第1話

文字数 9,862文字

この人の頼み事は、大概知り合いの悩みだ。
 しかも、その知り合いは大概、名前が似ている所から繋がっていると言っても、過言ではないようだ。
 話を聞き終えたセイは、まずそう思った。
 珍しく、女と共に待ち合わせ場所に現れたカ・シュウレイは、話し終わった後出されたコーヒーに口をつけた。
「……まだまだ、修行が足りないよ、狼さん」
 難癖をつけられた大男は苦い顔だが、これでもましな味になった方だと、セイは知っている。
「挽きガラが入らないようになっただけ、ましですよ」
 何度これでは商売にならないと、ここに店を構えた両親に訴えたものの、別に構わないの一点張りだったのが、最近ようやく何か思うところがあったのか、真面目になってきた。
 その一つの原因が、恐らくはこのシュウレイと弟の来店だ。
 そして、時々その姉弟と共にやって来る、その大叔父の存在も大きいだろう。
 前向きになった夫婦にほっとはしたものの、それまで真面目に説得して来たセイとしては複雑な思いだ。
 ここを待ち合わせに指定したのもシュウレイで、今日は珍しく弟と同伴でない上に、女を連れていた。
 二人の関係性は、セイも分かっているが、驚きが隠せなかった。
「紹介、いる?」
「ええ。確認のために、お願いします」
 シュウレイと同じくらいの、小さな女だった。
 格闘系の隙の無さはないが、全く別な種類の隙が見受けられない。
 シュウレイよりも少しだけ童顔な、美少女めいたその女は、優美に笑って名乗った。
御藏(みくら)(ゆう)、と名乗っています。初めまして、じゃないわよね?」
「……ええ。単に、この人と知り合いだったとは、思わなかっただけです」
 正直に答えた若者に、優と名乗った女は小さく笑った。
「この子の事も、その弟の事も、承知しているわ」
「なら、その、養い子にも?」
「会ったけど……」
 優は苦笑して答えた。
「私が様変わりし過ぎたのか、全く気付かなかったわ」
「……」
 それで勘が鋭いとは、聞いて呆れる。
 ついつい、正直にその想いを顔に出してしまった。
 それを見て、優は楽しげに笑う。
「さっき少し顔合わせしただけだけど、それで分からないなら、その利点は返上した方がいいわよね」
 シュウレイとも、先程対面したばかりだと言う。
「ちょっと、技術を要する話になっちゃって。その手の伝手を探してたら、(れん)が人を紹介してくれて……」
(きょう)兄さまから話が来て、初めてエンちゃん以外の、弟と妹の存在を知ったところよ」
 優は、カスミの長女で次子だ。
 今は亡きランと双子の姉妹といて産まれ、ヒスイの息子であるコウヒとの間に娘を儲け、戦乱の最中命を落とした……そう、周りでは認識されて居たのだが、この国に昔から住む狐とその弟子仲間はその生存を信じ、その二人が揃った頃にようやく、ある地で埋められて眠っていた女を見つけ出し、掘り出した。
 髪結いになって生計を立てながら、徐々に別な能力を開花させ、今では御蔵と言う家の元祖として、その家の当主を見守り続けている。
「技術を要すると言う事は、容姿を変える話になるんですか?」
「そうだよ。お前が承知してくれないと、別な見目のいい奴を、見繕わないといけないんだ」
「見目? 見目がいいって、どう言う見目の話で言ってるんですか? 話が見えないんですけど」
「だから、今から話すから。説明聞いてよ」
 話を聞いたら、その頼みを受けねばならない。
 セイは躊躇ったが、シユウレイの方は構わず話し出した。
「……奥田(おくだ)秀人(しゅうと)……また名前……」
「数年前偶然、名前を書いている場に居合わせて、つい声を掛けちゃったんだ」
 何故、そんな見も知らぬ男に、あっさりと声をかけるのだろう。
 呆れる若者に構わず、シユウレイは話を続ける。
「で、その後少しだけお付き合いして、趣味が合わなくて別れたの」
「……逆ナンして、お試しして、別れたのね。いい婚活ね」
「具合は良かったんだけど、ほら、感性が国ごとにも違うでしょ? 足舐めてって言ったら、引かれちゃった」
