第3話 Raid

文字数 35,672文字

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"一種類の黴菌だけが一つのきまった病気を引き起す。各々の病気はすべてそれ自身のきまった微生物をもっているのだ。私はそれを知っている。"
ロベルト・コッホ

"人間は、自然のうちでもっとも脆い葦でしかない。しかし人間は考える葦である。"
ブレーズ・パスカル
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 1347年、後にヨーロッパの人口の実に1/3を死に至らしめた疫病が広まった。人類史上最悪のパンデミックである。感染した者は皮膚が黒くなって亡くなることから、「黒死病」と名付けられた。その正体は、アジアとヨーロッパで周期的に流行する腺ペストであった。
 現在のウクライナの港町フェオドシヤに位置していたカッファでの発生後、感染した船乗りたちが黒海を渡り、イタリアのメッシーナ港へ着くと、急速にイタリア全土に拡大、その後、フランス、スペイン、イギリス、ドイツなどヨーロッパ諸国に広がっていった。感染は海上貿易と陸路を通じて、短期間で広範囲に及び、病のなすがまま、人類にそれを止める手段はなかったのである。
 腺ペストはペスト菌が引き起こす疾患で、黒死病は6世紀にビザンチン帝国で流行し2500万人もの命を奪ったユスティニアヌスの疫病も同じものであった。体内に侵入すると、数日から1週間、体内で潜伏する。その後、発熱、寒気、頭痛、筋肉痛といった症状が現れ、さらに腋の下や足の付け根のリンパ節が腫れ、激しい痛みを伴う症状も現れる。次の段階で高熱、悪寒、嘔吐、下痢が続き、重症化して血圧低下や意識障害が起こり、多臓器不全、そして死に至るのだ。
 当時の医療技術や知識では、原因もわからず治療法も確立されていなかったため、医師や研究者はお手上げ状態だった。これにより、感染者は隔離されることもなく、ウイルスの急速な広がりを招いてしまった。農民も貴族も、貧富の別なく、その凶悪な病原体に殺されていったのだ。人々は恐怖と絶望の中で混乱し、神の罰と考え祈りや儀式に頼るしかなかった。
 都市部では人口の半数以上が死亡し、労働力が激減した。農村部でも労働者が不足、食糧生産が停滞し、経済活動が止まり、社会はその機能をほとんど失ってしまった。その上、ユダヤ人などの少数派はスケープゴートにされ、迫害や虐殺も行われた。
 わずか0.5マイクロメートルの物体が社会を破壊し、人と人の絆を滅失させたのだ。現在の我々の社会も何がきっかけで、いつ崩壊するかわからない状態にあると、ある意味で言うことができる。歴史は警告をしてくれる。しかし実際に何をすべきかまでは教えてくれない。考え、試行し、時には犠牲も出すだろう。我々はそのことを受け入れて暗闇を進むしかないのだ。

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2028年7月2日 日曜日
ワシントンD.C. ウェストエンド
15番ストリートNW
NSAコロンビア特別区支部
07:00 PM

 アレックスらが帰宅した後も、ジョンは許可をもらってしばらく残り映像のチェックをしていた。あの猫の映像の意図を少しでも知りたいと考えていた。現時点であの映像についてわかっているのは、インターネット上で流行っているミームと呼ばれるバイラル動画で、特定の波長の光や人間に感知できない周波数の音が周期的にが発せられているということだ。
 
 ジョンの中では、その音と光を暗号として利用し内部の何者かとやりとりするためのクラッキングであったと考えていた。しかし特定の音や光を仕組ませるだけならバイラル動画を使う必要もないし、そもそもわざわざバレるようにNSAオフィスのコンピュータにファイルを仕組んだのも意味がわからない。
 
「待てよ、この映像がインターネットに出回ってるのと同じなら、ネット上の動画も同じ信号を発してるのか、」
 Youtubeのホームページを検索し、当該の映像と同じものと思われる動画を表示した。短波長の青色光や高周波音の出力に対応したデバイスを用意し、測定を開始した。
「ビンゴだ。でも市販のスマホやパソコンだと弱すぎる。それに全てのデバイスが出せるわけじゃない。特定の強い信号を出すために、ここの機器を利用したのか。とにかくこの音と光を出力する必要があったんだ」
 
 ほとんどの職員が帰宅し、静まり返ったビルの一室。外では急な雷雨が降っていた。他の部屋はほとんど消灯し、沈黙している。廊下の蛍光灯はところどころが点灯しており、一部は点滅、薄暗い影を作っていた。
 ジョンは彼のオフィスルームで一人作業をしている。外の雷雨の不吉な音と内の閑静さが壁によって仕切られる。ビルの内の方から聞こえる環境音が少し薄気味悪く感じ、以後ごちのいい場所には思えなかったが、彼にとって現状の解明が重要であった。

 その時、廊下の奥から人の足音のようなが聞こえてきた。感覚でわかる足音だ。警備員だと思っていたので特に気にも留めなかった。むしろ薄暗いオフィスビルの中で一人作業するのは少し怖かったので安心した。調査中の映像の音楽が部屋に静かに鳴り響き、足音も少しずつ近づいてくる。
 
 そいつが部屋の扉を開けて入ってきて、ゆっくりと近づいてきた。
 
「お疲れさん、そろそろ上がるよ」
 ジョンは警備員に挨拶をしたつもりだった。が、見上げるとそこには病院着を着た見知らぬ少し筋肉質の男が立っていた。当てが外れ狼狽えた。
「おい、だ、誰だ、君は」
 心臓の鼓動が速くなる。

 そして、その男は不敵な笑みのようなものを浮かべ、彼の周囲に猫が4匹か5匹くっついていた。
「あんた一体、、一応言っとくがここは政府の秘密基地なんだぞ、、」
 話が通じてないようであった。
「おい、聞いてるのかよ」

 直後、男が勢いよく殴りかかってきた。拳が空気を切る音が確かに聞こえた。ジョンは反射的になんとか椅子から後ろ向きに立ち上がり。拳はジョンのデスクを破壊した。鉄製のオフィスデスクは大きく歪み、金具が飛散する。
「嘘だろオイ」
 男はジョンを確実に捕捉しており、今度は怒号を上げながらつかみかかってきた。避けようとしたが胸ぐらを掴まれ、じっと顔を直視され、直後投げ飛ばされた。
 目の前に起きる狂気の沙汰に頭が追いつかない。

 その男の目は血走っており、ついに引き連れていた猫も威嚇を始めた。ヴァーオだとかウーだとか唸り声を発し、睨みつけている。背中を丸め、尾を膨らませ、四肢を地面につけ、前傾の臨戦体制をとっている。
「何なんだ、これはあ!」
 全くの気持ち悪さに耐えきれず、急いで部屋から出ようとした。すると猫が素早く追ってくる。慌てて部屋の外に脱出し、扉を閉め鍵をかけた。扉の向こうから男の叫び声と猫の威嚇声が聞こえてくる。
 息を呑んで扉に耳を当てる。中ではあの映像の音楽が響く中、男が発狂しデスクなどを破壊する轟音、猫たちが叫び扉を攻撃する音が聞こえた。

「くそう、アレクとマイケルにに連絡しないと、」

(25分後)

 アレックスとマイケルがオフィスの前に駆けつける。悪夢を見たような顔をするジョンにアレックスが声をかける。ただ事ではないとはっきりわかった。
「どうしたジョン。いったい何があった」
「大変なんだ、酔っ払いだか、薬でイかれたのか知らないけど、猫を引き連れた男が僕らのオフィスで暴れてる。イカれてるよ、部屋のものはぐちゃぐちゃにされちまってる」
「猫って、まさか、あの映像を送り込んだ犯人じゃないのか」
「いや、どうかな、どう見たってサイバー犯罪をするようなインテリには見えなかった。どっちかって言うと脳筋のバカみたいなやつだったよ」
「じゃあ、昨日の猫の飼い主じゃないのか、話はしたのか」
「話なんかできるわけないだろ、殺される寸前だったんだぞ。飼い主だって?1匹くらいでやりすぎだろ」

「それより今すぐ止めに行こう」
 マイケルが男を止めに、部屋へ向かおうとした。
「待てマイケル、冷静になれ。奴はマトモじゃない」
「俺は警官だった時、マトモじゃない阿呆どもを豚箱にぶち込んでやってきたんだ。男と猫がいるだけなんだろ?任せろよ」
「よく聞くんだマイケル、あいつは殴っただけで机を破壊したんだ。鉄製の机をぐちゃぐちゃにしたんだぞ。いくらなんでもそんな犯罪者にはあったことないだろ」
「じゃあどうするってんだ、あそこには重要な書類もあるんだろ」
「確かに。僕らの調査データだけでも守らないと」

 そこへひどく怪我をした警備員がやってきて彼らの前に倒れ込んだ。
「うおぉぉ、、」
「おい、大丈夫か。あんたここの警備員じゃあないか。何があった!」
「男に腹を殴られて、そいつの飼い猫に、腕を噛みちぎられた、、、うう、、」
「病院に運ぼう」

 アレックスたちはタクシーを呼び警備委員を近くの診療所まで送ってもらった。

「そういうわけだ。とにかくやばいことが起きてる。どうする?」
「警察を呼ぶか」
「いいや、薬中一人だろ?まず俺たちで現行犯での逮捕を試みよう」

 3人は倉庫からヘルメットと細長い鉄パイプを準備した。日頃パソコンの画面にただ向き合うのを生業としている彼らにとって新鮮な出来事ではあったが、武器を直接戦う経験などないアレックスやジョンはかなり緊張した。まるでDEFCON1が発せられたような感覚である。
 
 部屋の前に行くと、ヘルメットを被り、パイプをしっかり握り締め、部屋の奪還に臨む。滑稽な光景だが、彼らにとっては立派な装備だ。

「じゃあ俺が前に出て、男をやる。」
「任せたマイケル。俺はマイケルの隣に着くから、ジョンは後ろを守ってくれ」
「ああわかったよ」

「よし、じゃあ、入るぞ」
 ドアの鍵を開ける。

「マジかよ、これ」
 部屋のあらゆる物品が破壊し尽くされていた。金属製の備品が引き裂かれたり捻じ曲げられている。
 
 男と猫たちがこちらを睨む。男は部屋の奥にあるジョンのデスクの残骸の付近で彷徨いていた。数台のパソコンからはあの映像が流されたままであった。奇妙な面白い映像だったが、今となっては気味の悪い背景音楽としてその音声を部屋に響き渡らせている。
 その男の筋肉は少し膨れ上がり、目は血走り、口からは低く唸る声が漏れ、狂気に満ちていた。彼の腕は太く、鉄のように硬く、力が漲っていた。怒り狂っていた。壁に拳を叩きつけ、その力で壁がひび割れた。床に転がる備品を蹴り飛ばし、神経と筋肉が戦闘の準備をする。

 マイケルが先頭に立ち、冷静に指示を出す。
 「アレックス、右側につけ。ジョンは背後に注意してくれよ。」

 マイケルは男の方へと向かい、アレックスは正面から襲ってきた猫を鉄パイプで払いのける。
 猫たちは鋭い爪をたてて、驚異的な速さで飛びかかった。一度に複数の猫が襲いかかる光景は、まるで恐ろしい悪夢のようだ。彼らは壁を駆け上り、天井から飛び降り、あらゆる角度から容赦なく襲撃を仕掛ける。
 
