第2話 Kheper

文字数 23,123文字

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“幸運は用意された心のみに宿る”
ルイ・パスツール

“生命の基本単位は、細胞ではなく、ミクロジーマなのだ。”
アントワーヌ・べシャン
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 人間と猫の関係は我々が想像する以上に深く長い歴史を持っている。
 猫は約9000年前に中東地域で家畜化されたとされる。当時の家畜としての猫は現在のペットのような存在ではなく、農業社会の中で、穀物の害虫を捕獲するために扱われていた。この家畜化の過程で猫は人間の居住地に住み着き、害虫の駆除を行うパートナーとして受け入れられてきたのだ。
 一方で宗教的な役割も果たしてきた。宗教が高い地位を占める社会では多くの重要な役割を担った。例えば古代エジプトでは、猫はバステトという女神の象徴として神聖視された。バステトは愛と豊穣の女神であり、猫を介し人々に恩恵をもたらすとされたのだ。そして猫は家庭の守護者として尊重され、その死に対しては深い悲しみが表された。
 その他多くの文化で猫は宗教的な意味合いを持ち、神秘的な生き物として崇められた。これは猫の特異な行動や、夜行性の習慣から、神聖なイメージが形成されたことによるものだ。
 猫と人間は、科学と宗教が絡み合いながら関係を築いてきた。そして現在、猫は我々の生活の一部として、特別な存在として受け入れられ、尊重され、愛され続けているのだ。

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2028年7月2日 日曜日
ワシントンD.C. コロンビアハイツ
フェアモントストリートNW
08:20 AM

 いつもと変わらない平和な住宅街の光景が広がる。だが今この場所にピーターはいないのだ。彼は今病院の集中治療室のベッドの上にいる。ピーターを知らない人間にとって、そのことは特に気に留めることではないし、一人の人間が病院に運ばれても、統計学的観点や全体の人口からして大きな問題はない。
 だが、少なくとも、昨日同じ時刻にこの場所にいた一人の人間が、悲劇的な理由で現在ここにいないのである。

 そして一人の人間に起こった悲劇は、当然別の人間にも起こる可能性はあるのだ。しかしその悲劇のターゲットが自分であるという想像をできる人間はそういない。さらに相手が見えない脅威の場合は尚更だ。
 そしてある日突然、標的が自分だと告げられるのだ。

 昨日と同じように配達員が手紙や箱を住民に届けて回っていた。

 何も知らず平穏な朝を迎える街、そういう場所に限って恐怖という魔物は忍びたがるのだ。

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ワシントンD.C. ジョージタウン
レザボアロード3800NW
ジョージタウン大学病院
08:30 AM

 厳重に管理された集中治療室でピーターは状況を常時観察されていた。病院に運ばれた時は激しく震え上がり痙攣していたが、今は全くの昏睡状態であった。医師たちは原因不明の急性臓器機能不全だと判断したところだ。

 しかし奇妙なことが起きていた。現在ピーターの体は平均的な健康な体だということが明らかになったのだ。あれほど目が充血し青ざめた体が元通り健康な人間のそれになっていたのだ。既存のあらゆる検査キットでもこれと言った病原菌は確認されなかったから感染症の可能性はまず外されたし、CTスキャンなどでも異常は見られなかった。ただ意識だけが戻らないのだ。

 そしてさらに興味深いことがわかったのだ。
 脳波測定でベータ波が毎秒45Hz、ガンマ波が毎秒50Hzと強いシグナルが確認されたことだ。昏睡状態の人間ではありえないし、通常の覚醒状態でもまず見られない値だ。
 高等哺乳類が獲物を探している時や縄張りに入った相手に攻撃を掛ける時、ガンマ派が増加するという研究データが示されている。しかしここまで高い値が測定された例は今までにない。

 このおかしな状況に病院のスタッフはお手上げ状態だった。

 ピーターのガールフレンドが心配そうに見つめる。
「彼どうしちゃったのかしら、きっとこれは悪魔の仕業だわ、、ああ、、」

 自らの最も近しい人間の一人が現在の科学技術ではどうしようもないできない危機的状況に陥っているのだ。誰もが不安を感じるだろう。ストレスホルモンであるコルチゾールが増加し、精神的な苦痛が現れる。これは生存のための反応であり、注意力や反応速度を向上させつつ、恐怖や不安をさらに煽る。
 そして不安はより大きな絶望へと繋がっていく。その絶望によって恐怖へ陥れられた肉体は、心の中で信仰する神に祈るしかなくなるのだ。
 だが、その信仰と祈りは、これまで自らが救われた経験を思い出させ、状況に争う希望を抱かせてくれるのだ。脳は希望を現実にするよう体に働きかける。
 そうして希望と絶望の戦いが、自身の精神の中で繰り広げられていくのである。

 今、病院内にいる人間たちは経験したことのない緊急事態に直面している。

 看護師がピーターのガールフレンドに声をかける。
「神に祈りましょう」

 いつの時代も信仰からくる希望が、恐怖を打ち破る打開点へと人々を導いてきたのだ。

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ワシントンD.C. フォギーボトム
25番ストリートNW
CDC(疾病予防管理センター)ワシントン生化学研究所
09:30 AM