 何の話か分からず黙ったセイの前で、姉妹はほのぼのと会話している。
「小さい足じゃないからかと思って、ショックだったけど、そう言う引きじゃなかったみたい」
「ええ、違うわね。日本は、そういう風習なかったから。というより、今は大陸の方でも、その風習、無くなっていると聞いたわ」
「そうなんだよ。びっくりしちゃったよ。私が捕まってる間に、時代は変わっちゃったんだよね」
 話の節々で、昔の中華の国の風習の話だと気づいたが、若者は話を遮ることなく黙っている。
 何で自分が呼ばれたのは分からないが、どんどん話が逸れていくのを遮ってまで、話を進める気はなかった。
 このまま、世間話で別れる事になっても構わないと思いながら、セイはコーヒーを飲む。
「でね、そのシユウちゃんが、十年ほど前に結婚したんだ」
 が、そのすぐ後に話が進み、思わず顔を顰めてしまった。
 カウンター席で、ウルが心配そうに見ているから、誤解してくれる程度の変化なのだろう。
 だから構わずにコーヒーを飲みながら、シユウレイの話を聞く。
 すべてを話し終わり、答えを待つ女を前に、若者は言葉を探して切り出した。
「その頼みと、見目を変える話が、繋がるんですか?」
「見目を変えるんじゃなくて、そのまま、着色して欲しいの」
 なぜわざわざ、そんな面倒な事をする必要が?
 そんな疑問に、シユウレイは真顔で答えた。
「だって、今のままじゃあ、相手に気付かれもしないもん」
「気づかれないように、動く話じゃあ、ないんですか?」
 シュウレイの頼みは、その奥田秀一の妻子を、ある男の手から救い出す手伝いをして欲しい、という事だった。
 それならば、あまり目立たずに動くのがいいだろうに、シユウレイは真面目に首を振った。
 そして、とんでもない事を言い出したのだ。
「奥さんを手離しても構わないと思う程、そいつを篭絡して欲しいのっ」
「ロウラク?」
 何だ、それ?
 どこかで聞いた言葉だが、余りに関係ない話過ぎて思い出せない。
 そんなセイに、女二人は真面目に説明し、計画を話し出したのだった。

 その都市は、治安が悪い事で有名だ。
 春ごとに、変な人間が子供をつけ回すし、殺傷沙汰も多い。
「それは、住んでいたことがあるので、僕も知っているんです」
 速瀬(はやせ)(しん)が、そう言った。
「ですが、どこまで物騒なのか、分からないので、その都市出身の方に、話を聞いて見たいと、この二人が……」
 あらまあというのが、岩切(いわきり)夫人の第一声だった。
「あんなところに、何の用があるの? こちら側の方が、何でも揃っているはずだけど?」
「はあ、そうなんですが……」
 曖昧に答えたのは、今年高校二年に上がった、古谷(ふるや)志門(しもん)だ。
 人の好さそうな少年は、困ったように顔を伏せつつも、その理由を言う気はない様だ。
 つまり、今回の話を岩切家の(しずか)には、知られたくないのだろう。
 まあ、あの都市に行くと言うのなら、まだ幼い少女を連れていては危険だ。
 子供の頃から小柄で大人しく見られる岩切夫人は、その事を良く知っていた。
「まあ、あの辺りに済む連中は、大体がこの都市や他の地で炙れた人ばかりだから。静を連れて行かないと決めたのは、正解かもしれないわね」
「そんなにひどいんですか?」
 金田(かねだ)健一(けんいち)が、顔を顰めて返す。
 この土地が平和過ぎて、麻痺してしまっている分、その差は信じられないだろう。
 自分だって、驚いた。
「こちらの習いごとに行っていた時、毎夜、住宅街を自警団が回ってくれているのを見て、驚いたわ」
 多くが、引退したご老体だったが、昔は腕を鳴らした男の人だった。
「それは、話に聞いてます。その自警団の人に、小母さんは助けてもらったんですよね」
 実の父親の暴行から。
 健一の言葉に、岩切夫人は苦笑して頷いた。
「丁度、都市境の道だったから、見とがめて下さったのよ」
「道?」
 志門と伸が、目を見開くのを見て、健一が苦い顔で聞いた話をする。