 さらに続けて、前から勢いよく走り、飛びかかってくる猫をマイケルが蹴り上げる。
「クソったれが、何が動物愛護法だ!」
「やるじゃないか、警官時代を思い出したのか」
「冗談じゃない、こんなのは初めてだよ」

「危ない!気をつけろお。野郎、フルスイングを食いやがれ!」
 アレックスの背後を狙い、左の机の上から奇襲をかける猫をジョンが打ち飛ばす。ふぎゃああ!と鳴声を上げながら猫が吹っ飛んでいく。

「お前もな、後ろだ!」
 書類だなの陰に隠れ、ジョンに狙いをつけていた猫に向かって、アレックスがパイプを投げつける。
「助かったよアレク」

「あとはお前だ、クソ野郎。落ち着けば危害は加えない、警察を呼んで終わりだ」
マイケルが男を制止しようとする。

 一方、男は冷静で、ゆっくりと歩きながら、しかし怒りを眼中に映しこちらへ接近する。
「おい!それ以上近づくな!」

 あと数メートルのところまで近づいてくると、いきなり雄叫びをあげその強靭な拳を上げて暴風のように突進してきた。
「くそっ、冗談だろ、こいつどうかしてるぞ」
「だから言ったろ、おかしいんだよ!」
 マイケルは瞬時に判断、鉄パイプを構えて防御態勢を取る。男の拳がパイプに当たり、ギーンという金属音が響いた。
「おい、こいつの体どうなってんだよ」

「アレックス、ジョン、囲め!」
 マイケルが叫ぶ。
 アレックスとジョンはすぐに反応し、男を囲むように動く。男は怒り狂い、力任せに拳を振るうが、三人は連携してその攻撃をうまくかわす。奮った拳はステンレス製の業務用棚を直撃、棚の板を引き裂いた。この世の生き物とは思えない動きに息を呑んだ。
 
 男の攻撃が一瞬の隙を見せたその瞬間、マイケルが動いた。彼は鉄パイプを槍のように握りしめ、全力で男に突撃。パイプの先端が首に突き刺さり、鋭い音と共に、男の動きが止まった。男は怒りとは苦痛の表情を浮かべ、力を失い、ゆっくりと崩れ落ちた。なんとその男を殺してしまったのだ。
 マイケルは息を切らしながらも、鉄パイプをしっかりと握り続けていた。男の身体が床に倒れ込むと、部屋にはようやく静寂が訪れた。

「おいおい、殺っちまったぞ、どうすんだよ!」
「しょうがねえだろ、こいつのせいだ」
「これは、正当防衛、でいいのか、、?」
「警察が判断することだ、とにかく通報しよう」

 男の遺体と、猫の死体が散らかるオフィス。カオスと形容するにふさわしい状況だ。人を殺してしまったことに対する責任よりも、一人の男と数匹の猫との戦闘という混沌たる状況をなんとか把握することで彼らの頭は精一杯だった、

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ワシントンD.C. デュポンサークル
スワンストリートNW
アレックスの自宅
08:30 PM

 ソフィアは悲しげに机の上に残された料理を眺める。
「パパ行っちゃったね」
「ほんと家族のこと考えないんだから」
「でもちょっとは一緒にご飯は食べれたから今日は許してあげよ、ね?ママも」
「昨日はあれだけ怒ってたのに、あなたは本当に優しい子ね」
 
 ゼラは何度かアレックスに電話を掛けたが繋がらなかった。
 
 この状況、誰が悪だというわけでもないが、自身の期待と現実に大きな食い違いが生じているという事実に対し妻は大きな不快感を感じている。今の世の多く家庭で常にある問題がここでも起きているのだ。
 
 大きく見ると家庭内でのストレスの問題だ。
 不快感やストレスは、脳内の視床下部-下垂体-副腎系を刺激し、コルチゾールと呼ばれるホルモンの分泌を促す。これは体がストレス負荷に対応する準備を整えてくれるが、コルチゾール値が高い状態にあると免疫系が抑制され感染症などに対する抵抗力が低下してしまうのだ。また、ストレスは交感神経系を活性化させ、心拍数や血圧の上昇を引き起こす。これは、高血圧症、心情病、脳卒中のリスクを上げるのだ。そのほかにもライフスタイルへの悪影響や精神疾患にも繋がりうる。
 実際、人間関係がうまくいっていない家庭では、疫病感染の可能性や心臓病などのリスク、うつ病の発症率が大きいという研究結果が示されている。
 現代社会の複雑さがもたらした病気とも言える

 ゼラの元に電話がかかってきた
「今更かけてきたわ。もしもし、ゼラよ、どうしたの。ええ!?警察の方ですか、主人が何かしたんです?」
「詳しいことはこれから事情聴取しますが男性1名を殺害、そのほかに動物を無惨に殺してますね」
「ちょっと、それ本当?そんなことする人じゃ」
「とにかく、しばらくの間彼の身柄はこちらで預かりますので、」

「全く、問題しか起こさないじゃない!」
ソフィアが気になって聞く。
「ねえ、何があったの?」
父親が人を殺した容疑にかけられたとはなかなか言えない。
「街の安全に関わることで呼び出されたみたいね、しばらくは会えないそうよ」

 ゼラは怒りや絶望というより、すでに呆れを感じていた。夫が家族との時間を捨てた上に、何をしでかしたのかわからないが殺人の容疑で逮捕されたのだ。無理はない。彼女の中には、関係改善への期待よりも、夫の行動に対する不信の方が大きく募っていた。
 
 ソフィアは哀感の目で窓の方を見つめている。
「すぐまた会えるかな」
 
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ワシントンD.C. ウェストエンド
15番ストリートNW
NSAコロンビア特別区支部
09:00 PM 

 アレックスたちは警官に拘束され、取り調べを受けていた。手錠をかけられ、どうしてこうなってしまったのかと心の中で繰り返す。よくよく考えればあの男を殺すまでしなくても良かったのではないかと後悔の念が込み上げる。
 アレックスが最も懸念しているのは、当然家族のことであった。この事件でさらに疎遠になるかもしれないのだ。やっと夕食を共にできると思ったら、呼び出され、よくわからない修羅場に遭遇した挙句、人殺しと思われるような事に加担したのだ。彼の人生的に見れば悪い状況をなんとか維持していたのに、さらに悪化してしまったのである。
 マイケルやジョンも、改めて顧みると、少々やりすぎたか、いや当然ああするべきだったと思考を巡らせていた。 
 しかし、さらに言えば、あの大暴れは、3人にとって日頃の物足りなさに少し彩りを添えるものとして、一瞬彼らを楽しませていたのも事実であり、今の状況にもほんの少し納得していた。だがやはり到底容認できない。

 すでに被疑者は拘束されており、周囲を見張る警官たちは、やる気もなく無駄話を始めていた。
「なあ、今日は変な事件が多くないか」
「そうだな、さっき病院の駐車場で車を破壊した野郎がいたってな。我らが合衆国の権威FBIの捜査官がボコボコにされたそうだ。いい気味だぜ」
「聞いたか、アナコスティアの倉庫で動物に食い殺された奴がいたらしい。遺体は酷い有様だってさ」
「マジかよ、俺たちの担当地区じゃなくてよかったな」
「2日後は独立記念日だ。もっと忙しくなるぞ。気を引き締めよう」

 担当の警官がアレックスたちに事情を聞く。
「それで、その男が襲ってきたから、あんたらは鉄パイプで殺したってわけか。部屋がめちゃくちゃにされて怒るのはわかるが、やりすぎじゃないか。別に相手は銃や凶器を持ってたわけじゃないんだろ?でもそっちは3人で武器も持ってた。生きたまま捕縛できただろ。」
「ちゃんと話を聞いてくれ、あいつは化け物なんだよ」
「化け物みたいな奴はいるさ、俺たちは毎日見てる。それに今の状況だとお前らも十分おかしいぞ。猫を殺戮したのはどう説明する、あいつらも襲ってきたっていうのか」
 いくら説明しても理解してもらえないことに苛立ちが募る。しかし自分たちもまた、あの衝撃的な状況に整理がついていなかった。

 搬送の準備が整ったことを女の警官が伝えにきた。
「とにかく署まで同行してもらうわ、写真撮影、指紋採取それからちゃんとした事情聴取も受け、って、マイケルじゃない!一体どうしたのよ」
「おいおい、ルーシーじゃねえか。よお、その階級章、昇進したのか、」
「そうよ、とは言っても上には上がいるけどね。あんたこそ何してんのよ。毎日が平和すぎてついにイかれたの?」
「誤解だ、俺たちは何も悪くないんだよ」
「いいから、車に乗って、わかってるでしょ?正式な手順は踏んでもらうわ。」

 アレックスたちはルーシーの運転するパトカーに乗せられた。

「記念日が近いでしょ、こっちも人手が足りないの、3日くらい留置所で過ごすことになるかもしれないけど覚悟して。本部へ、聞こえますか、こちらユニット11。これより被疑者3名を第2地区警察署に連行します」
「了解、ユニット11。到着次第再度報告せよ」
 
 マイケルが念を押す。
「おい、ルーシー、ちゃんと監視カメラを見て捜査してくれよ」
「残念だがマイケル、俺たちのオフィスに監視カメラはないんだ」

 正当防衛だったことを自分たちだけしか知らない。この時、無罪を証明するには"合理的な疑いを超える証明"が必要となる。あの現場を見れば、明らかに部屋を破壊したのは鉄パイプを持った3人で、その3人が男をリンチしたというのが、まず妥当な判断だろう。それが合理的な疑いだ。
 しかしこの世の中、想像もしない奇妙なこと起こる。合理的事象から逸脱したようなことだ。もしかすると男を殺すだけの理由があったのかもしれない。それを証明するために科学捜査や詳細な聞き込みなどが実施されるのだ。
 しかし問題はそれら自体が基本的には合理の上に成り立っているということだ。であるから、そもそも既存の科学や常識の範疇を超えるようなことは起こらないと判断してしまうことが多数なのだ。結果、結局"合理的な疑いを超える証明"をするのは極めて難しい。
 
 なすすべもなく、3人は警察署に連行されてしまった。

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ワシントンD.C. フォギーボトム
25番ストリートNW
CDCワシントン生化学研究所
10:20 PM

 アダムの一行はリサの研究室で、彼女が持ち帰ったサンプルを検査していた。
 科学に携わる者にとって、サンプルの調査というのは、再現性と信頼性の確保に不可欠となる。なんらかの病原体がピーターを変えてしまったという彼らの仮説を証明するためには、そのウイルスが一定の条件下で同じ症状を引き起こすという再現性、また、誰がみても一貫したデータを元に示されたという信頼性が必要なのだ。
 サンプルが手に入れば、あとは解決させて終了というわけにいかない。そこからが始まりなのである。
 さらに、彼らの仮説でいう病原体と思われるものもまだ直接確認したというわけではないのだから、今の状況は仮説検証は愚か、それ以前の情報収集の段階である。
 