 フォギーボトム地区にあるCDCワシントン生化学研究所は、日曜日も静かな忙しさに包まれていた。入り口には厳重なセキュリティが施され、カードキーを持つ職員が次々と入ってくる。白衣を着た研究者たちが行き交い、カートに試料や機材を載せて運ぶ姿が見られる。

 広々とした廊下の両側には、様々な研究室が並んでいる。それぞれの研究室のガラス窓越しには、最新の分析機器や顕微鏡が並び、研究者たちが真剣な表情でデータを解析している光景が広がる。
 特に、バイオセーフティーレベル3(BSL-3)の研究室では、全身を防護服で覆った研究者が、感染症のサンプルを慎重に取り扱っていた。

 その中にリサがいた。彼女は現在、ここでウェストナイルウイルスの研究に取り組んでいる。
 ウェストナイルウイルスはフラビウイルス科に属し、主にコウチュウ属の蚊を媒介として鳥類から人間やその他動物に感染する病原体だ。大抵の場合、感染者は無症状か軽度の症状しか示さないが、重症化すると脳炎や脊髄炎を引き起こし、重篤な状況を招くことがある危険なウイルスだ。
1937年にウガンダのウェストナイル地域で発見されたことからその名前がつけられた。アフリカ、ヨーロッパ、アジア、そして北アメリカなど広範囲に分布している。

 リサは、このウイルスの発生の起源が、エジプトの鳥類であるという可能性を探求しており、自分の成果を疫学研究の発展に繋げたいと考えていた。
 彼女の手元で何台ものフロースルーサイトメーターがフル稼働し、試料の分析が進められている。コンピュータモニターには、細菌やウイルスの画像や解析データが次々と表示される。化学研究に対するやりがいと意気込みが感じられる。
 一方で昨日病院で見た、豹変した男性のことが忘れられなかった。

 この時間帯、外部からの訪問者も多く、エントランスロビーでは、訪問者バッジを付けた人々が、案内役のスタッフと共に研究所内を見学している。
 製薬会社の重役や大学教授が最新の研究成果に驚きの声を上げ、所長の説明に耳を傾けていた。

 所長の話が終わると、仕事が一区切りついたリサがやって来た。
「ちょっといいですか、所長。昨日、猫に引っ掻かれた男がひどく苦しんで病院に運ばれたんです。彼について研究する時間と設備をいただけませんか?」
「狂犬病じゃないのかね、それを研究してどうするんだね?君が今やってる研究は?」
「自分の研究は進めます。でもどうも気になるんです、彼のことが。広く見れば生化学発展の一環になり得ます。詳しく調べたくて」
「わかった。大きな支援はできないが、一定の負担は受けよう。君は同期に比べて優秀だからね。信頼しているよ。その病院にも伝えておこう。」

 所長は彼女がDCへ来て以来高い評価を与えている。申し分ない学歴に加え、事実優秀で研究に対する意欲、熱心さが魅力的であった。
 ただひとつ、世に大きく発表できる結果は出せていなかったのだ。所長としてはもっと出世してもらいたいらしく、彼女のやりたいことは極力支援するつもりであった。

 今日の夕方ごろに病院で調査するアポを取ってもらった。未知のものへの興味を刺激された科学者は満足げに微笑んでいた。

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ワシントンD.C. ウェストエンド
MストリートNW
NSAコロンビア特別区支部
11:00 AM

 昨日のNSA支部での事件は何者かによるクラッキングであったことはわかっていたが、それだけだ、誰でもわかるそのことしか判明していなかった。その手段や、目的もわかっていない。その中でただ職員が徹夜で作業を行うだけだったのだ。

 デスクに広げられた書類や調査データが山のように置かれていた。ここ数時間で、アレックスが見聞きするのはカタカタとキーボードを叩く音と、時折スクリーンに表示される調査員からの連絡だけだった。彼の目はモニターの青白い光に照らされ、疲れの色が浮かび、任務に対する責任感と緊張感は最早ほとんど消えかかっていた。

 アレックスはコーヒーマシンに向かい、濃いブラックコーヒーを注いだ。その苦い味が眠気を追い払ってくれることを期待しながら一口飲むと、目が覚めるような感覚が広がった、かと思うと再び眠気が襲う。デスクに戻り、未解決の問題や大量のデータを目の前にして深呼吸をした。

 アレックスの徹夜作業を直接支えるのは、同僚のジョンとマイケルだ。
 ジョンは、茶色い髪を無造作に束ね、眼鏡の奥から真剣な眼差しを浮かべていた。彼のデスクは、プログラムのコードや解析ツールで埋め尽くされており、その手際の良さからは、難解な問題を解決してきた経験が窺えた。

「ジョン、このデータセットのクロスリファレンスをお願いできるか?」
 ジョンはすぐに反応し、目の前の仕事を片付けながら、アレックスに視線を送った。
「了解、すぐに取り掛かるよ。」

