそんなところまで登って来たのかをタカシに聞くと、隣のマンションの非常階段から飛び移り、ベランダ伝いに移動してきたとさも当然のように淡々とした口調で答えた。
 それだけのバイタリティがあるのであれば一人で、バンドではなくパフォーマーとしてステージに立てばいいじゃないかと思わなくもなかったが、そういう枠をマヨヒガが設けているかは知らないので、あぁそうか、と空虚に呟くよりなかった。
 普段の閑散としている昼時とは違い、祭り時のマヨヒガは人で溢れている。参加している店はどこも一杯五百円で酒を出しており、席代もかからないのでそこらを歩く誰もが片手に使い捨てのカップを携え、へべれけになっていた。
 促されるまま、マヨヒガの中心広場にタカシに引かれていく。仮設ステージではゴシックな服装の女性ボーカルが、ゴツい兄ちゃん達に囲まれながら歌っている。
「まだ間に合うよな。二人バンドだ、プログラムを組み直せ」
 運営本部とは名ばかりなテントの日陰で、クリップボードに何かを書き込んでいたスタッフにタカシが声を掛けると、本当に連れてきたんですかと口と目を見開いた。
「やめといた方がいいですよ……?」
「抽選には受かっているんだ。そちらも穴が開いたら困るだろう? 早くしろ」
 溜息をついたスタッフはクリップボードにペンを走らせ、調整が済み次第、お呼びしますと残して席を外す。
 アンプから爆音が轟いている。相棒が詰まったケースの肩紐が、ギリギリと肉に食い込んでいた。マヨヒガに出入りしている奴らはただでさえ、演劇や音楽の虜が多いのだ。無名の猛者供が自身のパフォーマンスを力一杯披露する中、二人バンドと言い切った僕達は、一体何をすれば良いのだろうか。
 魂を揺さぶる唄も無く、音を支える基盤も無い状態では、僕らはただ、四方に散ってしまう。実体を持たない音など、ただの騒音でしかない。
「ほら、飲めよ」
 タカシがどこかから持ってきたビールを手に取りぐいと煽った。ひと瓶開けたところで追加を渡される。今ならいくらでも飲んでやれそうだったが、正気を失いたい時に限って、体がポカポカするだけだった。
 新たなバンドがステージに立ち、演奏を終えて次のバンドに変わる。ボーカル、ギター、ドラムにベース、たまにツインギターだったり、ボーカルがギターを持ったりしていたが、どのバンドもポジションに欠落は無く、羨ましいというより、たった二人ぼっちの状況が心細かった。
 僕とタカシは異端である。他とは違うという、時に強烈に憧れる特別な状況が、いざこうして自分に降りかかるとどうしてこうも寂しいのだろう。
 しかしそれでも僕らの出番は着実に近づいていた。アルコールで赤くなった手でケースを開けて、僕なんかよりも鮮烈な相棒を引き抜いた。命のワイヤを一本ずつ弾いて調律し、一弦から六弦まで軽く撫でてやると、サウンドホールから音が放られる。
 素早く指を動かし、適当なフレーズを弾いてみると、自身に忠実な相棒は僅かな歪みすら隠さず、全てを曝け出した。
 細いネックの先から湾曲したボディまで、くまなく撫でているとボディの裏側に這わせた指先にざらついたものが触れた。相棒を翻すとボディの縁ギリギリの所に小さく目立たないデカールが貼ってある。英語で、音楽の力を信じろ、と書かれている。
 なんてチープで青臭いのだろう。しかし薄っぺらくて吹けば飛んでいくようなその言葉を、僕は確かに心に留めていた。音楽のなんたるかすらも分かっていないというのに、ただそれだけを思っていた過去は確かに存在している。
 アンプから吐き出されていた音が尾を引くように止まり、スティックを片手に携えたタカシが近づいてくる。
 神様どうか、僕に力をください。
 こんな時に非力な僕が嫌で、自然とそんな願いが漏れたが、突然そんな漠然とした願いを託されても神様だって困るだろう。神様も大変だ。アテにされるのはだいたい急を要する時で、無茶を押し付けられた挙句、叶わぬと恨まれるのだから。
 しかし、罪悪感はない。神様とはその為にいるのだ。そういう時にすがりつく概念なのだ。スピーカーがドロブネの四文字をアナウンスする。ストラップに肩を通し、タカシに歩み寄った。僕はこれから些細だけど大きな恥を掻きに行く。