「ねえ、もう一回確認するんだけど、あの車破壊したの、ほんとにピーターなの?」
「確かだ。はっきりと見た。あれは彼だ。だが以前のピーターじゃない。僕らの仮説だが、何かしらのウイルスが、彼をおかしくしたっていうことだよな?そんなことあり得るのか?」
「ウイルスで人が攻撃的になるって例はいくつか報告されてるわ、狂犬病とか聞いたことあるでしょ。まあ車を破壊するほど凶暴になるなんてことはないわね。ウイルスじゃないけどプリオン病とかもそうよ。伝染性で、脳をスポンジみたいにするの、細胞を破壊して。その過程で精神や認知機能がおかしくなって、人を攻撃したりすることはあるわ。稀だけどね」
「脳みそが侵されるのか。ああ、神に祈るべきかな」
「流石のFBI捜査官でも祈りたくなった?」

 スライドガラスの上に置かれたサンプルを慎重に光学顕微鏡にセットする。接眼レンズに目を当て調節の部を回し、焦点を調整する。じっと凝視した。
 しかし、これといって目立ったものは映らない。
「んん、、何も見えないわね」
「どういうことだ、ウイルス学者の君でもお手上げか」
「まあ落ち着いて、光学顕微鏡で見えないなんてよくあるわ。小手調べよ。そのために電子顕微鏡もPCR検査機も用意したわ」

 リサはサーマルサイクラーや電気泳動装置を取り出して、準備した。
「ねえ、PCRってなんなの?名前しか聞いたことないんだけど」
 メアリーも話に入ってくる。
「ポリメラーゼ連鎖反応の略ね。ターゲットのDNAの二本の鎖を熱で一本に解離させるの。少し温度を下げるとプライマーがその一本に結合、そこからDNAポリメラーゼがターゲットのDNAを連鎖的に複製、増幅させてくれるのよ。増幅すれば検出しやすくなるでしょ。おわかり?」
「ああ、全然わからないんだけど、とにかく数が増えて見つけやすくなるってことね」
「そうよ、数時間はかかるわね、待ちましょう」
 試料や緩衝液などでできた混合物をサーマルサイクラーのチューブにいれ、検査が開始された。

「ところでさ、細菌博士なんでしょ?なんのウイルスを研究してんの」
「今はウェストナイル熱の研究を中心に活動してるわ。あの、あなたたちさっきから私のこと、ウイルス学者って呼んだり細菌博士って呼んでくれているけど、私の肩書きは分子生物学者よ。それからメアリー、細菌とウイルスを混同してるわね、細菌っていうのは単細胞の生物なの、でもウイルスっていうのは、」
「ああ、わかったって、世間話なんだから、マジになんないでよね。捜査官の方はどうなの?」
「猫を追ってたらこのザマだ。殺人事件の担当から外されてから碌なことがありゃしない。僕はピーターをおかしくさせたやつの正体を見つけ出して、さっさと滅却したいね。それで、そのPCRでわかるのかい、学者さん」
「残念だけど、絶対とは言い切れないわ。でも、我々が持ってる技術の中でもかなり高度なものよ。今は信頼しましょ」
 
 目に見えない病原体を特定するのはそう簡単じゃない。現在でこそ、抗原、抗体検査やPCRなどといったものがあるが、その存在を明らかにするため膨大な時間と労力が費やされてきたのだ。

 その歴史の始まりは1590年代まで遡る。オランダの眼鏡職人が複合顕微鏡を発明し、初めて微生物の観察が可能となったのだ。1665年、イギリスの科学者ロバート・フックが、自作の顕微鏡を使ってコルクを観察し、『ミクログラフィア』という書籍を発表、これが微生物学の起源であった。
 さらに17世紀、オランダのアントニー・ファン・レーウェンフックが単式顕微鏡を改良、細菌や原生動物を初めて観察することに成功した。しかし、ウイルスはこれらの顕微鏡では観察できないほど小さく、この時点で発見することはまだできなかった。
 そして1892年、ついにロシアの植物学者ドミトリ・イワノフスキーが、タバコモザイク病の原因が細菌フィルターを通過することを発見、これがウイルスの存在を示す最初の証拠の発見となったのだ。6年後、オランダの科学者マルティヌス・ベイエリンクが、イワノフスキーの発見を確認し、「ウイルス」という名前を与えたのだ。ウイルス学の始まりだ。
 それから約40年の時を経て、電子顕微鏡が発明された。これにより、1938年、タバコモザイクウイルスが初めて電子顕微鏡で観察された。画像化も可能になり、ウイルスが物理的に観察できるようになったのだ。

 しかしただ見えてるだけでは意味がない、病原菌に対処するための知識を得なければならない。構造を解析し、何が起きているのかを知る必要がある。
 1935年、アメリカの研究者ウェンデル・スタンリーがタバコモザイクウイルスの結晶化に成功、結晶化後も活性を失わず感染の能力を持つことを明らかにしたのだ。ウイルスの構造を明らかにする第一歩となった。また、結晶化された物質が複製や変異という生物的特徴を持っていたことから、ウイルスが生物か生物でないかの議論のきっかけにもなった。
 その後、X線回折パターンの解析などにより、ウイルスの遺伝物質を保護するための殻カプシドの内側がより詳細な形で判明していった。1970年代には多くのウイルスの3次元構造が明らかとなったのだ。
 それぞれのウイルスの構造情報から、免疫系が認識しやすい部分エピトープを特定し、ワクチンの開発も進んだ。免疫応答反応を引き起こさせ体内に抗体を生成させることで将来の感染に対する防御をもたらしてくれる。
 
 新たに生じたウイルスには、より生化学、遺伝学的な方法での解析も取り組まれた。現在ウイルスの遺伝子診断や研究に不可欠な技術であるPCRもその一例である。1983年にアメリカの生化学者キャリー・マリスが発明し、特定のDNA配列を指数関数的に増幅することを可能にしたのだ。ウイルスのDNAやRNAを迅速に増幅することで、微量のサンプルからでも検出ができる。1990年代以降技術はさらに進展、定量PCRなどの新しい方式が登場し、ウイルスの定量や遺伝子変異の検出がより正確に行えるようになりました。

 2000年以降は、クライオ電子顕微鏡法などの高度な技術も発展、さらに多くの検出法も確立され、ウイルスや細菌の構造を原子レベルで詳細に観察できるようになったのだ。

 いくつもの科学分野が立ち向かい、人類に戦略をもたらしてきた。思考と試行の継続が生み出した叡智である。
 しかし脅威はいまだに去っていない。数百年、いや数千年間ひたすらものを考え続けるこの動物は最後に勝利を掴むことができるのか。

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ワシントンD.C. フェデラルトライアングル
ペンシルベニアアベニューNW1350
市政庁舎ウィルソンビル
10:50 PM

 市庁舎では職員の多くは帰宅していたが、一部は残って業務を続けていた。建物の窓からは点在するオフィスの明かりが漏れ夜遅くまで働く職員の存在を感じさせる。
 大理石のロビーの先にそれぞれの部署のオフィスがあり、独立記念日の行事の最終チェックリストを仕上げる者、市民からの税収の状況をまとめる者、議会議事堂に提出する予算案や政策提案の修正をする者など、書類の山と格闘する姿があった。静かだが確かに電灯に照らされ仕事をこなしていく。
 
 市長室には重厚な木製のデスクと革張りの椅子が置かれ、市長のロバートはそこに座り議事録や制作提案書を確認したり、記念日のセレモニーで行うスピーチの原稿などに目を通していた。自らが率いる都市の有望な未来の指針となれるように自らの職務を全うしようとしていた。
 しかしやはり、連日の奇妙な事件のことが常に頭の片隅にあり、時折浮かない顔をして窓の外を何気なく眺め、物思いにふけっていた。
 
 秘書が市長のところへコーヒーを運ぶ。
「市長、休まなくていいんですか」
「ここ数日のことがどうしても気掛かりでね。警察本部からの連絡でね、さっきもNSAの支部で殺人事件が起きたそう。テロかわからんが、妙なことがここ数日で起きすぎてる。2日後も何か嫌な予感がする」
「ああ、ひどいことを。でも、気にしすぎですよ。良いことではないですけど、記念日が近づくと、気分が上がった市民や反政府団体が増えて、犯罪が起きやすくなる傾向はありますから。」
 だからと言って、心配なくなるわけではない。そもそも犯罪などは起きない方が良いのだから。しかし、人間社会である以上、幾分かは起きてしまう。仕方がない。ただ、よく耳にする、盗みや暴行とは異なる特殊性を持った事件ゆえに、懸念が大きくなるのだ。

 市長に就任して約3年半、今年が任期最後の年であった。世界最大の国家の首都の市政を任されるという職務を引き受けて以来、とにかく市民のために働いてきたつもりであった。特に、商業地区の再開発や、医療やIT関連の新興企業のスタートアップ支援、検疫の強化は彼の公約であり、しっかり果たしてきた政策であった。集団が衰弱しないための医療と未来の発展のためのIT技術を重要視していた。
 至らぬ点もあったが官民問わず慕われてきた男だ。

 しばらく作業を続けていると、秘書のスマホにメッセージが届いた。
「あらやだ、またなの」
「どうしたのかね」
「2日前に人事の方が熱を出して体調不良で早退したって、昨日は市民サービス課と住宅課の4人が熱で休んで、今日は公衆衛生課の2人が。そして今、環境保護課の1人から体調不良で明日は来れないって来まして。親しかったので」
「やはりだ、この街で何か悪いことが起きてる」
「数百の職員がいますから、そのうちの数名で大袈裟に捉えすぎですよ。この時期、熱中症とか食中毒はよく聞きますし、特段おかしなことでもないですよ」
 そう言われても市長の不安は収まらない。
「私たちはな、検疫や医療には特に財政を割いてきたつもりなんだ。その我々が病気になっては困る。君は大丈夫なのかね」
「私は健康には気を使ってますから。日頃の書類整理からうるさいマスコミの対応、ストレスの溜まった官僚たちの取次まで、嫌というほどいろんなことやってきたんですから、今更病気程度でビビりませんよ」
「心強いな。君を秘書にして正解だったよ。今はここは私の街だ。私がここにいる限り、テロだろうと疫病だろうと必ず防いでやるさ」

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バージニア州 シェナンドーバレー D.C.の南西約120km
シェナンドー国立公園
11:00 PM

 夜遅く、静寂に包まれた国立公園で、自然の大地の中に舗装された道路を一台の黒いSUVが進む。首都から遠く離れ、人もほとんどいない自然の闇の中へやってきたのは"ピューマ"であった。
 スカイラインドライブと呼ばれるこの道路は山腹を縫うように走り、壮大な自然景観を楽しむために設計されている。もちろん奴の目的は違う。
 木々を抜ける風が微かにざわめき、遠くでフクロウの鳴き声が響く。DCの喧騒とは真逆の、自然の閑静さがあたり一帯を囲む。数時間前から降り続いていた雷雨は止み、輝く月と共に満点の星空が広がっている。
 
 "ピューマ"は夜の闇に包まれた道路の片側に車を停めると、周囲を一瞥し、誰にも見られていないことを確認した。
 降車し、サングラス越しに周囲の暗闇を見回し、再度状況を確かめた後、車のトランクを開ける。中に入っていたのは頑丈な金属製のケースだった。