 一方、マイケルは、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。元警察官だからか事態の混乱には慣れているらしい。しかし彼の役目は専門的に技術調査を行うことではないから、特に何もすることなくコーヒーを飲みながらじっとしているだけであった。
 猫と対峙した時のあの対応はさすが元警官と言ったところだが、本来は体力勝負の職場ではなく、頭脳派が集まるような場所で彼は手持ち無沙汰となっていた。事件の原因が明らかでない状態で帰ることができないのでそこにいるだけだったのだ。
 彼は時々「頑張れよ」だとか「調子はどうだ?」と声をかけてくるが、出番のなさに少し退屈していた。

 しかし、しばらく作業を続けるも、めぼしいものが何も見つからない。自分たちの目的すらもわからなくなりそうなほどの眠気がやってくる。

 それぞれのタスクが淡々と続く中、ジョンが奇妙なものを発見した。
「これは、!」

 ジョンがアレックスを呼ぶ。
「どうした?」
「おいこれ見てくれ、あの猫の動画の音声信号の周波数とそのグラフだ。フーリエ変換で周波数や正弦波を分析したんだ。」
「それが?このグラフが、あの映像から流れてた音声の周期図ってことだろ。」
「こっちのはそうだ。だが見てくれ、もう一つ別の周波数とパターンだ。人間の耳には確認できない音で何かが流れてる」

 人間の耳に聞こえる限界の高さ20kHzを遥かに超える34.567kHzという数値が表示されていた。

「それから映像の方もだ。このスペクトルグラフを見てくれ」
 ジョンは画面に表示されたファイルを解析しながら、特異な光の波長のグラフを見せた。
「この光の波長、通常の可視光だ。問題はそこじゃない、ここだ、0.5秒おきに特定の、432nmの波長の強いブルーライトが出力されてる」

 アレックスが隣から興味深そうに覗き込み、
「でもそれは不可能だろう?スマホやパソコンがそんな高い音や、短い波長の光を出せるわけがないだろ。」
 ジョンは首を振った。
「通常のデバイスならね。でも最近の技術アップデートで一部のデバイスに新しい光エミッタ技術や音源システムが組み込まれたんだ。このオフィスのやつもそうだ。多くはないけど、一般のスマホとかパソコンにも使われ始めてる。特定の条件下で、より精密なスペクトルの光や高周波の音を発生させることができる。この猫の映像はただのバイラル動画じゃない。何かを伝達しようとしているんだ。」

 マイケルも話を聞いていたようで
「それなら、そいつは通常の方法では感知できない情報を送ってるってことだよな。誰に?何のため?」
「それを考えるのが俺たちの仕事じゃないか、君だって元警官なんだろ。早速資料を作成しよう。」

 実態のわからない何か、耳にも聞こえないし、目にも映らないが、国の情報機関を混乱させた何かを、数字として浮かび上がらせたのだ。もしかすると解決の鍵を自分たちが見つけたのかもしないことに微笑まずにいられなかった。

 データをまとめ、資料を作り上げ、アレックスがジョンに言った。
「じゃあこの資料とデータを支部長に報告しよう」
「でも上の階の連中は犯人探しに夢中だろ。教えてやっても無駄になるかも」

 話を聞いていたマイケルが反論する。
「いやそんなことはない。犯罪の解決ってのは犯人をただ捕まえれば良いっていうことじゃない。たとえば爆弾が仕掛けられたとするだろ。そしたら警官が真っ先にやるのは、まず爆弾の処理で、それから犯人逮捕だ。今回は俺たちが英雄かもしれないぞ。」
「良いこと言うじゃないか、マイケル、じゃあいってくるよ」

 するとそこへ支部長の方からやって来た。
「皆、ご苦労、犯人は未だ見つけられてないが、あれからこれといって大きな問題は生じていない。今日の午後6時まで、24時間の間に何もなかったら、一時帰ってくれ。」
アレックスが先ほどのデータを見せる
「支部長、これを見てください。あの映像から得られた情報です。何か解決の手掛かりになるかも」
支部長は面倒くさそうに受け取り
「ああわかった、後で読んでおくよ、私も徹夜なんだ。ありがとう」
よくも見ずにファイルの中に適当にしまい込んで戻っていってしまった。

 ジョンが悲しげな余韻に浸る。
「ありゃ読まないだろうな。」
 マイケルが宥める。
「ま、組織っていうのはそういうもんだろ」

 だが、彼ら、特にアレックスにとって、今日家に帰れるかもしれないという可能性は大きな報酬であった。
 彼がスマホに目を映すと、ゼラからメッセージが届いていた。娘とペットショップに猫を見に行くらしい。
「くそ、またあの生き物か」とため息をつきそうになったが、それよりもまず、今日無事に家族と共に夕食を迎えられることを期待した。

 確約された喜びを知り、脳内でドーパミンが放出される。快楽感を与え、報酬系を刺激する。また、嬉しさという感情は、視床下部を活性化させ、意識を覚醒状態へと持っていく。