 喋り続ける司会が観客を暖め続ける中、エフェクターを繋いでボディにシールドを突き刺し、アンプの前で相棒の絶叫を浴びる。シンバルやスネアをバシャドカ叩き、タカシは位置の微調整を始める。
 ステージに立つ覚悟ができてもなお、セッティングが未来永劫終わりませんようにと願わずにはいられなかった。 僕もタカシも一発逆転できるような閃きができるようなタマではなかった。
 この二ヶ月間で練習した曲をボーカルとベース抜きでやるよりなく、ついにタカシが最初の波動を放つ。それを見失わぬよう足元のエフェクターを踏んで、おっかなびっくり思い切り、一音を弾いた。
 悲しいくらいに良い音だった。しかし基礎が無い音はただただ、どこまでも飛んで行き、垣間見た客達は未だ、楽器が二つの異質さに困惑している。
 打ち込みの音源を用意するでもなく、録音したボーカルの歌声を使うわけでもなく、楽曲も楽器の編成を変えるでもない。本来四人でしなければならない演奏を二人で披露するには僕らはあまりにも剝き身過ぎていて、刃こぼれし過ぎていて、無謀過ぎていた。
 早々に異常に感づいた客から意識を逸らしたくて、増幅された相棒の叫びと、タカシのリズムに集中する。風を吹かす事だけに意識を向ける。一帯の空気を震わせ、何かが届けとただ祈る。
 しかし僕らが相手にしているのは神ではなく人間で、広い御心など最初から持たない矮小な生き物である。タカシの波動は柔らかく、僕が吹かす風が清涼だったら、午後の日差しに晒され続ける彼らを癒しただろうし、真逆の場合でもまた何か、違った感情を刺激しただろうが、やかましい空っ風に鬱陶しいぞクソがと言わんばかりに、飲みかけのビールが飛んでくる。
 顔や頭、シャツにジーンズにコンバース、そして相棒までもが瞬時に酒にまみれた。酔いの妙薬が今は、僕らを現実に引き戻す武器として使われている。
 相棒を鳴らしても追い求めた高揚は無く、尿のようなアルコールの臭いに包まれながら悲しくて、弦を爪弾く右手が重い。
 一音一音を奏でる毎に、何かをふり絞らなくてはならなくて、名状し難い大切なものがボロボロとこぼれ落ちていくような感覚に泣きそうになる。
 僕は何をやっているのだろう。憧れから手にしたギターと音楽に、いつまでがんじがらめになっているのだ。こんな気分になると分かっていたのに、ステージに立ってまで祈りたい願いはなんなのだ。
 神様お願いします、どうか僕に……僕の本当の願いを……!
 バツンと、激しい音の衝撃に思わず手が止まった。手元を見ると相棒の命の一つが切れており、冷や汗がドッと吹き出した。吹かせていた風が止み、僕らに向けられた引っ込め下手くそという罵声がより鮮明になる。
 どうしたら良いのかわからず、タカシが放ち続ける波動の中に逃げ込んだ。
 切れた弦を引き抜き、アンプの上に置いていたスペアの弦をなんとかブリッヂに通したものの、震える手ではうまくペグを回せなかった。
 振り返るのが怖い。しかし投げ出したくもない。どうしたらよいのかわからない。誰か助けてくれ!
 感情の暴力に晒される中、唯一確かなのは刻み続けられる波動だけである。目だけでタカシを見た。タカシも僕を見ていた。両手と両足でドラムを叩き、重厚感を孕んだ視線はあまりにも鋭利だった。
「……は、……なに……!」
 ひしゃげた顔面で叫ぶタカシの声にリズムが重なり上手く聞き取れなかったが、肌を透過し、血を沸き立たせ、骨を震わすタカシの波動は巨大な心臓が打つ鼓動のようで、脈拍と呼吸が徐々に落ち着き余計な物がそぎ落ちていく。
「俺の……は、なにを……!?」
 タカシの声がより、鮮明になっている気がした。あと少し、あと少し。君の声を聞かせてくれ。
 脳の中で唱えながら更に、まやかしを目が荒いヤスリをかけるように削って磨き、フラットな状態に自身を導く。波動に身を預け、タカシとより深いリンクを試みる。
 いつからかピリピリと音がしていた。耳鳴りではなかった。空転していた心の歯車が一度、動きを止めたように落ち込んで、確かな確信とともにしっかりとかみ合った状態で再び始動を始める。
「俺の波動は、お前の何を駆り立てる!?」
 ペグ穴に弦を絡ませ命を張り直す。すでにステージに立って演奏している以上、降りる手立てなどなく、撤退ができないのであれば盲進するよりなく、僕はマイクの前に立った。