「習いごとの帰りに、住宅街の道中で、小学生の娘の胸倉攫んで、往復ビンタしている所を、偶々こっちの都市の自警団が目撃して、110番通報したんです」
 警察が来た時にはすでに、その二人はその場にいなかったが、足止めしていた自警団に導かれすぐにその姿を見つけた。
 警官が呼びかけると、二人は振り返った。
 愛想笑いしている男の後ろに隠れた少女の顔は血まみれで、鼻からはまだ血が流れていた。
「警官の問いに、男は帰りが遅いから殴ったと答えたんですけど、元はと言えば、親が決めた習いごとからの帰りでしょ? 鼻血を出させるほどの悪い事じゃない。だから、署に連行し、母親とそのご両親を呼んだ」
「父方は、祖父母共に、故人だったから」
 書類送検ですみ、大事には至らなかったが、母親と娘は祖父母と共に暮らし始め、すぐに離婚が成立した。
「あの時は、自警団の方が偶々気づいてくれたから、私は助かったけど。本当なら、こんな大事にされなかったはずよ」
 何故なら……。
「殴られている時に、その傍を自家用車が横切って行ったのよ。誰が乗っていたのかは知らないけど、止まりもせずにこちらを見たのかも分からないくらいにスムーズに、通り過ぎて行った。無関心なのか、関わりたくなかったのか。自分に都合の悪い事には、自分から関わらない、そんな都市柄なんでしょうね」
 未だに、父親の元に残った兄弟は、恨み言を言いに来るそうだ。
 お前が悪いのに、家族が崩壊したと。
「でも、祖父母も母も、そんな事はないと言ってくれたわ。私も、どうしてあんなに殴られなくちゃいけなかったのか、分からなかった。だって、習いごとに行く前に、ちゃんと遅くなる理由を置手紙にしたためて、出かけたはずなの」
 その日、クラスメートたちと共に、自分の家で委員会の活動の、清掃分担の表を作っていた。
 早めに作って習いごとに行くつもりが、まだ出かけていなかった兄弟たちに邪魔され、クラスメートも泣かされ、散々な状態で表をようやく書き上げて、五時ぎりぎりに習いごとに向かったのだ。
「ようやく習いごとを終えて、家路についたその道に、あの人待ち伏せしてたのよね」
 実の父親は、近づいてきた途端に、頬を張った。
 言い訳も何も聞かず、只殴り続ける父親に、娘は絶望した。
「母が警察に呼ばれた時、兄弟二人も一緒だったんだけど、その時のあの二人の顔を見て、どうしてこうなったのか、分かったわ」
 置手紙を、捨てられたのだ。
 自分の顔を見て、馬鹿にしたように笑う兄弟に、こいつらは敵だと、そう感じた。
 そして、そう感じたのは、祖父母も同じだったようだ。
 娘と孫娘だけ引き取り、男兄弟二人は、父親の元に残して離婚させた。
 年を重ねても、あの父親の心境も、男兄弟二人の気持ちも、全く分からない。
「分かる気も、ないけど」
 都市の話から、一家族の話になってしまった。
 首を傾げる志門に、岩切夫人は笑いながら言った。
「あの都市の話と、遠ざかっているわけでもないのよ。そう言う家族は、結構いるみたいなのよ。だからこそ、人の事情に、無関心なんでしょ」
 傷害事件の目撃も、見なかったことにする。
 それは、街中に行けば行くほど、その傾向にある。
松本(まつもと)さんのご夫人、知ってるでしょ?」
「ええ。時々、お漬物を頂きます」
「あの人も、元々はあの都市の出身なの」
 しかも、岩切夫人とは違い、成人するまでその地にいた。
 いや、縛りつけられていたと言ってもいい。
「そうだ、この機会に、久し振りに呼んでみようかしら。待ってて、電話してみる」
 同郷と言う理由だけではなく、松本夫人と岩切夫人は仲が良い。
 だが、どちらも結婚してからは、頻繁に会う事が出来ないのだ。
 言い訳が欲しかった岩切夫人に呼ばれ、松本夫人は喜んでやってきた。
 背丈も容姿も岩切夫人と似た雰囲気の女は、挨拶を済ませて事情を聞き、首を傾げた。
「……でも、こんな黒い不幸自慢みたいな話、あなた達の年代の子たちが聞いて、面白い?」
 不思議そうに問われ、志門は苦笑しつつも頷いた。
「あの都市の性質が分って、参考になると思うのです」
「だから、何の参考なんですか?」
 健一が尋ねても、古谷家の跡取りは曖昧に誤魔化す。