 眠気が引き、以後の数時間の作業が捗り始めた。

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ワシントンD.C. ダウンタウン
NW15番ストリート
FBI特設捜査支部
01:20 PM

 昼食を終えたアダムは、コーヒーを飲みながらデスクに座り、猫の事件についての資料まとめをしていた。日曜でもくだらない仕事をしなければならないというのはつらいものだ。

「昨日の36件のうち、通報者、ああ、これは被害者ってことでいいのか、は男性16名、女性20名、60歳以上は22人と少し多いな、、、が傾向があるかはわからん。送られて来た猫の種類も一貫性はないし、、ああ、よくわからんね。」

 書類を段ボールに詰めながら別の職員が、変わったものを見るような目でアダムの方を見て来た
「あなたも大変ですね」
「からかってるのか?」
「いえ、」
 アダムの苛つきは治ってないようだ。

 そこへ部下が入って来た
「聞きましたか捜査官?」
「どうした」
「昨日のピーターって男ですよ。あなたが何もしようとしないから私がその後のことを調べたんですよ。どうやら今、意識不明だそうですよ。昏睡状態で。」
「だからなんなんだ。」
「猫が病原菌を持っててピーターを病気にさせたんですよ。きっとその病原菌を広めるために、配達員が猫を」
「なんでそうわかる」
「勘ですけど。でも生き物を送りつける犯罪の多くは生物テロですよね。辻褄が合うじゃないですか!」
「まさか。ほかにピーターみたいになったやつはいるのか?」
「いいえ」
「ほらな。偶然だろ。ピーターは運が悪かったんだ。」
「でも一応調べに行ったらどうです?ここにいても、何もないし、捜査するに越したことはないですよ」

 アダムは静かにため息をついて、内心面倒くさがっていたが、
「確かにそうだな、書類をまとめ終わってから夕方くらいに病院に行くよ。」

 たかが一人が病気になって倒れた。
 たかが一人、それも36のうちの1。
 いや、とんでもない。
 1つの個体が機能を停止した時に生態系に及ぼす影響は計り知れない。ある個体が消失すると、その個体が占めていた生態的ニッチを埋めるため、そこに他の個体が進出するよう環境が促すのだ。そしてその個体と新しい生態関係を築くため、既存の個体が働きかける。その過程で新たに仲間を作り、または争いを始める。そしてさらに周囲の個体へと影響を与える。その変化が徐々に大きく伝播していくとと大規模な環境破壊にも繋がりうるのだ。
 人間の社会でも同じだ。

 まして捜査官などという者が、そのような変化を見逃してはならない。
 どんな小さな変化にも対応しようと努める。その姿勢が社会に安定をもたらすのだ。

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ワシントンD.C. アナコスティア
WストリートSE
古びた倉庫群
02:30 PM

 乗り捨てられたバンが放置され、近くの古い倉庫の中で薄暗い檻に囚われたペット搬送業者が叫んでいる。
「おい!もう返してくれ、な?一体なんだってこんなことするんだよ!」
 彼をさらったサングラスのスキンヘッド男がやって来て、冷ややかに微笑みながら答えた。不気味な笑いだ。
「返す?ふざけたことを抜かすな。食事も与えてやっただろう。さあこれを使って身を清めろ」
水の入ったボトルを渡された。
「ふざけるな、やるもんか!」
「なら私がやる。体の表面に染み付いた穢れを流すんだ。」
 スキンヘッドが水を浴びせかけてきた。

 まるで猟奇的誘拐犯の様子だ。そういった犯罪は共感や罪悪感の欠如、衝動的な行動性を特徴とするサイコパシーや反社会性パーソナリティ障害を持った人間が起こしやすいが、このスキンヘッドもその類か。

 スキンヘッドは近くの机の上に置いてあった古びた書を指さして言った。
「古代エジプトでは猫を神聖な生き物として崇めていたらしい。この書によれば、猫の神バステトの復活には、猫へ敬意を払う穢れなき者を生贄に捧げなければならない。空港でお前を見た時、すぐにわかったよ。猫を見る視線、そして彼らを扱うその手から、お前は純白な人間だとな。」
「お、おい、、、あんた、狂ってるぞ!何者だか知らんがここから出せえ!」
「お前のことは知ってるぞ。職業はペット関係、休日はいつも動物関連のボランティアに従事、犯罪歴もなく、目立った病気もない。我が神に捧げるのに相応しい純白さだ。喜べ、お前は今から、聖なるバステト神復活のための生贄となるのだ。さあ儀式の部屋へ行こう。」
「くそ、離せ!このサイコ野郎!そもそも俺は猫じゃなくて、犬が好きなんだよ!」
「ん?なんだと?」
 スキンヘッドが男を離した。

