ボードマン・フライト・スクール

文字数 4,025文字

 フォートワース空港に着いたのは夜中になっていた。飛行機学校から送られてきた連絡先に電話をするが、なかなか出ない。ホテルに宿泊するつもりは毛頭なかった。一円でもムダに金を使いたくない。電話がようやく通じ、迎えに来てくれた、副校長に、副校長と分かったのは後のことだが、連れて行かれた場所は、街中の牢屋みたいな木賃宿。一睡もできずに、日が空けると同時に、後先を考えずに外へ飛び出した。それほど、木賃宿には落胆した。
 米国に来て、入学しないで日本へ帰ろうと思ったのは、この時と、健康診断を受けた時の2回。空港に向かって、トランクを引きながら歩いていると、悪い宿を紹介したことを後悔したのか、副校長が車で探しに来た。
 「ノー、ノー、学校はそっちの方向じゃない」と無理やり車に押し込まれ、学校へ連れて行かれた。普段でも解せない英語を、徹夜で寝ていない頭では、副校長が何を言っているのかサッパリ判らず「宿を変えて欲しい」と伝えるのがやっとだった。
 昼のフォートワースは、夜中の街中の印象とは異なり、陽光に輝き、樹々にはリスが走り回り、芝生の臭いに溢れる素敵な所だった。その郊外の一軒家に宿を借りた。広い一間の部屋で、アウトオブ、トイレ・バス。5部屋ほど同様の部屋があり、ミセス・アンダーソンという、人のよさそうな中年夫人が管理していた。
 その下宿から「グッドモーニング」と言って迎えに来てくれる、黒人のおじさんが運転するキャデラックに乗って、卒業するまで毎日、飛行機学校に通った。
 飛行機学校は自動車教習所とほぼ同じシステムで、ひとつだけ大きく違うのは、まず、健康診断にパスしないと入学できないこと。学校が指定する病院で診断を受けることが条件になっている。 目の検査では、看護婦さんが「コンプリート」と目を丸くした。4分割した正方形の一画が点滅し、徐々に小さくなる目の検査方式で、最後まで、上下左右、どの場所に点滅するかを言い当てた。これまで、最後まで言い当てた米国人はいなかったのだろう。1ヵ月以上の海上生活で、これまでも良かった視力に、さらに磨きがかかったようだ。
 心配していた血圧の検査はクリア。渋い顔で医師が言う「尿に糖が出ている」と。英語でも糖のことを、シュガーというようで、持参していた英和辞書を指さして「シュガー、シュガー、糖尿病だ」と。海上での生活は、視力を増しただけでなく、ストレスと運動不足で糖尿病をも、もたらした。
 糖尿病と医師から告げられて、口惜しいというより安堵感が先に立った。「これで日本に帰れる」と卑怯な気持ちが湧いた。免許を取得できなかった言い訳を、病気のせいにできると。いまでも、ちょこちょこ弱気の虫が顔を出す。当時と少し違うのは、弱気の虫が出てきたことを、自ら感じ取れるようにはなったことだろうか。
 「血液検査をするから、なにも食べずに、明朝、もう一度来い」と医師が告げる。当日、血液検査が行われ、すぐに結果がでた。医師の満面の笑顔を見ただけで、聞かなくとも結果は分かった。「OK、大丈夫、セスナに乗っても問題はない」。薄っぺらな言い訳を心由としなかった、天の配剤に対して、いまは心から感謝している。覚悟が決まった。
 日本の航空雑誌に広告を掲載しているからには、当然、日本人学生がいると考えていた。飛行場にはボードマンと同じようなフライト・スクールが数件ある。見渡しても、日本人らしき学生は全く見当たらない。東洋人らしき学生もいない。卒業するまで、日本人学生とは1度も会うことはなかった。後日立ち寄った同じ航空雑誌に掲載していた、授業料が高額のカリフォルニアとホノルルのフライト・スクールには、大勢の日本人学生がいた。皆、いいとこのご子息のような人たちだった。
 学校へ行くと、まず、置いてあるコーヒーとクッキーを朝食代わりに頂く。出席簿にサインをして、フライトの練習時間が決まるまで校内で待機。フライトが決まると、空いている時間にグランドスクールを受講して、飛行知識、法規などを学び、FAAの試験に備える。飛行機の構造やメンテナンスなどのことは、最小限のことしか教えない。「パイロットは操縦するのが仕事」。プロは専門に徹する。大谷翔平は別格だが、米国のこうした合理的な考え方は、嫌いではない。
 入学した初日から「レッツゴー・モスコウ」と呼ばれ、セスナ150を操縦させてくれ、教官と共に飛んだ。私の苗字がソ連の首都の名に似ていることから、学校では終始「モスコウ」。敵対する国の首都の名を持つ、カミカゼとして恐れられた。
 副校長を含め、数人の教官がいる中で、相性が良かったのが、ベトナム帰りの、いまでも名前を忘れることのない、チャリー・ブラウン先生。二の腕にタトゥーを彫り、スヌーピーの相方とは似ても似つかない風貌だが、とても優しい教官だった。
 一通り計器の説明を受けた後、チャリー先生が右の副操縦席に座り、左のキャプテン席で私が操縦桿を握る。シミュレーター機器などあるわけがなく、全てがぶっつけ本番。