 中断した曲を繋ぐ気などなかった。エフェクターを切り替え、タカシの波動に導かれながら、楽譜の無いメロディラインに願いを込めて、力をくれと祈りを捧ぐ。
 誰かの為でもなく、何かの為でもなく、自分自身の為にそうあれかしと救いを乞う。
 お願いです神様。解放してください。胸元の閉塞感を取り払い、楽な呼吸をさせてください。自由になれるなら何にでもなるからどうか、僕に力を寄越せ。
 鍛えていない僕の喉と腹ではマイクを使えど、声は非力だった。しかしこれは最終手段である。こうするよりないのである。
 助けを求める時はいつだって手遅れなのだ。だから人は祈るのだ。内に秘めておけば良いものを、わざわざ願望や夢を頼まれてもいないのに吐瀉するのは、盛大にぶちまけなければ時として、抱いた物の大きさに押し潰されてひしゃげてしまいそうになるからだ。
 祈る行為はとても人間的で、どこか獣じみてもいて、哀れなのだ。その様は気味が悪いのだ。しゃらくさいのだ。だけど、やめられないのだ。
 タカシの波動が駆り立てたのは僕が抱いた願望と祈りで、それはきっと不安や欲求や、怒りや悲しみや快楽が積もり積もって見えなくなった僕自身の本心だ。タカシが刻む波動は、人の心に火をつける熱波だった。
 力が欲しい。今の僕をすっかり変えてしまうような力が欲しい。毎日、毎日、いるかどうかも不確かな神に祈らなくてもいいような、僕だけの力が欲しい! それが僕の願いだ。純粋な望みだ。
 お願いです、僕に力をください。解放してください。誰かや、何かの手のひらの上で踊るのはもう、ごめんなんです。決して燃え尽きぬ、不屈の勇気をこの身に与えてください。それに焼かれて死ねるのであれば、僕はそれ以上のことは望みません。
 食べかけのフランクフルトの油とケチャップとマスタードが、シャツにサイケデリックなシミを作り、酒のコップやビールの小瓶が足元で弾け、飲みかけのチューハイが時折、肩や額や、相棒の突き出したネックに跳ね返った。
 司会のスタッフがやめろと叫んでいる。ステージに上がり、演奏を中断させようとする奴らを、タカシが予備のスティックを投げつけ追い払う。
 僕の祈りは、まだ終わっていない。本心には着実に近づいている。しかし、願いの抽出は完璧ではない。最も濃い最後の一滴まで絞り出さなければ意味がないのだ!
 全身を振り乱し、まとわりつく手から必死で抗い逃れる最中、半ば暴徒と化した観客の中にサトルとサトコの姿が見えた。
 サトルの黒いシャツを激しく引きながら何やら叫び、サトコはサトルに必死に帰りを促しているようだが、サトルは死んだような目で呆然と立ち尽くしていた。
 瞳は滑稽なものを見つめる空洞のように見えれば、体は拒絶しているのに目を背けられず、仕方がないから感情を殺して眺めているようにも見える。
 見ろよ、サトル。お前の口車に乗った僕はこのザマだ。お前とサトコは逃げて正解だった。傍観に回ったのは何よりも賢い選択だ。何かを行うことに恐怖するのは、何かを始めようと踏み出した瞬間、その物事に費やしてきた時間と得てきた知識、こなしてきた経験が如実に現れ、自分自身が丸裸の存在になってしまうからだ。見られたく無いところまでをも見透かされてしまい、優劣を決定される立場になるからだ。だから何においても、やらない奴はいつだって最強なのだ。
 都心と言えどたかだか町内会の祭りで、新宿のど真ん中で死に物狂いな僕は、さぞかし滑稽だろう。無様だろう。そんな所で突っ立ってないでほら、笑えよこの野郎。
 泥舟が行く汀は暗礁たるや。疾く疾く駆けるその先は暗闇なり。下船を拒否した愚者共は、なすがままの木偶に変わり無し。溶け落ちる船体と幽鬼の船員を攫う濁流の先は、まっこと無様な沈没なり。なれどその兆しは未だ見えず。自身と同胞の魂を深淵の何処へ誘わん。
 サトコの平手がサトルの頬を打つ。めまぐるしく移り変わる思考から解き放たれたサトルは、サトコと僕らにそれぞれ一瞥を向けて踵を返す。置いてきぼりにされかけたサトコが、そんなサトルの背中を追いかけた。
 彼の選択はやはり逃避だ。サトルはどこまでも賢く、それ故に哀れだ。サトルは結局それしか選べないのだ。舞台に立つ姿に憧憬を抱いても、実際に自分が立つことに恐怖した。