 そして唐突に顔色を変えて男を檻に押し返した。
「それならばお前には用はない」
「はっ、か、返してくれるのか。そうだ、早く解放してくれ」

 スキンヘッドはスマホを取り出した。動画保存アプリに入れた動画を表示する。保存された動画の一つを再生する。猫が音楽と共に踊る映像が大音量で流れた、

「このバイラルビデオを知ってるか。世間、特にネットの世界ではこれをミームだとか呼んでいるらしい。」
「だ、だからなんなんだよ!」

 囚われた業者の檻に数匹の猫を放った。
 愉快な音楽をバックに猫たちが業者に近づいてくる。しかしその猫たちは明らかに豹変していた、一般的に想像されるイメージとはかけ離れた、獲物を殺すことだけを思考しているような目つきの、全く異なる生物のようであった。

「おい、、、なんだよこれ、、」
「お前は餌だ。」
 次の瞬間、にぎゃあああ!!!という声をあげて猫たちが業者に飛びかかった。
「うわあ!やめろ!!助けてくれる頼む、お願いだ、うわぁぁぁぁあああああああ!!!」
 爪が顔の皮膚を切り裂く。

 彼に叫びは相当なものだったが、一帯の倉庫地帯でその声を聞いたのはスキンヘッドと他の野生動物だけであった。

 猫の目は狂気に満ちた光を帯び、牙がむき出しになっていた。業者は身を守るために手を挙げたが、猫の猛攻は止まらない。鋭い爪が腕に食い込み、さらなる悲鳴が上がる。「うぎゃぁぁぁ!」その声もかき消すように猫は飛びかかり、執拗に首と喉元に噛みつき、血が噴き出した。業者の目は恐怖に見開かれ、必死に猫を押しのけようとしたが、力が次第に抜けていった。
猫は凶暴に皮膚と肉を引き裂き、血が倉庫の床に広がったいった。
 「助けて、、誰か、、」
 業者の声は次第に弱まり、最後には消え入るようなささやきに変わり、目は恐怖と苦痛に満ち、息は次第に浅くなっていった。彼の体は痙攣し、やがて大人しくなった。猫は彼の体を貪り続た。不気味に輝く猫の目の光と共に、動画の音楽は流れ続け、体からはみ出た管がひょーひょーと音を立てていた。
 業者の死体の中におぞましい静寂だけが残った。

 スキンヘッドは業者の体が動かなくなるのを遠くからじっと見ていた。その後倉庫から去り、ある人物に電話をかけた。

「閣下、今回もハズレでした」
 閣下というのは誰だかわからないが、スキンヘッドの上司であることは確かだろう。何かの計画が進められているのだろうか。スキンヘッドは次の仕事へと向かっていった。

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ワシントンD.C. ダウンタウン地区
ペンシルベニアアベニュー NW1350
ウィルソンビル、市政庁舎
03:20 PM

 市政庁舎の中では、2日後に控える独立記念日の行事に関わる仕事で職員らが忙しなく往来し業務をこなしていた。そこに市長の姿もあった。
アレックスたちが直面した事件のことは当然市長の耳にも入っていた。DCの市長、ロバート・ナイトレイだ。

 彼は独立記念日のイベントで、新たな公約や制作を発表することになっていた。その一つが、サイバーテロ対策と疫病対策の強化であった。国内外に広がるネット犯罪、テロ、疫病の流行に立ち向かう意思を改めて市民に示し、より大きな支持を得るつもりであった。シンポジウムでアメリカ最新のサイバー技術と対疫病技術を見せつけ、「見えざる恐怖はもはや去った」と決め台詞を言うことも考えていた。
 が、昨日起こってしまったのだ。アレックスたちのオフィスが見えざる恐怖に侵略されるという大失態が。
 ここで彼が気にしているのは失態による自らの政治保身の安否ではなく、市民の安全を脅かす何かの実態がわかっていないことであった。

 そしてもう一つ、アダムが捜査している猫の事件についても気にしていた。滑稽な噂として市長も聞きつけていたが、なんとも不穏な予感を感じていた。

 いろいろと思案してる彼の手が開くのを待って、愚かな記者がいきなり割り込んできた。

 彼女は好機を得たと言う表情で市長の方へ走ってきたのだ。彼の手が開く瞬間を狙って。取材のチャンスをずっと伺ってたらしい。
「なんだねきみは」
「キャピタルタイムズのメアリー・コールソンです、あなたが記念日イベントで発表する新しい公約を、ぜひ私にだけ教えてくれませんか」
「あのね、それは簡単に今ここで話せるようなものじゃないんだよ。」
 忙しい時に何もわかってないような顔をして、アポもなしに突然やって来て、突拍子もない無謀な質問をしてきたのだからイライラする。

 市長の取材という割にはただメモ帳とペンを持ち合わせているだけだった。
「どうも君は見ない顔だな、、てことはさては新人だな。新人で私の取材をやるというのはよほど優秀なんだね。」
 皮肉を混ぜて返してやった。
「いえ、実は新人じゃないんです、いろいろやっちゃって、自由なんです。会社の中では」
「ああ、それで私のところに来て、一山当てて同僚を見返してやろうと思ったのか。全く愚かだな。残念だがその軽薄さが今の君を作ってるんじゃないかね?」