 彼女はケースのロックを手早く解除し、蓋を開く。中にはスティンガーミサイルのパーツが整然と収められていた。
 ミサイルの筒を取り出し、異常がないことを確かめると、赤外線シーカーを取り出し、筒の前端に取り付けた。そしてコネクタを差し込み、しっかりと固定されるまで押し込んだ。慣れた手つきだ。
 バッテリーパックを取り出し、筒の側面にあるポートに装着し、ディスプレイが点灯、目標の位置や移動情報が表示される。
 発射機のストックを肩にかけやすい位置に調整し、安全装置を確認する。トリガーがロックされていることを確かめると、ミサイルの筒を発射機に接続、ミサイルの後端を発射機の前端にしっかりと差し込み、ロックレバーを回して固定した。

 肩にかけ、いよいよ全ての準備が整うと、冷徹な眼差しでじっと狙いを定める。
 
 そして、ディスプレイが、目標を捕捉したことを示すと、発射トリガーを引きこう放った。
「Verpiss dich.(くたばれ、くそったれ)」

 ミサイルは激しい閃光と炎を吐きながら闇夜を切り裂き、急速に目標高度まで上昇していった。

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シェナンドーバレー上空 
11:30 PM

 ドイツより発したあの旅客機が、ようやくダレス国際空港へ着陸するところであった。
 「こちら管制塔、ジャーマンイーグル246へ、 現在の高度と位置を報告してください」
 「ダレス管制塔へ、こちらジャーマンイーグル246、現在、高度20000フィートでシェナンドー上空を巡行中。ダレス国際空港まで60マイル、これより着陸体制に入る。速度と進路を調整します。」
 「了解、ジャーマンイーグル246。降下を許可します。空港まで10マイル地点で再度報告してください。」

 夜の穏やかな高空を飛行していた旅客機で、パイロットらは長時間のフライトを無事に終えられることに安堵していた。乗客の多くは窓から見えるアメリカの大地に想いを馳せていた。遠く北東の方に首都DCが輝く。
 シートベルトサインがつき機内の照明が薄暗くなる。緊急出口付近の照明が一層目立つ。

 キャビンアナウンスが、着陸体制に入った旨を告げようとした時だった。突如、空を裂く轟音と共にミサイルが左エンジンに直撃、巨大な爆発音が響き渡り、機体の左翼の一部が破散した。乗客が悲鳴をあげ恐怖に飲まれる。緊急灯が点灯し、機内を不気味な光で照らす。

 パイロットと副操縦士が慌てて状況の確認を行う。
  「くそっ、なんだこれは!エンジン1に直撃!火災発生!推力喪失か、機体が右に傾いてるぞ!」
  「エンジン1が炎上、推力ロス確認。フェザリングを開始します!」
  「了解。エンジン2の推力を最大に。ダレス管制塔に緊急連絡を!」
 「ダレス管制塔、こちらジャーマンイーグル246、メーデー、メーデー。左エンジン火災、エマージェンシーランディングを要請。」
 「ああ、ちくしょう!だめだ、空港まで持たない、高度をできるだけ維持しつつ降下、最適な場所に緊急着陸する。」
 「了解、高度を維持。緊急着陸先を確認中。」

 乗客の騒ぎの中、ユリウスは一人、冷静な表情のうちに憤怒と悲嘆の念を込めて口を開ける。
 「奴らめ、不意打ちをかけおったな」

 隣に座っていたミハエルもじっとしていられない。アメリカではなく地獄に歓迎されてしまったかのような表情だ。
「おいおいどうしちまったんだよ、」
「こいつは不時着だな」
「なんでわかんだよ!」
「窓をみろ、当たったのはあのエンジンだけだ。奴らは直接その手で、このわしを殺したいんだ」
「あんた一体何者だよ」
「だから言ったろ、これは悪魔との戦いなんだ。気をつけろ。不時着するならあのあたりだろう。ベルトに締め付けられないようにな」

 翼から炎を吹く旅客機は激しく揺れながら急降下し、地上では"ピューマ"の目には冷酷な光が反射していた。
 
「じゃあ緊急着陸を行うぞ、あのあたりだ、いいな?」
 パイロットが着陸の目標を定めて、制御の効かない巨大な金属の塊を少しでも安定させ操ろうとする。
 窓の外、地上が近づく。エンジンの唸り声が不安定に響き、機体全体が激しく揺れる。耳孔と手先を通して心臓にジンジンと響くアラート音が不快感を煽る。乗務員が乗客に必要な手順などを指示する。
「衝撃に備えるんだ!頭を下げて!」

 機体が森林の木の上部と接触、ドンッ!という衝撃と共に、前へと投げ出される慣性が加わり、頭上のコンパートメントの一部から荷物飛び出す。
 座席ベルトが強く食い込み、一瞬呼吸が止まる。

 パイロットは祈りながら、覚悟を決める。
「神に祈っててくれよ」
 機体は木々を薙ぎ倒しながら前進、枝葉が機体に絡みつく。火花が散り、ガラスや金属が破損する音が静かな夜の森に響き渡る。

 数回にわたってに自然の固いカーペットに叩きつけられ、あらゆる箇所が損傷する。その後、徐々に速度を落とし、大地を削り取りながら、停止した。
 
 数分の激しい衝撃のあとで、幸にして機体を全壊させることなかった。優れた安全技術とパイロットの操縦が、なんとかうまく森林地帯へと飛行機を不時着させた。
 人間にとって最悪の事故であるが、削り破壊された木や地面を除けば、夜の大自然はただ沈黙しているだけだった。

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ワシントンD.C.
ペンシルベニア大通りNW1600
ホワイトハウス
11:50 PM

 夜のナショナル・モールではワシントン記念塔の白い石が、夜空に浮かぶように輝き、リンカーン記念館の荘厳な姿が静かに立ち上がっている。周囲の博物館や記念碑も、夜間の照明によってその歴史と存在感を示している。
 その北に位置するホワイトハウスは闇の中、静かな厳格さを放っている。ライトアップされたファサードが、夜空に浮かぶように輝き、周囲では、常に警備が行われ、警察の車両が通り過ぎる音だけが夜の静寂を破っていた。

 しかしその内部では、この静けさとは打って変わって、緊迫した雰囲気が漂っていた。西翼の会議室ルーズベルトルームには、大統領、副大統領、国家安全保障顧問、その他主要スタッフが集待っている。会議室のテーブルの上には最新の状況報告書や通信機器が整然と並べられている。
 旅客機が管制塔のレーダーからロストしたという報告が早くも伝えられていた。

 大統領は椅子に座り、神経質な手つきで資料に目を通している。彼の目の前には、国家安全保障顧問が緊急報告を行っており、スクリーンにはシェナンドー国立公園の衛生画像や地図が映し出されている。

「全く、こんな時間にどういうことかね。明日、あと10分で7月3日だ。そしてその次は独立記念日なんだぞ。最も事故や事件に警戒すべき時に何をしとるんだね。で、現状はどうなんだ、これはテロなのか」
「現地の詳細な情報は現在確認中です、大統領。全力で対応を進めていますが、NSA、CIAからの現段階の評価としてはテロの可能性は低いと。身内が起こしたテロならわかりませんが、それは考えにくいです。今は事故と判断するのが良いかと思われます」

 副大統領も同様に集中し、資料を読み進める。
「しかし大統領の言う通り、この時期にこんなことがあったということになれば、支持率や政治的保身に関わってくる。ドイツからの旅客機だ。マスコミと陰謀論者はしつこく騒ぎ立てるだろうな。救助活動もマスコミ対応も迅速にやらないと、また支持が落ちる。こういう時支援してくれる企業を増やしておいた方が良かったかもな」
「皮肉かね。近頃、君は何かにつけて私を批判してくるが、我々は今の体制でやっていくだけの十分な基盤を持っているよ」
「それはどうかな、私は盤石とは思わん。まあ、何にしろテロじゃないなら良かった」

 ここ最近大統領と副大統領の仲は悪化していた。数ヶ月前、社会保障と企業支援についての政策立案で意見対立があって以降、口論する場面が何度か見受けられた。
 
 非常事態において、このような関係は一層状況を悪化させる。特に政府内の人間の対立は多数の死者を出すことにつながる。事故や災害においては政府の対応次第で救われたはずの命が多くあるのだ。どうしようもない不運で亡くなった命ではなく、マニュアル通り適当にやっておけば救われるはずの命である。死にいたる直接の原因が災害や事故ではなく、政治を司る人間のくだらない揉め事による対応の遅れという何とも悲劇的なことがしばしばあるのだ。
 2005年8月末、アメリカ南部をハリケーン・カトリーナが襲った。救難対応の遅れにより約1800人もの死者を出すことになった。車を持たない貧しい黒人世帯は市内に取り残され、強盗や殺人が多発、食糧不足も生じ、避難所での衛生、栄養管理もずさんになっていた。
 対応の遅れの原因の一つされるのは、政治家の利害関係である。時の共和党政府を率いるブッシュ政権が民主党を支持するルイジアナ州政府に対して支援を遅らせ、政治的優位性を保とうとしたと指摘されている。イラクに兵を派遣した影響で連邦緊急事態管理庁を削減してしまったことも被害拡大の原因とされ、ブッシュは「兵士は十分にいる」と反論したことで、支持率の急激な低下につながった。

 悪例が起こるたびに制度や組織の再編が行われてきたが、未だ多くの場で政治的な人間の争いが物事の進行を妨げている。

 大統領らは、急ぎ今後の対応についての各組織への指示、計画実行案の作成に取り掛かった。

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2028年7月3日 月曜日
バージニア州 シェナンドーバレー
シェナンドー国立公園
12:00 AM

 不時着した旅客機の機内では、何とか一命を取り留めたものの未だ恐怖に怯える乗客たちが、緊張と混乱に包まれていた。「早くここから出してくれ」と叫ぶ者や予定が狂ってしまいCAにクレームを入れ怒鳴る者、恐ろしさに泣き喚く者などでいっぱいだった。
 ミハエルもこの信じ難い状況を前にして動揺していた。
「おい、爺さん。ここは地獄か、それとも俺はまだ生きてるのか」
「生きているよ。大丈夫だ」

 機内に焦げ臭い匂いが漂い、酸素マスクがぶら下がり、緊急灯が薄暗く点滅している。怪我人は何人か見当たるが、不幸中の幸いか死人は見当たらない。
 
 乗務員は慌てつつも冷静に呼びかける。
「速やに機外へ退避してください」
 緊急脱出口が開かれ乗客は次々と脱出する。脱出した先で乗務員がリストを元に乗客をまとめていた。
「現在警察と消防のレスキューがこちらに向かっております。皆さんの安全のため、この場に留まってください。指示があるまで離れないでください」

 ミハエルは他の者が生存しているのを確認して、改めて安心した。
「みんな生きてるみたいだ、よかったぜ。救助隊も来るってよ。見ろよ俺のギターも無事だぜ。にしてもこんな森の中で待つのかよ。」
「わしはすぐにこの場所を離れる、ここにいてはいかん」
「おい爺さん、レスキュー隊待とうぜ。そのほうが安全だろ」
「いや、わしはここを去る。迷惑をかけたな。音楽頑張ってくれたまえ」