 そんなサトルに惹かれたサトコは、本当は歌なんて好きではなかったのだ。正確に言えば、以前は好きだったが今はもう好きではなくなってしまったのだ。あまりにも歌だけに自分を結びつけるあまり、惰性で続けてしまっていたのだ。
 彼女の喉から紡がれる声音は、彼女が自身を発信するツールでしかない。歌を通して味わった強烈な開放感が彼女自身を歌好きだと錯覚させていただけで、彼女の本心は歌をそれほど愛していたわけではなかったのだ。
 なんとも、身勝手な話である。どいつもこいつも、大事なのは結局自分だ。見ているものは目の前にある快楽だけだ。
 しかしそれは正しい。生物として正しい。誰だって自分を取り巻く状況を、好ましくない状態にはしたくない。嫌なものからは逃げたいし、気持ちが良い物が目の前にあったら真っ先に飛びつきたい。だが、今回ばかりは話は別だ。
 僕とタカシが今、ステージに立ってリズムを刻み、風を吹かせながら叫んでいるのは僕とタカシの意志だ。浴びせかけられる罵声と酒はそれに対しての責任で、甘んじて受け入れなければならない。
 だが、僕らにここに立つきっかけを作ったのはサトルである。僕らが意気揚々と乗り込んだ泥舟を用意したのは、他でもないサトルである。だから彼にも責任を取る義務があるし、責任を取らせてやるのもまた一つの優しさだと思った。
 だからサトルには僕らと共に、死んでもらわなければならない。このまま惨めに生きていられては困るのだ。マヨヒガにある、あの地下のバーは僕とサトルのお気に入りだ。あそこで気分良く酒が飲めなくなること以上に、悲しいことはない。数少ない僕の居場所を、こんな形で失いたくはない。
 相棒に突き刺さっていたパイルのようなシールドを引っこ抜くと、思わず耳を覆いたくなる断裂音がアンプから飛び出す。投げつけられた酒でできたアルコール溜まりに片足を突っ込み跳躍すると、怒りを驚愕に変えた群衆が作った空間に落ちた。
 よろよろと立ち上がりながら真っ赤な相棒を全身で抱き、去りゆくサトルを目指して走る。ネックの先が逃げ遅れた客の頬を叩き、つま先に当たった鈍い感触で何かを蹴り上げたのがわかったが、省みている暇など無かった。
 視界に現れては消える有象無象の合間で、揺れ動くサトルに意識を集中させていなければ、見失ってしまいそうだった。躓きよろけ、その拍子に誰かの酒を顔から被る。視界が燻り、眼球全体が細かく鋭い痛みに覆われる。
 滴る酒を舐め取りながら纏わりつくストラップを捨て、相棒のネックを握ると肩で担いだ。ずっと抱えてきた相棒の体重は、心地良く頼もしかった。
 漆黒の水面を進むは、不毛な願望と儚き希望を固めた泥舟なり。舵を取る船員は揃いも揃って無知蒙昧の救いようのない大莫迦物供である。ありもしない奇跡を信じ、ハリボテの勇気で持って闇の底へ沈まんとすれば、道連れの一人や二人のなんと瑣末なことであろう。
 勘付いたサトルが背後を振り向き、肉薄する僕を見るや、なりふり構わず逃げ出す。しかしもう手遅れだ。今走り始めたサトルと違い、僕はもうすでに疾駆している。
 背中からサトルに体当たりを食らわせ、二人揃ってアスファルトの上に転がった。サトルが再び逃げ始める前に起き上がり、胴体をまたいで情けなく怯えた顔面を見下ろす。
「ジュン、悪かった。俺が、悪かった。この通りだ。だからそいつを下ろすんだ。冷静になれ。それはお前が長年連れ添った相棒じゃないか。な? 悪いことは言わないからよせ! やめるんだジュン!」
 一瞬、絆されそうになるも結局、相棒は僕の肩から降りなかった。言ってしまえばこれは、運命だ。ここで僕はサトルを殺し、サトルは僕に殺され、真っ赤なセミアコは砕け散る宿命なのだ。
 ネックを握り直すと形を変えた手のひらの肉に、相棒がぴったりと馴染んで身を委ねた。
 平らな心に雫が一つ落ち波紋が広がる。本心の抽出が終わるや僕は、腕を伸ばし背筋を反らせ、高々とセミアコを振り上げると、魂に灯った新たな炎の温もりと清々しさを噛み締めながら、まっすぐに振り下ろす。その刹那に垣間見えたねっとりとした初夏の空には雲ひとつ浮かんでいなかった。
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