 メアリーは言い返す言葉もなくそのまま無言で帰ろうとした。次に何を言われるか想像はついた。説教は勘弁だ。会社で何度やらかして叱られたことか。圧倒的な強敵から自分のプライドを守るにはここを離れるしかなくなったのだ。

 彼女が立ち去ろうとしたその時、市長は声をかけた。
「メアリー、、、ああコールソン君、本当に優秀な記者は政治家よりも市民に目を向けるんだよ。」

 政治家を反映するのは市民なのだ。リーダーがいてそれについてくる者たちがいる。そして彼らが集団を作り上げるのだ。人民は国の鏡なのである。

 切ない表情で静かに頷き去ろうとした時、彼女の元へ電話が入った。
「ええ、はい、。ええ?病院で?」
どうやら彼女を見かねた同僚が、ピーターという患者の取材の仕事をその手の筋から貰ってくれたらしい。
「言ったそばからだね、今君のやるべきことはその病院に行って現実に触れることだよ。現実に触れて、そこから始めるんだ。」

 市長から受けた教訓が身になったのかはわからないが、メアリーは病院へ向かった。

 ペンシルベニア大通りに面した荘厳な市政庁舎の白亜の柱に太陽の光が反射し、周囲を明るく照らした。広大な敷地に掲げられたアメリカ国旗が風に揺られる。威厳と尊厳を保っている。
 何が起きようとも、確固とした姿勢で厳格にことに臨もうとする人間に重なるものが感じられた。

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ワシントンD.C. デュポンサークル
コネチカットアベニューNW
ペットショップ"アーバンペットパレス"
03:50 PM

 休日の賑わいを見せるDCの通り。人々は、休日のゆったりとした時間を楽しみながらカフェのテラス席でコーヒーを楽しんだり、ベンチに腰掛けて読書をしていた。木々の緑が風に揺れ、心地よい影を作り出している。自転車に乗る若者たちや、手をつないで歩く親子の姿が見られ、どこかの店からはライブ音楽が流れてきて、通りに活気を与えている。

 その通りに面した1軒のペットショップでは店員が動物の世話や管理、引き取りについての業務に取り掛かっていた。他の業者に連絡をとったりと、愛らしい動物たちに囲まれて、ふわふわ暇を持て余しているわけではない。
「昨日ここに搬送されるはずだった猫が届いてないんですが、、そうですか、はい、ありがとうございます、ええ、では」

 ドアが小さなベルの音と共に開いた。中に入ってきたのは、30代の母親と9歳くらいの娘だった。ゼラとソフィアだ。ソフィアはワンピースを着て、目を輝かせながら店内を見回していた。

「ママ、早く早く!」娘は興奮した声で母親を急かした。
 ゼラが店員の座っているカウンターに向かい、
「娘のソフィアが猫を欲しがっててね、もうすぐ誕生日なの。どんな子がいるか見せてあげてくれない?」
「分かりました。じゃあソフィー、今から案内してあげる、エミリーよ、よろしくね」

 ソフィアは店員と猫のコーナーへ小走りで駆けて行った。
 そこにはさまざまな猫たちがケージに並べられていた。その中には、毛並みが艶やかで黒と白の模様が美しいスコティッシュフォールドや、赤の毛に鮮やかな緑の目をした力強い体格のアメリカンショートヘアなど様々な猫たちが、こちらを見つめていた。それぞれのケージには名札がつけられ、猫の特徴や性格が簡潔に記されていた。

 ソフィアはその中の一匹、オレンジの毛並みが美しい大きめの猫に目を留めた。メインクーンという種類の猫である。猫の方もソフィアの目をじっと見つめていた。彼女に興味を持ったのか、彼女を受容したのか、それとも警告を与えているのか。わからなかったが、何かを伝えたそうな目つきであった。互いにその目を見つめる。

 お互いの視線が合う。
 人間やその他高等動物は目が合うと、特に相手が感情を表している場合には、扁桃体と呼ばれる脳の一部が活性化する。扁桃体は感情処理を行い、とりわけ恐怖や喜びといった情動の理解を促進させる。これにより、相手の感情状態を推測し、適切と思われる行動を取るための情報が脳内で処理されるのだ。
 そして他者の行動や感情を洞察することでミラーニューロンという神経細胞が活性化する。ミラーニューロンは、他者の行動を模倣する神経活動パターンの記憶を促すのだ。これにより、観察者は相手の行動を理解し、同様の行動や心理を模倣する準備が整うのだ。

 幼い子供にとって、一匹のペット用動物と目を合わせるというのも立派な経験である。今、その9歳の子供の中に、社会性動物としての経験が蓄積され、また一つ、精神の成長が起こったのだ。

「この子がいい!」
 ソフィアは店員にに向かって指を差しながら言った。店員はしゃがみ込み、ソフィアと同じ目線でその猫を見つめた。猫はソフィアの視線を感じ取ったのか、興味深げに近づいてきた。
ただ店員は怪訝そうに返した。
「確かに可愛いけど、この子、オスの成猫よ?それも8歳の。他に子猫とかたくさんいるけど、本当にこれでいいの?」
「うん」
 899ドルと書かれた値札が付けられていた。同種の他の猫に比べると安い値段だ。家庭の財政を考えたのかわからないがとにかくその猫を気に入ったらしい。