「性質、って言うのかな、あれ。意外に粘着質、って言うのは、個人の性格もあると思うけど……」
「思い通りにならないと、大きな声で牽制するか、手を上げる」
 岩切夫人が唸ると、松本夫人が例を上げる。
「ああ、戦後の男の典型よね」
「他の都市や、一人っ子だったら、また話は別かもしれないけど、男の中に女の子が一人いたら、必ずその女の子だけを、その鬱憤の対象にする」
「母親も、その対象になる事もあるけど」
 理由は、男の子供は成長したら自分より強くなる可能性が大で、復讐されたくないからだ。
 それ故、女の子供に全ての悪役を押し付け、その鬱憤までも押し付ける。
「まだ、子供だからってだけで、男女区別なく暴行する親の方が、素直よね」
「される方は、たまったものじゃないけど。あの辺りの人は、相手を見て、悪態や暴力をするから、質が悪いよね」
 頷く岩切夫人に頷き返し、松本夫人は続けた。
「親族に助けの手を差し伸べられて、岩切さんはひねくれないでここまで幸せになれた。もし、あの事件が明るみにならなかったら、私の時の二の舞になっていたかも」
 少しだけ岩切夫人よりも年上の松本夫人は、しみじみと言った。
「私の場合、母親がある時期を過ぎてから、娘を父親との間のシールドにし始めてから、家に居場所はなくなったの」
 中学生に、なるかならないかの頃からだ。
「それに確信が持てたのは、兄が県外に就職して、食卓の席が、父の隣に変わった時ね」
「へ?」
 父親は喫煙家で、隣でその煙と焼酎の匂いを嗅ぎ続ける羽目になった。
 長方形のテーブルの広い席に父と並んで座らされ、母は直角に当たる席に一人座る。
 その向かいが、弟だった。
 食後の喫煙の父親の横で、松本夫人は煙を吸いながら食事をした。
「咳込むと、わざとらしいと睨まれるし、最悪だったわ。その上……」
 いつからか、母の作る味噌汁を含めた料理の味が、濃い味になった。
「弁当も含めた、全部の料理が、塩っけ多かったり、卵焼きに何故か普通の濃い口しょうゆが、色が変わる位に混ぜられていたり……。このままじゃあ、病気になるんじゃないかって思ったわ」
 しかも、父親はそんな濃くなった料理を、これ見よがしに残すか、湯を注いで薄めていた。
 母に遠慮して、そのまま食している娘だけが、その悪影響を受けそうな、そんな状態だった。
「……」
 毒親が、増えている。
 少年たちが顔を引き攣らせるのを見て、夫人二人は苦笑した。
「親だけじゃないわよ。そんな家にいた男兄弟たちも、同じようになるの」
 松本夫人は、成人式を終えてからすぐに、松本家に嫁いだ。
 その半年後、両親が離婚した。
「きっかけは些細な言い合いだけど、今更な理由だったわね。私という壁がなくなったから、母が的になってたのよ。半年しか持たないなんて、どれだけ弱いのかって思ったものだわ」
 そして、その五年後。
 父親が、脳梗塞で倒れた。
「当時、六十手前で、定年前だったんだけど、急に進行して、入院した。左手足が自由に効かなくなったらしいんだけど……」
 兄はすでに結婚し、他所の地にいた。
 自分もその家を離れ、生活している。
 弟が一人、父親の介護をする事になったのだ。
「その頃、私も、ようやく授かった息子をお腹に身籠っていて、それでなくても、父のリハビリのためにも、あまり気にかけるわけにはいかないと思って、普通にしていたら……」
 男の介護を、女の身が出来るはずがなく、弟も任せろと言っていたから、大丈夫だろうと考えていたら、五か月後兄弟から、それぞれ電話があった。
 内容はどちらも同じで、声音も同じだった。
「そろそろ戻って来いって。子供も出来ないのに居座っていたら、そちらにも迷惑だろうって。妊娠していると言っても、信じてくれないのよ」
 冷静に、現実の話をしても、的外れな揚げ足を取る。
「手足が少し動かないだけで、寝たきりな訳じゃないのに、子供二人がかりで介護なんかしたら、本当に寝たきりになると言ったら、兄が声を引き攣らせて言うの。充分寝たきりだろって」
 耳を疑った。