 ユリウスは歩いて去っていってしまった。

 不時着した旅客機は主翼が大きく折れ曲がり、エンジンカウルが完全に破損していた。スポイラーの一部が吹き飛ばされ、ウィングレットは原型を留めていない。塗装は剥げて、草や泥が至る所に付着している。翼の先に取り付けられた航空灯が点滅していた。死ぬ前に最後の力を振り酢ぼるようであった。が、数分もしないうちに完全に切れてしまった。
 
 事態の深刻さにしばらく圧倒され唖然としていたが、ミハエルはもう一人のバンドメンバーが乗っていたことを思い出し、探しにいった。同じ志を持ってアメリカに来た仲間である。
 
 慌てふためく乗客の中に彼女を見つける。
「おいレナ!大丈夫か」
「あんた、生きてたの!やるじゃない、死んだかと思ったよ。」
 レナ・ヴォルターはミハイルと同じバンドに所属する女である。彼がアメリカで一山当てようと言い出した時、唯一その考えに賛同してついてきた同志であった。

「ここで救助待ちましょ。今日は散々ね、クソッタレだわ」
「いや、それが、隣に座ってた爺さんが気になるんだ。そいつが一人でどっか行こうとしてるんだ」
 ミハエルは仲間の心配もあったが、その安全を知ると、やはりあの老人のことが気になった。墜落時の冷静さやこれまでの言動からただものではない感じがしていた。
「ええ?ほっときゃいいじゃない」
「どうしても気になる。ありゃなんか凄そうな感じがするんだ。」
「ねえ!ちょっとどこいくの」
「見てくるだけだ!」

 ミハエルもユリウスが去っていった方へ行ってしまった。

(30分後) 
 遠くにヘリコプターの低いローター音が徐々に近づいてきた。深夜の闇の中、救難ヘリの点滅する赤いライトにより、はっきりとそのシルエットが浮かぶ。多くの者がその音に安心した。
 
 そこに"ピューマ"がやってきた。乗客をまとめる乗務員の元へ駆けつける。
「FBのI捜査官です。大変でしたね」
「捜査官?救助隊は」
「見える?あのヘリよ」
 彼女は上を指さして言った。

 続けて、ある男の写真を見せて尋ねた。
「この男がどこにいるかわかります?名前はユリウス・ハーゲンよ」
「乗客リストを確認するわ、あの、ちょっと待って。ええと、いたわ、B22に座ってた方ね。でも残念なことに、確認が取れてないの。もしかしたら不時着の時に、でも非常口から全員出たはずよ、私パニックになっちゃって、どうしたらいいの、」
「心配しないで、私が探すわ。あなたはあの救助隊の指示に従って」

 ピューマは乗客の要救助者の人混みの中、ユリウスを探す。獲物を探しに来た野生動物のようである。
 森の奥の方を見つめるレナを捉えた。何かに勘付いたのかゆっくりと近づいてくる。
「ねえ、そこのあなた、この老人を見なかった?」
「ああ、見てないけど、そいつなら向こうに行ったよ、多分ね。ミハエルといるわ」
「ミハエル?」
「私のバンド仲間よ、どうして?うちらの曲知ってんの?」

 ピューマは何も言わず森の奥の方へ向かっていった。
「ちょっと、無視はないでしょ。てかみんなしてなんでそっち行くのよ」

 ピューマは通信機を取り出して閣下に伝えた。
「墜落現場にはもういなかったわ。彼が座っていた座席はBの22よ。私はこのままやつを追う。」
「わかった。だが気をつけろ。あのしぶとい老耄のことだ、返り討ちに合わんようにな」
「必ず仕留めるわ。それから、無名の音楽活動家が一緒にいるようだけど」
「始末しろ。奴と関わった奴は全員消せ。いいな」
「了解」

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ワシントンD.C. マクリーンガーデンズ
アイダホアベニューNW3320
第2地区警察署
01:30 PM
 
 警察署の建物は、夜の闇の中に重厚な存在感を浮かび上がらせていた。赤煉瓦とガラスが調和した現代的なデザインと実用性を備えた構造を見せている。入り口のガラスドアの上にに、"METROPOLITAN POLICE DEPARTMENT"の文字が大きく取り付けられていた。周囲には数台の警察車両が整然と並び、事件の処理に追われる警察官らが出ては入ったりしていた。
 一方で上階の窓から外を眺めると、数ブロック先に壮大に聳え立つワシントン大聖堂の尖塔が見える。周辺の照明によりゴシック様式の塔が夜空に浮かび上がり、石造りの壁がぼんやりと輝いて見える。その偉大さは周囲を圧倒する。警察署のシンプルで硬い外観とは対照的に、幻想的で開放的な大聖堂が夜の静寂に一層際立つ。窓際に立つ警察官にこの街の歴史と誇りを感じさせていた。

 察署内の勾留室で、アレックスたちは他の犯罪容疑者らと共に留められていた。
 鉄格子越しにルーシーに嘆願する。
「頼む、1回妻に電話させてくれ」
「だめよ」
「ほんとにあんたたちはちゃんと調べてるのか。俺たちは正常だ。あれは正当防衛だったんだよ」
「ええ、ちゃんと捜査してるわ、まだ詳細な検視は終わってないけど、私たちが見た限りだと彼は身体的には普通の男だったわ。彼が何をしたのかは別にして、あなたたちが凶器でその男を無惨に殺害したのもわかってる。それで猫を何匹か殺してるわね。裁判所で守ってくれる弁護士をちゃんと探すことね」  

 同じ勾留室で隣に座っていた別の男が野次を入れてくる。
「あんたら酷いことするな。頭おかしいんじゃないか」
 何もわかっていない人間が横から口出ししてくることほど鬱陶しいものはない
「ただの犯罪者は黙ってろ」
 怒鳴って鉄格子を蹴り付けた。ろくに自分の言い分を聞かない連中に腹が立つ。無実の容疑にかけられると暴力的になるのは理性を司る前頭前野が抑制されるからだ。不安やストレス状態の中で、本能は何者かと戦う準備をする。その時に複雑に考えている余裕はないのだから前頭前野の働きを抑制するように脳が動くのだ。

 ジョンは勾留室に入れられて以来、しばし考え事をしていた。あの部屋で起きていたおかしなことを頭の中で整理し自分なりの結論を出そうとしていたのだ。
「なあアレク、マイケル」
「どうした」
「ちょっと気になることがあるんだ。僕はあいつが部屋に来るまで、猫の映像を調べてた。3台のパソコンで音声と動画を調査してたんだ。部屋から出る時もその映像を流しっぱなしで逃げた」
「それで」
「あいつは部屋を破壊しまくってたろ。でも僕らが部屋に突入した時、その3台だけは無事だった。あの映像には何か秘密があると思うんだ」
「そうだな、何かを伝えてる、そう言ってたな」
「僕は初め、人間に聞こえない音と見えない光を使って、新しいやり方で、諜報員みたいなのが暗号伝達を行ってると思ったんだ。だけど今もう一つの疑いを持ってる。思い出してくれ、最初に猫が迷い込んできた時もあの映像を流してたよな。あそこから出る光と音が人間や動物をおかしくしてるのかもしれない。僕は医学者じゃない、詳しいことは知らないけどそういう疑いを持ってる」
「でもそれなら俺たちもおかしくなってるはずだよな」
「きっと、一定の条件のもとであの映像を見るとイかれちまうんだ。あくまで僕の推測だ。あの調査データを返してもらえれば」

 アレックスは度重なる不幸にかなり苛立っていた。
「その前にまずここから出ないと、おいマイケル、このクソ警察の城を脱走する方法はないのか」
「知るわけないだろ、そんなもの、諦めて裁判だな」
 だがそんな簡単に受け入れられるはずがない。
「家に止まっておくべきだったのかも」
「僕が呼び出したせいで、本当にすまない」
「いいや、いいんだ。妻と娘のそばにいない選択をした罰が下ったんだ、きっと」
「ジョンもアレクも、そう気を落とすことはねえよ。そこにいる犯罪者に比べれば、俺たちは善人だよ」

 警察署の受付に、スーツを着た怪しげな男が歩いてきた。スキンヘッドでサングラスの男。"ジャガー"だ。警察署のロビーに無言で歩いてくる。精密なマシーンのように姿勢、表情を一切変えず、妙な薄気味悪さと冷徹さを漂わせていた。変な奴が来たことを煩わしく思いながら、受付の警官がため息をついて対応する。
「誰です?こんな夜中に」
「CIAの分析官です」
「CIA?なんで」
「数時間前にここに連行された奴らに話が聞きたい。身分証もある」
「明日じゃダメなのか。ああ、わかったよ、これが資料だ。廊下の壁に勾留室の場所が書いてある。ほら行けよ」

 勾留エリアに"ジャガー"が入ってきた。ルーシーに軽く会釈をして、ネクタイを整え襟を正しながら近づいてきた。アレックスたちが交流されてる牢の前まで行くと、じっと彼らを見つめて、数秒間よく観察してから口を開いた。
「君がアレクッス・スティールか、全く、サイバーセキュリティ担当官なんて立派な肩書を捨てるなんて、勿体無いやつだな」
「お前はなんだ、気味悪いぞ」
「男を殺したんだろ?どんな男だった」
「さっきから警察に説明してるよ。目が血走ってて、暴力的だった。僕らの言葉は通じずに向こうから攻撃してきたんだ。ああそれから、気のせいかもしれないが、引き連れた猫を自分の軍隊のように統制してたかもな。で、あんたも僕たちがイかれてると言いにきたのか」
 ジャガーは黙って頷いて、何かを考え、どういうわけか勝手に納得して返答した。
「そうか。ありがとう。無罪が証明できるといいな」

 ルーシーが"ジャガー"を見送った時、一通の無線が入った。
「第二地区警察署へ、こちらユニット40、WEクリニックから傷害事件発生の通報がありました。複数の負傷者が確認されているとのこと。応援要請します。オーバー」
「こちらユニット11、ルーシー・ブレイク巡査部長。応援要請を受領、至急向かいます、オーバー。WEクリニックで事件発生よ、急ぎましょ」
 彼女は数人の警官を連れて行ってしまった。

 アレックスが何かに気づいたように言う。
「おい、WEクリニックって、あの警備員を送った診療所じゃないか。くそう、猫だ。あの生き物が引き金になって何か悪いことが起きてるんだ」

 勾留エリアへつながる廊下の奥から警官たちの話し声が聞こえる。
「なあ、ここ最近ウェストエンドの方で野良猫よく見ないか」
「そうか?いつもと変わらんだろ。それより聞いたか、国立公園で飛行機が墜落したらしいぜ」
「マジかよそれ、明日独立記念日だぞ、大丈夫なのか。おい、テロだと思うか」
「さあね、だとしても政府は機体の整備ミスってことにするだろうよ。この大事な時期に国がちゃんと守れませんって言うわけにはいかないからな」

 せつない絶望がアレックスの心に深くのしかかる。仮にも国家安全保障省の職員として働いている目の前で、正体不明の何かに襲われ、人が死に、娘と母を守るどころか失望させ、挙句、殺人容疑で警察に捕まり、仕舞いには飛行機が墜落などと聞かされ、この世の終わりのような感覚に陥った。
「嘘だろ、何かが少しずつおかしくなってる。この街は病気のようなものに蝕まれてるんだ」