「お母さん、この子に決まったそうですよ」
 母親も娘の選択に驚いたようで
「ええ?あっちの子猫じゃなくていいの?」
「これがいいの!」
「わかったわ、じゃあ今から購入の手続きできるかしら?7月7日に引き取りに来たいんですけど。」
「いいですよ」
エミリーは購入手続きの準備を始めた。

「動物って本当に可愛いわね。でもちゃんとお世話するのよ?」
 母親は娘に優しく問いかけた。
「うん!ちゃんとする!ご飯も、お水も、トイレも、全部やる!」
 娘は真剣な顔で頷いた。

「ところで名前はどうしますか?この猫、私がここで働く前からいるらしいんですけど、名前がつけられてないんです。元々あったのかもしれないけど、この際改めて決めちゃいましょう」
「どうするソフィア?」
「うーん、、、じゃあ、ソクラテス。ソクラテスがいい!」
 エミリーは少し驚いた
「か、変わった名前ですね、、でもソフィーにお似合いね、じゃこれで登録するから、来週取りに来てね。」

 単なる血統書登録の一作業である。パソコンに文字を打って、番号やら色やら品種やらををCFA(猫血統種登録機関)に送って認定してもらうだけのこと。
 だがソフィアにとっては新たな家族が誕生する瞬間だったのだ。

 他の生命との繋がりが感じられるのは、何も病院や動物園だけじゃない。日常のあらゆる場面で、もしかすると予期もしなかった場面で、人は種別問わず多くの生命と関わっているのだ。

 母と娘が店を出ると、店員は引き続き、猫の受け渡しの準備手続きをした。
 その猫について記された書類を奥の部屋から取り出す。

「んん?変ねえ、親も分かってないし。空白ばっかり、元の飼い主は、、、ユリウス・ハーゲンさんね。ドイツ人かしら。まあいいわ、保健所で作り直してもらいましょ」

 ソクラテスはじっと入口のドア越しに外を見つめていた。

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ワシントンD.C. ジョージタウン
レザボアロードNW3800
ジョージタウン大学病院
06:00 PM

 ジョージタウン大学病院では集中治療室のピーターが穏やかに、ただ静止していた。
 ロビーでは和やかな会話が聞こえ、患者やその家族が静かに歩いている。待合室では、書籍を読む人やスマートフォンで時間を潰す人がいる。窓からは夕日が差し込み、静かな時間が流れている。
 その中を一人の女性が進んで来た。リサだ。白衣の上に薄手のカーディガンを羽織り、肩にかけたバッグにはノートパソコンや調査に必要な機材が入っていた。

 受付スタッフは彼女がくるのを確認した。
「リサ・ボールドウィンさんですね。お待ちしておりました」
「こちらのエレベーターでピーターさんのICUにご案内します。」
「ありがとうございます。すぐにサンプル調査を始めます」
リサは頷き、静かな決意を表情に浮かべた。

 リサはスタッフの案内に従い、エレベーターに乗り込んだ。静かに閉じるドアの向こうで、ロビーの喧騒が遠のいていく。

 エレベーターが目的のフロアに到着すると、リサは降りて廊下を進んだ。
 人の気配は全くなく、遠くで聞こえるアナウンスと空調機器のビープ音が微かに響いていた。

 専用の更衣室で医療用スクラブに着替えた後、集中治療室へ入る。
 ICUの中は、生命維持装置のランプが淡く点滅し、一定のリズムで機械の音が響いていた。意識のない男がベッドに横たわり、呼吸器やモニターに繋がれている。
 リサは患者の状況を確認し改めて驚いた。昨日あれほど苦しそうにして、体のいたるところが悲鳴を上げていた男が、今は、ほとんど完全な健康状態で、安らかにも見える表情で、ただ横たわっているのだ。

「まるで天国に迎え入れられたような顔つきね、、」
「患者の状態は安定していますが、依然として意識は戻っていません。」
「不思議なことに、完全に身体は回復しているようね。じゃあ、サンプルを採取するわ」
 手早くサンプルキットを開けた。無菌の手順を厳守しながら、彼女は慎重に手順を進めた。綿棒を取り出し、患者の口内からサンプルを採取した。その後、もう一つの綿棒を使い、皮膚表面の菌を採取する。いくつかの手順を終えると、彼女は綿棒をサンプル容器に慎重に封入した。

 彼女は学生時代の授業や実験、研究員になってからの業務でも人や動物の身体を触り、病原体のサンプル採取を行うという経験を何度かしていた。
 だがやはり生き物、特に人間の体液を採取するというのは薄気味悪く不気味だ。