 飛行時間が10時間経過した頃、チャリー先生が驚愕するようなことをいう。「今日は、ソロ飛行を行う」。地を走る自動車だって、教習所の教官は、そんな無茶は言わない。いわんや、誰も助けにきてくれない空中を、たったの10時間しか操縦桿を握っていない生徒に要求するとは、流石はベトナム帰り。チャリー先生のテキサス魂は、並みではない。
 チャリー先生、おもむろにセスナの無線機を持ち「これから、ジャパニーズ・スチューデントがソロ飛行するから、よろしく」との意味の言葉を、管制官に向け投げかけた。管制官に何ができるというのだろうか。精々、墜落した時に、いち早く見付けてくれるぐらいが落ちだろう。
 テキサス魂は正しかった。1度ソロ飛行すると、案ずるより産むがやすしで、その後は、度胸も座り、大空を満喫した。ブルーインパルスが上空に五輪を描いたような、2重、3重に織り成す虹を天空から見た。上空に行かないと見られないものもあるが、上空へ行くまでに、危険なことも多々起こる。得てして、何事も慣れきた頃が危ない。
 滑走路の端まで滑走して、管制官に「リクエスト・ノース・イースト・ディパーチャー」と交信する。パイロットにとっては、基本的なことだが、飛行機は吹き流しを見て、風に正対して(アゲインストに向けて)離陸と着陸を行う。
 管制官からの離陸許可が下りると、スロットルを全開にして滑走路を滑走、80ノットの速度に達したところで、機種を上げる。この時、極めて重要な操作がある。右のラダー(方向舵)を踏むこと。セスナのような単発機は、プロペラが一定方向に回転することで、滑走時にはその風の影響はないが、離陸すると抵抗がなくなり、回転から発生した風が直接、尾翼に当り、直進できなくなる。ある時、ラダーを踏み忘れた。離陸した刹那、右のラダーで、尾翼の調整がされていないため、機首が左へ大きくスライド。管制塔へ向かっていく。管制官の驚く顔が、いまでも浮ぶ。
 また、ある時は、離陸直後に座席の留め金具が外れ、足が短い日本人に届かない距離までシートがずれ、ラダーを踏めない時もあった。卒業するまで、管制官と面と向かって会わなかったことは、僥倖であった。
 グランドスクールとフライトが終わると、キャデラックが迎えに来てくれるまで、会話も覚束かず、話す相手もいないので、日がな1日、何となく1人構内で過ごす。
 下宿のミセス・アンダーソンは、いつもニコニコしている。部屋のベッドメーキングもキレイにしてくれ、朝、シャワーを長く使うフランス人に、トイレ使用を待たされる意外は、とても居心地のいい下宿だ。ミセス・アンダーソンが親しみを込め「ジャップ」と呼ぶのが解せない。ミセス・アンダーソンからの呼びかけには、全く、悪気など感じられない。「ジャップと呼ばないで欲しい」とお願いすると「チャイニーズか」というので、「正真正銘の日本人だ」と説明しても「それでは、ジャップでいいではないか」と、悪びれた風もない。
 「テキサス・ダイアレクトかもしれない」。太平洋戦線に多くのテキサス人が駆り出されてから、方言・訛りとして定着したのかもしれない。
 この街の人たちと、会話が進まないのは、テキサス・ダイアレクトの影響もあるのかと、少々安心した。
 その後、呼び名は「ヤマ」に変わった。なぜ、「ヤマ」になったのかと気付いたのは、鏡に映った自分の後姿を見た時。YAMAHAのロゴが、Tシャツに印刷されていた。「ジャップ」でも「ヤマ」でも、ミセス・アンダーソンからの呼びかけは、終始、温かかった。
 下宿が決まって、すぐに出した手紙の、お袋からの返信が届いたのは、日本を発って、すでに約2か月ほど経過した頃だった。兄貴が書いたであろう、英語での宛先、テキサスのスペルが間違っていた。封筒は、折りたたんだ便箋で膨れ上がり、あまり美しいとはいえない、平仮名が多いお袋の字で埋まっていた。
 お袋と親父と兄貴たちが、居間で話しながら、手紙をしたためただろう。その光景を想像すると、もう何年も会っていない人たちのように感じ、寂しさが募った。無性に日本が恋しくなった。帰国してから、長く音信不通だったことに気を病み「お袋は何日か寝込んでいた」と、後に兄貴から聞かされた。親の身になって、初めてお袋の心境を知った。そのお袋は満104歳まで生き、天寿を全うした。
 朝食は学校でのクッキー、昼食は構内のファーストフード店でのハンバーガー、夜は少々のバーボンと、うどんに似ているヌードルにパンを付けての食事。テレビなどなく、味気ないこの食事を何日も続けていれば、ズボンはぶかぶかになり、自分でも痩せてきていることが明確に分かる。格納庫の隅で、お袋からの手紙を見て、コケタ顔でシクシクしていれば、周りも、心配してくれる。
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