 勾留室の窓から月の光が差し込んでいた。絶望の中で希望を与える光か、邪悪な者に道を教える月影か。

 "ジャガー"は署を出て、そのまま裏手に停めておいた自分の車に戻った。
 助手席にはあの古びた本が載せられていた。古代エジプトの文字が書かれており、かなり大昔に作られたものだと言うことが伺える。状態は良く、丁寧に取り扱われてきたようだ。
 "ジャガー"はスマホを取り出し、閣下に電話をかけ、こう告げた。
「閣下、最初の段階は順調に進んだようです。引き続き作戦を続行します。」

 電話を切ると、古びた本に手を当てつぶやくように言った。
「あとは我々の軍隊をまとめる棟梁がいる。どうか頼むぞ」
 
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 一人の少女がどこだかわからない場所に立っていた。静かな墓地であった。夕暮れの柔らかな光が、周囲の墓石を静かに照らす。
 遠くには古代の街並みが広がっていた。来たことがないのに、それが古代の都市だとなんとなくわかった。周囲には低い丘や樹木が静かに佇んいる。

 付近で人が喋っている声が聞こえる。聞いたことのない言葉だ。でもなぜか理解できる。悲しいことがあったようだ。
 あたりを見渡すと、大きな男が穏やかな表情を浮かべ安らかに眠っていた。彼の体は、白い布に丁寧に包まれていた。最後の旅路に向けて準備が整えられている。

 優しい風に吹かれ、木々の葉がさわさわと音を立てる中、彼の周囲にいた人たちが、何人かの男が深い悲しみに暮れている。彼と親しかった人たちだろうか。彼らは丁重に葬儀を執り行う。

「ソクラテスよ、あなたが示した道徳の価値と徳を追求する姿勢は、私たちに深い知をもたらしました。また、あなたは魂の不滅を信じ、肉体の死を超えた存在について語ってくれました。あなたの考えが私たちの心に残り、私たちにとっての精神的な光となりますように。あなたの精神が永遠に安らかであることを祈ります。」

どうやら彼の名はソクラテスで、そこにいるのは弟子たちのようだ。

 遺体を収めるために掘られた穴の底には、柔らかな土と花が敷き詰められていた。墓穴の隣には、祭壇が設置され、神々への祈りのための香や花が置かれている。
 彼の遺体は慎重に墓穴に運ばれ、弟子たちと周囲に集まる。彼らは、涙を流しながらも、静かに遺体を見守り、その偉大な思想と教えを心に刻んでいるようだった。
 墓穴に収められた後、弟子は、静かに土をかぶせる。一杯一杯の土が、彼のの最後の安らぎを確かなものとするために、一層一層、丁寧に置かれていった。土が遺体を覆うにつれて、周囲の人は黙ってそれを見守り、彼の人生と教えに感謝の意を示す。
 墓が完全に埋められた後、弟子たちは最後の祈りを捧げ、魂が安らかであること、そしてソクラテスの教えが永遠に生き続けることを願った。夕暮れの光が墓地に降り注ぎ、静かで神聖な雰囲気が漂う。

 最後の別れの儀式を終え弟子たちは街の方へとゆっくり歩いて行った。

 夜が訪れ、星々が空に輝く中、少女も、ソクラテスの精神に静かに見守られているような気がして感慨深い気分になった。先人の精神が次の世代へと受け継がれていく。

 爽やかな夜の風に煽られていたのも束の間、突然当たりが暗くなり不穏な闇が周囲を襲った。

 足音が聞こえる、何かがこちらに近づいてくる。
 すぐに近くの木の影に隠れて様子を見た。

 やってきたのは不気味な姿をした化け物であった。人間のような体で、全身は黒く、ところどころに金や銀の装飾をつけた深く黒い衣服を見に纏っていた。よくわからなかったが、顔は人間ではなく猫ような生物の頭をしていた。
 それがソクラテスの墓に近づいてきたのだ。
 あまりの恐怖に涙が溢れた。

 その化け物が墓の前で何かを呟いている。人間の女の声をしていた。
「お前の魂は不滅ではない、今この私が破壊してやる。もはやただの屍だ」

 黒い霧が、生物の腐敗臭と共にあたりを包む。あまりの気持ち悪さに吐き気を催し嘔吐しそうになったがなんとか耐えていた。

 そのちょっと後で、さらに、また別の化け物が武器を持った男たちと現れた。それは剣のようなものを持っていて、金色の装飾が施された鎧を着ており、鷲か鷹のような頭で、これも体は人間のようであった。体つきは屈強な男性のような感じであった。

 猫の化け物と違い男の声であった。
「バステトよ、もう貴様の好きにはさせんぞ。お前を討つ」

「はあ、ホルスか。ちょうどいい、この哀れな哲学者と一緒に魂を潰してやる」

 武器が人間の体を傷つける鈍い音や傷つけられ苦しみながら唸る男の声が聞こえてくる。
 何かと何かがで戦っている。バステトというのもホルスというのも知らなかったが、なぜかどこかで知ったような感覚があった。

 人間の顔をしていない化け物の姿がとにかく気持ち悪く、周囲の腐敗臭もすごく少女はついに嘔吐してしまった。

 その猫の化け物が槍を構えた男に飛びかかり、短剣を勢いよく振りかざした。
 その男の首がちぎれ飛び、少女の方へ転がってきた。
 切られた断面から血が吹き出していた。舌を支えていた口腔内に繋がる筋肉が強烈な力により切断され、舌が口から垂れ下がり、顔面と頭部の血管の圧力変化と短剣の物理的な衝撃により片方の眼球が飛び出し、頬が潰れていた。
 よく見るとその切断面や傷口に、気味悪く蠢く物体が流れ出ていた。

 少女は大きな悲鳴をあげて、失神してしまった。

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ワシントンD.C. デュポンサークル
スワンストリートNW
アレックスの自宅
01:30 AM

「いやああああああ!」
 娘の叫び声に妻が駆けつける。
「ソフィー!どうしたの?大丈夫?」

 ソフィアは息を荒げて、若干の過呼吸になっていた。ひどく汗もかいていた。
「怖い夢でも見たのね」
 娘の頭を優しく撫でる。

 ソフィアは涙を流しながらゼラに言った。
「ママ、何かおかしなことが起きてるよ。パパにも会いたい。みんなで一緒にいたい」
「辛かったのね、ママがついてるから。ゆっくり、落ち着いて」

 悪夢は、睡眠中において脳の活動が活発な時、レム睡眠と呼ばれる段階において発生することがある。レム睡眠の段階で脳は感情や記憶の処理を行うが、それを実行する海馬や扁桃体が異常に活性化することで悪夢を見ることにつながるとされる。
 脳の部位に異常をきたす要因としては日中のストレスや、過去のトラウマ的経験からの心的外傷後ストレス障害、薬物やアルコールなどが考えられる。
 この9歳の子供の場合、家庭内でのストレスが大きな原因であると考えるのが妥当だろう。

 これまでにないほどに動揺し怖がる娘の姿に、母親も恐れを抱くが、それ以上に母性に基づく防衛反応が脳内で引き起こされる。コルチゾールとアドレナリンによる、闘争と逃走への準備が整い、子供を保護する行動をとる。
 水を飲ませたり、深呼吸をさせ、とにかく落ち着かせるように努めた。特に深呼吸は副交感神経系を活性化させ、ストレスホルモンの分泌を抑え、パニック状態の緩和に有効である。

 だいぶ落ち着いた後でゼラが優しく語りかける。
「ねえソフィ。今日、友達と歴史レポートの宿題やるって言ってたわよね。体調が悪いならやめる?」
「いや、やめない」
「わかったわ、じゃあ寝ましょう。まだ2時よ。近くについてるから」
 ただの悪夢を見た様子には思えなかった。あの恐怖と絶望を表した娘の顔がゼラの頭に残ってしまった。それと同時にこんな時にそばにいない夫への不信と、逆に家で共に過ごしたいという思いが大きく心の中を埋める。
 彼女のスマホにはニュースサイトが開かれており、そこにはDCのNSA支部で殺人事件が起きたことを伝える記事が表示されていた。容疑者の名は出ていなかったが、思い当たるのはアレックスのことであった。さらにその下に旅客機の不時着事故の欄が載っていた。立て続けに起きる悲劇的な出来事は人の心を陰鬱にさせる。

 それから数分してソフィアは再びベッドに就いた。不意にペットショップで購入したあの猫を思い出したのか、こう呟いた。
「早くあの猫に会いたいね」
 
 再びあの悪夢の世界に戻ると思うと怖くてしばらく眠れかったが、母親の腕に安心し、数十分もしないうちに深い眠りについた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
バージニア州 シェナンドーバレー
シェナンドー国立公園 
02:10 AM

 深夜の森の中で、月の光だけがあたりを照らし、静かに輝いている。
 暗い森でユリウスは先を急いでいた。シェナンドーでは危険な岩場や崖が多くあり、進行を阻む。歩いているすぐ横も急な崖があった。だが相手が追ってきているのは確かであった。自然の障壁以上に恐ろしい、人間の冷酷な部分を詰め合わせたような連中だ。慎重に迅速に進まなければならない。

 何かが走ってくる。ユリウスは足をとめ警戒した。周囲を見渡す。
 
「爺さん、おい、待ってくれ」
 やってきたのはミハエルだった。
「なんだ、君は。音楽はやめたのかね」
「あんたのことが気になったからさ。なんでそう一人で行きたがる。墜落の時のあの落ち着きようも。悪魔ってなんだよ、何と戦ってんだよ」
「言っても信じないだろ。それにここはギタリストの土俵じゃないぞ」
「そうふさぐなって、隣の座席に座った時から何かすごいオーラが出てたぞ。すごい陰謀を感じるんだよ」
「君は早く戻りたまえ」
 
 ユリウスが再び森を進もうとした時、突然、目の前の木の幹に静かなパチッという音が響く。銃弾が木にめり込む音だ。鉛玉が空気を貫く感覚も腕に伝わった。
 その音から追手の存在を察知し、即座にユリウスはミハエルを岩の影へ突き飛ばし、自分は近くの木に背をつけて張り付き、周囲を確認した。
「なんだあいつは一体、またトラブル発生かよ」
「ミハエル、クライン君、その場に身を伏せてろ。あいつはわしを狙っている」

 ユリウスを襲ってきたのは"ピューマ"であった。サングラスに取り付けられた赤外線カメラと暗視装置により相手の位置を探る。慎重にとユリウス達の方へ近づいてくる。

 ユリウスは月の明かりと足音頼りに、迫る敵の動きを探る。距離は約数十メートルか。

 "ピューマ"は注意深く周囲を見回す。すると、木の影からユリウスの手が出るの赤外線センサーで確認、その木に向かって発砲した。弾丸は木の左横をかすり、手の数センチ上を直進した。

 ユリウスは銃弾が飛んできた方へ発煙筒を投げた。急激な明度の上昇により、暗視装置が過度に反応、ピューマの目が眩み、数秒間視界が真っ白になる。

 そこへユリウスが体当たりを仕掛ける。"ピューマ"も相手が近づく音で位置を確認、再度発砲するが命中せず、次の瞬間、ユリウスが細いロープにつけた金具を投げつける。
 2、3周して銃に巻きつき、強く引っ張り上げる。拳銃は"ピューマ"の手から離れ、彼女はユリウスに押し倒された。