 県内でも名高い高校に受かり、大企業に就職したはずの兄が、常識からかけ離れた主張を、平然と言い切った。
 もし、十年自分が実家に戻って父を介護するとしても、介護の後の将来を、兄弟は保証してくれないだろうと、試しに自分の事を優先にして言いかけたが、それは途中で遮られた。
「十年しか、面倒を見ない気かって。例えの話でしょうと言っても、その一点ばかりを強調して。これ、話し合い無理だって、そう思ったわ」
 うん、それは、無理だ。
 つい頷く少年たちに、松本夫人は弟の事も話す。
「限界だから、戻って来て手伝えと。限界ってどのくらいって訊いたら、死にたいくらいって。……言いそうになったわ、言っちゃいけない事を」
 ああ……と、少年たちは同情した。
 こういう手合いは、自分が何を言っても許されるが、相手が言う事には敏感に反応して、攻撃する。
 松本夫人は、それを知っていた。
 ここまでですっかり、疲れていた夫人だが、力の弱った男一人くらいなら、何とかなるかと考え直し、弟に言った。
「私が世話をするなら、こちらに引き取るか、私が家に戻って弟に家を出てもらうかになるけどって言ったら、何でって狼狽えた」
 こちらとしては当然の希望だった。
 まだ寝た切りとは言えないほどの病状の男一人なら、目を掛けながら家の事をし、生活するだけで済む。
 そんな病状の父の介護で、死にたいと言う程に根を上げるような甘い男は、邪魔でしかなかったのだ。
「二人なら、ご飯の準備だってそこまで苦じゃないし、住む人間が多い分、こちらの労力が増えるでしょ? だから、もし、私に戻れと言うなら、母親の元にでも行ってくれと言ったのよ」
 弟は元々、好き嫌いが激しい、甘やかされて育った男だ。
 住む家がないわけじゃないにもかかわらず、姉からすると当然の条件に、難色を示した。
 そして、言い出したのだ。
「両親の離婚も、父の病気も私のせいだから、介護するのはお前だって。子供産んでる暇なんか、ないだろうって。いい加減、わがままはやめて戻って来いって。父親もね、私に介護されたがっているって。赤の他人に介護されているのが、我慢できないって」
「へ?」
 健一がつい、間抜けな声を上げる。
 松本夫人も深く頷いた。
「おかしいでしょう? 弟は、それに答えて私に話を持って来てるの。赤の他人って、弟は言われてるのに、怒らなかったのかって思わず訊いたら、揚げ足捕るなって」
 親不孝と罵られても仕方ないと、もう、悪役を受け入れようと思った瞬間だった。
 姉からすると、家を出た身で当然の事を話したつもりだったが、全て我儘と一蹴されたのだ、何やっても何言ってもそうとしかとられないのに、戻るのも彼らを相手にするのも、馬鹿らしいと感じたのだ。
「……」
「もう、ほとほと呆れちゃって。仕方ないから、その会話全部録音しておいて、旦那とお舅様方にも、相談しました」
 松本氏が、どんな解決をしたのかは知らないが、それから父が亡くなるまで、兄弟とも父母とも関わる事はなかった。
「あちらの財産相続も放棄したし、母とも関わる気はないから、もう、絶縁したも同然。うちの家族だけ、あんな変なのかと思ってたけど、岩切さんの所も同じと聞いて驚いたわ」
 しかもある騒動で、あの都市全体の住民の殆んどが、そんな性格だと分かった。
 それは、ある動物を媒体にした伝染病が、その都市を中心に広がった時だ。
「発病した動物を飼っている辺りの人は、楽観し過ぎていたのよ。封鎖より先に、仕事がなくなる不安を、世間に訴えた」
 自分の有益を優先させて封鎖を遅らせ、結果県内全域にその病を蔓延させてしまった。
「本当に些細な事の間違いには目くじら立てて、指摘して馬鹿にするくせに、こういう重大な事を起こして置いて、責められたら仕方ないだろう、なってしまったものはと言うの。父親がここにもいるって思ったわ」
「まとめると、被害妄想が強く自己中な粘着質が多い、面倒くさい都市柄、ってところかしら」
 身も蓋もない。
「私自身も、そうならないように心掛けてはいるけど、一歩間違えればそうなりそうで」
 松本夫人が言うと、岩切夫人も神妙に頷いた。
「血筋って、偶にこう言う所で出てしまうものね。気を付けようとは思っているけど。私の所は、実の娘じゃない分、そう言う虐待じみた事をしそうな家族だから、余計に気になっちゃって」
「うちは、男の子が二人で、一人は事情があるから、その点も心配よね」
「あら、松本さんの所は、お母さんを守るって、言ってるんでしょ?」
 何やら、子供自慢が始まりそうな雰囲気になった。
 そろそろ、お暇しようと少年たちは目くばせし、岩切家を後にした。
「……で、どうして急に、あの都市の話に興味を持ったんですか?」
 不思議そうに伸が問う傍で、目を細めた健一が続けて言った。
「そろそろ教えてください。じゃないと……静に、チクりますよ」
 その脅しに屈した形で、志門は静かに答えた。
「……御蔵さんの所の元祖様が、若と手を組んで、何やら企んでいるそうなのです」
 その企みの舞台が、どうやらその問題の都市らしいと、古谷家の後継ぎは言った。

 この地を嫌って、出て行く人たちも多い。
 だが、住めば都、そんな心持の者も、いない事はないのだ。
 移り住んで好きになり、嫌われる土地柄ならば、中身ごと変えてやろうと意気込む若者も、最近は秘かに増えてきていると、(みどり)は思っている。
 緑も、その一人だからだ。
 と言っても、女子高校生の身では、意気込んでもそこまで大それたことは出来ない。
「早く、大人になりたい」
 水谷(みずたに)緑は、口癖になったセリフを、何気なく呟いた。
 それに答えるのは、同級生の(ひそか)だ。
「後三年、辛抱しよう。成人したからって、何ができるって訳でもないけど、気は済むでしょ」
「そういう、気分の問題じゃないんだってば」
 宥め口調の友人に、そう反論する少女は、社会人か大学進学かの選択を迫られて、追い詰められている、現在高校三年生だった。
 母に似たのか小柄な少女は、学校内でも有名な美少女だが、一緒に帰る御藏密は羨ましがられることは、なかった。
 いや、初めて緑に会う者は、妬む視線を投げるが、少女の本性を知れば、おのずとそんな気持ちを捨て、同情の目を向けてくれる。
 いや、露骨に同情されるほどでもないのだと、密は主張したいが、まあ、隠す気のないあの性格を目の当たりにしては、見惚れるよりも驚き怯えて、固まるしかなくなるのは、仕方がない。
 それが分かるほど頻繁に、緑の目に余る事案が、周囲に転がっているというのも、問題視するべきことだろうと、密は思う。
 平均に近い背丈と、どちらかというと目立たない容姿の帰宅部の少女は、何故か一年の時から緑に懐かれ、現在まで友人と言う立場に収まっている。
 名前の通り、秘かに学校生活を送り、いずれは家を継ぐことになっていたと言うのに、今現在、友人のお蔭で目立ちまくりだ。
 そう心の中で嘆く間にも、その騒動が音を立てて近づいて来た。
 騒音がやかましい、原動付き自転車、つまり原付だ。
 今でも音で目立ちたいと思う輩がいて、近くで響くその音は顔を顰めるレベルなのだが、そんな事を露骨にしては、相手はそれを見とがめて絡んで来る。
 人の目は気にしない癖に、そう言う嫌そうな顔は見えると言う、都合のいい視界の輩だ。
 緑が睨んで絡まれない様、密は頻繁に話しかけて、原付が通り過ぎるのを見届けたのだが、その後姿を見送った二人は、思わず嫌そうに声を上げてしまった。
 二人の前を、杖にすがって歩くお婆さんが歩いていた。
 二人乗りで走る原付が、お婆さんの隣を通り過ぎる瞬間、後ろの奴が手提げ鞄をひったくった。
 その勢いで、お婆さんが道路に倒れ込む。
 原付は、二人の歓声を響かせながら走って行った。
「っ、大丈夫ですかっ」
 密が駆け寄り、老婆を抱き起す。
 一緒に駆け寄った緑は、目を据わらせて原付が走り去る後姿を見ていた。
「御藏、お婆さんは頼むよ。救急車と、警察もっ」
「う、うん」
 密の返事を聞く前に、少女は走り出していた。
 原付に追いつく勢いで。
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