ユリウスが馬乗りになり、食事用ナイフを突きつけた。
「貴様は一体どこの誰だ」

 しかし"ピューマ"は冷静だった、隙を見て下からユリウスを蹴り上げ、今度は立場が逆転した。ユリウスの上にまたがり、ポケットからアーミーナイフを取り出して、彼に向けて言う。
「ルーズベルトの手下よ、クソ野郎」
 この状況で冗談を言う余裕すら持っている。

 ユリウスの喉を掻っ切ろうとした時、ミハエルが走ってきた。ギターを大きく振りかざし、"ピューマ"を強打する。
「くたばりやがれ、こいつめ!」
 鈍い打撃音と共に彼女の姿が消えた。

 "ピューマ"は崖から落ちていったのだ。数十メートルほどだろうか。崖の下も森林で覆われよく見えなかった。
「ギタリストの土俵じゃないって?今も同じこと言えるか?」
「助かったよ。感謝する」
 彼らは崖の下をのぞいた。しかし森林で覆われていてよく見えない。おそらく深い傷は負わせただろう。だが簡単にくたばるような相手ではないことはユリウスはわかっていた。
 
 ミハエルはまだ興奮していた。
「ああ、あれがあんたの言ってた悪魔か」
「そうだ。さあどうする青年、共に戦うか」
「おいおいちょっと待ってくれよ」
「なら戻るんだな」
「ここを戻れってのか、いや安全な場所まであんたについてくよ。その方が安全そうだ」

 さらに森の奥へ進もうとした時、"ピューマ"が落とした通信機を見つけた。これで位置や周辺の状況が何者かに伝達されているのだろう。
 
 ユリウスはその通信機に向かって話し始めた。
「ギデオン・ブラッド、貴様だろ。わかっているぞ。わしを殺すために部下を寄越したようだが、あいにく失敗に終わったな。はっきり言っておく、お前を殺すまでわしは死ぬつもりはないぞ。貴様を必ず見つけ出して、この世から葬り去ってやる。」

 通信機を地面に投げつけて、思い切り踏み潰した。

 二人は先へ歩き出した。
「それにしてもさっきのはすごかったな。あのロープで引っ掛ける武器、ありゃたいしたもんだ、それに発煙灯もどこから」
「機内からこっそり持ち出したんだよ」
「ほお、用意周到なことで。まるで特殊部隊員だな。どんな人生歩んできたんだ」
「話せば長いさ」
 
 謎に包まれたこの老人の目には、すでに次の戦いへの覚悟が感じらる。只者ではないことが窺えた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
バージニア州 ノーザンバージニア
クアンティコ海兵隊基地
02:40 AM
 
 クワンティコ海兵隊基地の一室で閣下がピューマの失敗を確認する。
「"ピューマ"がしくじりったか。まあ良い。一筋縄で行く相手じゃないことも想定はしていたさ。今は、機会を逃さないことを考えれば良い、まだ焦る時ではない」
 多少の動揺と怒りはあったが、それでも冷静だった。迫り来る難敵を一度に始末しようなどと思ってはならない。一度殺し損ねただけのこと。彼は焦らず次の好機を窺っていた。

 基地の滑走路では、急遽編成された海兵隊の救難部隊が離陸の準備をしていた。2機のMV-22オスプレイが待機している。通信員や医療資格を持った隊員が10数名ほど搭乗していく。

 中佐に当たる人物が大尉を見送っている。
「不時着現場での捜索救難活動のため軍からも応援を出すことになったというわけだ。こんな深夜の出動ですまないな、大尉」
「とんでもありません、いつでも準備は整えてあります、中佐」
「いい心意気だ、臨時の部隊とはいえ、重要な任務だ。君の指揮官としての働きを期待してるぞ」

 そこに閣下もやってきて大尉に声をかける。中佐は急に不審な表情をして睨む。
「ちょっといいかな、大尉」
「どうされましたか」
「墜落現場へ行くんだろ?そこでだ、22Bの座席の周囲を調べてきてほしい」
「なぜです」
「実は私の古くからの友人が乗っていてね、なにか見つかればぜひ保管しておきたいんだ」
「わかりました、一応捜索しておきます」

 大尉が中佐の元へ戻る。
「最近、お前はあの男とよくいるな」
「はい、数週間前こちらの基地に赴任したCIAの幹部です。6年前、イラクで命を救われて、それ以来親交があります」
「そうか。優秀なお前のことだ、特に問題はないんだろう。だが自分の所属をよく考えろよ。お前は海兵隊員で、合衆国海兵隊が仲間であり家族なんだ。」
「心得ております」
「よし、じゃあ言ってこい」
 集団は特定の目的を達成するために形成されている。その中の一人が別の組織の者と関わることで、集団が悪い方向へ導かれることもある。集団の中で自らがすべきことを曖昧にしてしまい、さらに、そのことによって集団内の他者からの不信を招き、全体のパフォーマンスやモチベーションの低下につながるのだ。時には大きな事故を引き起こすこともある。目的達成も遠ざかり、集団凝集性や集団同一性、規律遵守を見出してしまう。集団に属すものは自らの立場をしっかりと考えなければならない。

 大尉がオスプレイに乗り込むと、離陸の準備が開始された。ティルトローターが徐々に回転を始める。エンジンの轟音が増し、周囲の静けさが一変する。
「こちらTask Force RW1、離陸準備完了。離陸を開始します」
 機体が空中に浮かび上がると、ローターの音が風を巻き上げ、基地内の砂や小石が舞い上がる。
 
 2機のオスプレイが墜落現場へと飛び立つのをじっと見送った後、閣下もとへ電話が入る。かけてきたのは合衆国の副大統領であった。
「やあブラッド、作戦の方は順調か」
「"ピューマ"がハーゲンを仕留め損ねたよ」
「仕留め損ねた?どうするんだ、あいつは我々を殺しに来るんだろ」
 副大統領の焦燥が高まる。だが閣下の方は沈着していた。
「そう焦るな、副大統領ともあろう人間が情けないぞ、もっと大局的に物事を見ろ。いくらでも消すチャンスはある」
「だがな、救難者として捜索、保護されたらいっそう消しにくくなるぞ、一体どうするんだ」
「この際その捜索能力を利用させてもらおう。墜落はあの男が引き落としたテロだと警察とFBIに吹き込むんだ」
「んん、そいつはうまくいくかな」
「うまくいかせるんだ、失敗した時にはまた私が考える」
「ああ、わかったよ。とにかく働きかけてみよう」
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ワシントンD.C. フォギーボトム
15番ストリートNW
CDCワシントン生化学研究所
03:30 AM
 
 待ち望んでいたPCR検査の結果が出たことを機器が知らせる。深夜の3時をすでに過ぎていたが一気に眠気が吹き飛び、リサはすぐに確認に行った。
 しかし、印刷された紙には、期待はずれの言葉が記されていただけだった。"陰性"と言う言葉がただ表記されていた。
「ねえ、なんか面白い結果出たの?」
「何も出なかったわ」
「え、それじゃあ今まで起きてたのは何だったのよ。結局何もなかったんじゃん」
「期待外れって言いたいの?あなたは勝手についてきただけでしょ。既存の遺伝子配列とは異なってるから検出できなかったって可能性もあるわ。一度睡眠をとりましょう。その後で遺伝子シーケンシングにもかけるわ」
 
 当てが外れたことは残念だったが、自分の仮説が間違ってましたと簡単に認めるわけにもいかないので少し焦ったが、研究において思い通りの結果が得られないことはしばしばあるので実験方針の改良によって結果は出せるという期待もまだ残っていた。それよりも無知な記者がなぜかついてきて、専門分野に口出ししてくるのが非常に気に食わない。
 リサは深くため息をついて、勝手に室内の機器を触るなとメアリーに伝えた後、仮眠のために休憩室に行ってしまった。

「研究って大変ね。」
 メアリーの方は研究所内に並ぶ機器に興味深々だった。ずらりと並び置かれた機材らを眺めながら呑気に歩いて回っていた。
「頭のいい連中っていうのは、こういうので世界を救ってるんだね」
 勝手に室内の機器や器具を物色し、退屈凌ぎをしていた。

「これは、何かしら」
 簡易実験用の光学機器を棚から取り出す。機器に書かれた説明を読んでみた。彼女にとってはよくわからない言葉が並べられていた。
「可変スペクトラム?可視光がどうのこうのだって。何それ。とにかく特殊な光を出すのね。かっこいいじゃん」
 興味本位で電子顕微鏡にセットされたサンプルに機器を向けてボタンを押してみた。
「えいっ」

 すると顕微鏡に繋がれた画面に映し出された映像が、薄気味悪く蠢き出す。何かやらかしてしまったような感じがした。
「ねえ、ちょっと、リサ!なんか私やっちゃった?」
 リサが戻ってくる。
「もう、だから勝手に触らないでって、、これって、メアリー、あなた何したの?」
 顕微鏡に繋がれたモニターの画面に驚愕する。
「ちょっと触っただけよ」
「あなた、初めて役に立ったわね。それ見せて」
 リサは喜びを隠せずに少し微笑んでいた。機器の画面には430nm帯という波長域が表示されていた。
「強い青の短波長光だわ。これで、活性化してるのかしら。紫外線とか青色光が殺菌やウイルスの不活化に使われることはあるけど、」

「どうした何か見つかったのか」
 廊下の椅子で仮眠をとっていたアダムも入ってきた。
「おいなんだよこれは、気持ち悪いな、細長い虫みたいなのが畝ってるぞ」
「この光に反応してるのよ。特定の波長の光で活性化するんだわ、きっと。大発見よ」

 偶然にして歴史的な発見がなされたのだ。
 歴史の進歩は偶然にして促されることは、実はよくあることだ。
 ペニシリンの発見はあまりに有名だろう。イギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミングは細菌に関わる病気の治療法をの確立を目指していた。1928年のある日、実験室に散乱していた培養皿についた青カビに偶然目が行き、何気なく調べてみるとそのカビの周囲だけがその周囲だけブドウ球菌が繁殖していないことがわかったのだ。これが肺炎や梅毒から多くの命を救うこととなる抗生物質ペニシリンの発見であった。
 彼はこの7年間にも偶然の発見をしているのだ。くしゃみによりたまたま彼の唾液がペトリ皿についたことで、ヒトの鼻汁や血清などに含まれるリゾチームが発見されたのだ。
 この他にも、アルキメデスの原理の発見、ヴィルヘルム・レントゲンによるX線の検出、ジェームズ・ワットによる蒸気機関の発明など多くの科学的発展が偶然にして起きてきたのだ。
 数式や理屈だけではない、時には何気ないちょっとした言動が事態を大きく前進させることがあるのだ。

 メアリーのいたずらによる偶然であったが、これもまた一つの前進と言える。
 リサたちはやっとスタートラインに立ったのである。この後に再現性と信頼性の獲得への道が開けたのだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
バージニア州 ウォーレン群 D.C.の西約100km
国道340号線
04:00 AM
 
 ユリウスらは森を歩く中、木々の向こうに道路があるのを見つけた。彼は不時着の時、付近の田舎町リュレーの東の空を過ぎたのを確認していた。それから自分の経験と星を頼りに北の方へ進んでいたつもりのであったにで、その道路が国道の340号線か522号線だとわかった。
「おい、やっと道路に出たぜ、こっからどうすんだ」
「あの看板をみろ、ここは国道340号線だな、これを辿ってフロントロイヤルまで行く。その街で車を借りてDCに行こう」
「おいあんた、DCを目指してるのか。俺もだ、アパートを借りてる。これもなんかの縁だ、首都まで一緒に行こうぜ、レンタカーも安くなる」
「なら共に行こう、だがいざという時は命の保証はしないぞ」

 星空の元、南の方に、警察や消防の救難ヘリや軍隊のオスプレイの姿が見える。非常時において組織的に動ける集団は頼もしい存在だ。おそらくあのヘリには日頃から厳しい訓練に臨み、強靭な肉体を持った強者たちが乗っているのだろう。
 だがユリウスにとって、ギデオンとの戦いには自信以外信頼できるものはほとんどいない。すでにあの警察や軍隊の中に奴の手下が潜んでいるかもしれない。相手はあらゆる準備を整え、できうるすべての策を講じ、こちらを迎え撃ってくるはずだ。こちらも先を考えて進まなければらならない。

 道路の路面には夜露がつき、月光が反射して、微かに輝いている。木々や草むらからはカエルの鳴き声や虫の羽音が聞こえる。遠くからはアカギツネの遠吠えが時折こだまする。
 バージニア州の中でも首都に近いこの地域だが、政府の揉め事や人間関係の不和からは遠く離れた自然の姿がそこにあった。
 これから彼らが向かう先に待ち受けるのはは、人間が作り出した地獄かもしれない。彼らは月の光に照らされ、自然の壮大さに見送られながら新しい戦いの場へと足を踏み入れていくのだった。

「ところであんた戦うって言っても勝つ当てはあんのか」
「ああ、あるさ。まずはDCに行ってある猫を探す。勝利の鍵だ」
「そうか、よくわからないけど、頑張ってくれ」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
バージニア州 シェナンドーバレー D.C.の西南西約110km
ジャーマンイーグル246便不時着現場
04:20 AM
 
 大尉の部隊は、周囲の捜索を終えた後、救難捜索の一環という名目で墜落した旅客機のキャビン内を見回っていた。閣下に言われた通り22Bの座席の周囲の残留物を探していた。しかしこれと言って目立ったものは見つからない。
 コックピットやギャレー、非常口エリアを捜索する部下から無線で知らせが入る。
「大尉、こちらでは特に何も見つかりませんでした。行方不明者は見つからず、人間の遺体のようなものも確認しておりません。そちらの方は何か見つかりましたか」
「いや何も、」
 言いかけたところで、前の座席の下に地図らしきものが落ちてるのを見つけた。
 
 拾い上げて注視する。
「観光マップか」
 観光客用の地図にしては妙に詳細で、何か書き込んであったようだが、煤や埃でほとんど消えてしまっており、ところどころ破れてなくなっている箇所もある。大して重要な物品には見えなかったがそのほかにめぼしいものは見当たらなかった。
 いつまでも探していてもしたかがないので、その地図と周囲に落ちていた物品をそっと、迷彩服のポケットにしまい、撤収の合図をした。

 外に出たあと、周囲の警察官やレスキュー隊員に会釈をして、輸送機に戻ろうとした。

 そこへ数台の綺麗に黒く塗装された車が数台走ってきた。丁寧に道路の脇に停車すると、怪しげなスーツ姿の男女らが降りてきて車内の男から命令を受けていた。
「ありゃなんだ」
 大尉がよく目を凝らしてみたところ、車内にいたのは"ジャガー"だった。
「あいつか、一体なんなんだ」
 猫科動物のコードネームを与えられたよくわからない連中とは、関わりたくないと思っていたので、見なかったことにして去ろうとした。

 何かを部下に伝え、"ジャガー"はその場から走り去っていってしまった。
 
 彼の命令を引き受けた部下たちはが現場を見張る警察官の方へ向かってきて、身分証を見せて要件を伝える。
「現在を以て、この不時着に関わる全ての活動は我々の管轄となった、警察や消防は直ちにこの周囲3kmのエリアから全員引き上げてくれ」

 大尉の部下が疑問を感じた。
「組織同士の縄張り争いでしょうかね、それにしてもやりすぎでは」
 大尉はジャガーの姿を見てから、おそらく閣下が関与していると考えたが、よくわからないと言った風に黙って首を傾げた。そしてそのまま輸送機に戻り帰投した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
バージニア州 ウォーレン群
フロントロイヤル
05:50 AM

 ユリウスたちは暗い国道を進み、ようやく自然の森の先にある閑静な田舎町に到着いた。少しずつ夜の闇は引いていた。

 空が徐々に明るくなり始め、日の出の時刻が近づく。シェナンドー渓谷の壮大な景色と静かな町の風景が、穏やかな朝の光に包まれる。
 空は淡いオレンジ色からピンク色、そして紫色にグラデーションし、太陽の光が瞬く間に闇に染み込む。壮麗な日の出の瞬間だ。
 背後にはシェナンドー山脈がそびえ、その稜線が朝の光に柔らかく照らされ、霧が山々を包み込み、幻想的な風景を作り出している。

「おい、こいつはすげえや。ここまで生きててよかったぜ」

 家々の屋根が朝日を浴びて、穏やかな光の中に浮かび上がり、庭先には朝露が光り、静かな朝の空気が漂っている。通りには、まだ少し薄暗い中、早起きの住民が仕事の準備をしている。
 野鳥たちが朝の光を迎え、さえずりが響き渡り、さまざまなメロディを奏でている。近くの川や小さな流れでは、水のせせらぎが穏やかな音を立てる。水面が朝日を反射し、きらきらと輝いていた。
 突然の不時着や襲撃、死を連想させる一連の物騒な出来事とは対照的に、生を実感する瞬間であった。

「地獄の夜を乗り越えた爽やかな1日の始まりだな」
「いや、今までのはほんの始まりに過ぎんよ。今戦いが始まったんだ」
 
 町の中心部にある小さなカフェが早朝の準備を始め、コーヒーの香りが少しずつ漂い始めていた。マーケットでは、地元の農産物が並ぶ屋台が設置され始め、店主たちが新鮮な商品を並べられ、町の朝の活動がゆっくりと始っていく。そこには人を迎え入れる温かみがあった。社会を維持するために重要な人間の受容の側面である。

 ユリウスらは街の中をゆっくり歩きながら進んでいた。行き交う人に挨拶をしながら、少しの間、のどかな田舎町の朝を堪能する。
「いい町だよな」
「ああ、そうだな。あの記念碑を見ろ。我々が生まれるずっと前、ここで戦闘があったんだ。南北戦争時代のことだよ。南軍のメリーランド第1歩兵連隊が、北軍のメリーランド第1志願歩兵連隊と、同じ州人、友人や兄弟とで争ったんだ。アメリカの歴史の中で同じ州の同じ識別番号の部隊同士が戦ったのはこれが唯一だ。結局ここでは南軍が勝ったが、捕虜は大切に迎え入れられたらしい。いかに争おうとも、最後には人間という生物の温かさを忘れてはならん」
「地理だけじゃなくて歴史にも詳しいのか。すげえな、大した教養だなおい」
「暇があれば学ぶと良い」
「そうさせてもらうよ。ところで、車はどこで。急いでるし、休息も必要だろ」

 まずは車を借りる場所を探そうとしていた時だった、後ろからクラクションを鳴らし、白のセダンがやってきた。ユリウスは一瞬警戒し、車の方を向いた。

「ねえ、ちょっと!あんたたち、あたしが必要じゃない?」
「おいおい、レナじゃねえかよ、どうして」
「あたしも気になって追ってきたんだよ、リュレーって町でこれ借りたのさ。北の方に行けば会えると思ってさ。そこのおっさん、あんたも乗ってく?」

 社会を、共同体を、強固にする人間の協力と受容の精神が、この世の中でまだ腐りきっていないことを確信し、ユリウスは優しく微笑んだ。
「良い仲間を持ってるな、そこを北にいけばインターステート66だ、DCに直接行ける。数時間休息をとってから行くとしよう」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ワシントンD.C.マクリーンガーデン
アイダホアベニューNW3320
第二地区警察署
06:30 AM

 第二地区警察署では新しい朝の始まりと共に、シフト交代の警官が疲れ切った職員と代わり、騒がしさを見せていた。
 テレビやラジオでは不時着後、消防や軍隊の迅速な対応への称賛が伝えられていた。わずか3名の行方不明者を除く、ほぼすべての乗客が無事に救助されたとの報道に多くの者が安心した。

 ブリーフィングルームでは幹部職員たちが署長の話に耳を傾けていた。
「おはよう諸君、聞いてくれ。昨日の不時着についてだ。政府は、マスコミに事故だと発表したが、CIAと国防省からの通達で、テロだと判明した。容疑者はドイツ人のユリウス・ハーゲンという男を含む3名。手元の資料に記載されてる。どうやらこのDCに向かっているらしい。明日、独立記念日だ。今日の我々の働きで未来が変わると言っても過言ではない。市民の安全に注意し、十分警戒して慎重にことに臨んでくれ」
 部屋全体に緊張が走る。これまでもテロ対策訓練は行ってきたし、テロの容疑者を逮捕することもしばしばあったが、やはり旅客機を落としたテロと聞くと一層重く感じる。
 
 職員が不思議そうに尋ねる。
「このユリウスという男は、見つけ次第、場合によっては射殺も許可されてるとありますが、大丈夫でしょうか。今の今まで我々のリストには乗ってなかった男ですよ」
「わかっているよ。いきなり手を下すのもどうかと思うが、本部からの命令だ。従ってくれ」

 署長は続けた。
「ルーシー・ブレイク巡査部長はわかるな。彼女は今病院だ。路地裏で容疑者に声をかけたら、返り討ちで骨折したそうだ。命に別状はないが、容疑者は未だ見つかってない。ぐずぐずしていたらこちらがやられる時もあるんだ」

 下階の勾留室では、マイケルやジョンは疲れ切って睡眠をとっていた。その中で一人、アレックスは前屈みに座り、じっと前を見つめて思考していた。一体何が自分らをここに追いやったのかと。その原因を必ず見つけ出してやるという眼差しだ。
 窓から差し込む朝日の光が顔を照らす。その視線には静かな怒りが込められていた。

 遠く地平線から登った朝日が首都を照らす。その光に新たな希望を感じる者、日々の絶望を嘆く者がいる。
 太陽の眩しい光はワシントン大聖堂の高い尖塔とステンドグラスを直射、壁のガーゴイルの石像が日差しの元に現れ、街を見守る。夜の幻想的な雰囲気とはまた異なる、はっきりとした気品と正義を見せる。尖塔は薄紅色の天空へ伸び、神々しさを感じさせている。そして、遠くに見えるキャピトルヒルのドームが黄金に輝き、国の中枢の威厳を示しつつ、人々に道標をもたらす。
 歴史が、この世界の進み方に目を光らせている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 予期せぬ戦いに直面した時、人は恐怖を抱く。その恐怖に立ち向かう者もいれば、逃げる者もいる。

 しかしどんな行動にもある種の勇気が必要なのだ。そしてそこには覚悟や意志が付随する。

 世界はその決意を見ている。困難に陥った時、人間の本当の価値が試されるのだ。

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