「これで完了です。サンプルは無事に採取できました」
スタッフは頷き
「こちらこそ、ありがとうございます。これが患者の回復に繋がることを願っています」
「私もそう願っています」
 リサは静かに答えた。
 彼女はサンプル容器をバッグに収め、再び深呼吸をした。集中治療室を後にし、リサはロビーに戻るために廊下を歩き出した。

 ほとんど人のいない集中治療隔離エリアに足音がそっと反響する。

 エレベーターを降りると、ロビーの明るさと騒がしさが、人間の生を感じさせた。
 町外れの墓地から活気ある中心部に戻っていくような感じであった。

 廊下を出ると、
「ねえピーターって男のことでしょ?」
 ロビーの戻ってくるリサを見つけて、女が声をかけて来た。あの身の程をわきまえない記者だ。
「失礼ですが、あなたは誰ですか」
「キャピタルタイムズの記者よ、メアリー・コールソン」
 リサは食い気味に名刺を渡された。
「謎の病気なんでしょ、教えてほしいの、早く記事にしたいし」

 残念ながら市長の助言は半分程度しか届いてなかったらしい。できることからやるという点では成長したのかもしれないが。

「あなたみたいな人もそんな有名な企業にいるのね、、」
「そうよ、それに私自由なの、上から命令もされないわ」
「多分、それ、呆れられてるのよ」
「知ってる。自虐したの」
「ああそうね、でも今のあなたの態度だと、私も、」
「説教は勘弁してよね。いやというほど聞いてるんだから。」

 この呆れるほど非常識な記者にリサも困惑した。

 ロビーの一角で彼女たちの話し合いが続き、病院はICUの監視から休憩に入る職員たち、診察を待つ患者などで賑わっている。

 その平穏さを壊すが如く、突然奥の方からから異常な轟音が鳴り響いた。
 スタッフが慌て、警備員が確認した
「おい!3階の集中治療室からアラート出てる。ピータースミスの部屋だ!監視員は何をやってる!」
「確認に行きましょう」
 彼らは集中治療エリアに駆けた。リサたちも気になってそれに続いた。

 ピーターのICUに辿り着いて目に入った光景に言葉を失った。厳重にロックされていたはずのICUの鋼製のドアが破壊されていたのだ。

 駆け寄って来たものたちが驚愕する。なんとピーターが消えていたのだ。
 厳重にロックされたICUの扉が無惨に横たわり、ヒンジやネジが散らかっている。中央付近で折れ曲がり、多くのへこみも見られる。

 状況的に見れば、これを破壊したのがピーターだという可能性が極めて高い。
武器や兵器になるような物はなく、ベッドから起き上がり、蹴破ったのか何度かタックルを仕掛けたのか、ドアを吹き飛ばしたのだ。
 だがそんなことがあり得るのか。

 一般的な成人男性が、ものを殴ったり蹴ったりする時に発生するエネルギーは数百ジュールとされている。それなりのトレーニングを受けたボクサーなりが木製のドアを蹴破ることは可能だろう。
 しかし例えば、厚さ5cm、面積3m²の鋼製のドアを吹き飛ばすのに机上の計算でもその100倍以上のエネルギーは必要になる。
 ヒンジやネジによる固定も考えれば、TNT換算で数百グラムの威力であろうか。40mmグレネード弾が炸裂した程の衝撃が加わったはずだ。
 生身の人間が生じさせることができる威力の値を優に超えている。

 通常の人間にはとてもじゃないが真似できるものではない。

 リサは自分の頭脳が持つ知識では理解の追いつかない状況に唖然としていた。
 現状の知識ではどうにも容認できない事態が発生している可能性が頭をよぎりある種の戦慄が脳内に広がった。

 一方でメアリーは宝を掘り当てたように感激していた
「これよ!ナイト・オブ・ザ・リビングデッドの始まりだわ!」

 外では数分前から急に雨が降り出し、雷が鳴っていた。

 破壊と凄惨を見せる混沌とした状況。恐ろしい悪魔が解き放たれてしまったようであった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ジョージタウン大学病院 地下駐車場
06:30 PM

 夕刻の静けさの中、捜査官アダムの車が地下駐車場への入口に向かってゆっくりと進んでいた。当初は面倒なことだと思っていたが、それでもやはりピーターのことが気になってはいた。
駐車場のスロープを下り始めると、車のヘッドライトが暗いコンクリートの壁を照らし出し、影が長く伸びていく。タイヤの音がコンクリートに響き、閉塞感が漂う空間に不穏な反響を与えた。

「妙に静かだな」

 ライトの光が、車両の間を次々と照らし出し、停車している車の影が不気味に動く。

 奥へと進んでいった。
 すると、
「んん、なんだあれは。全く、最近の酔っ払いは」
 病院着を着た一人の男がふらついて通り道を塞ぐように立っていた。

 クラクションを鳴らし、
「おい!君!どいてくれないか」

 その男が振り返る。
 そこにはピーターの姿があった。以前より少し筋肉質になったか、そんなふうに見えたがピーターに変わりはない。
「おい、スミスさんじゃあないか、こんなところで何やってる。昨日朝会ったろ、僕だよ!意識不明じゃなかったのか。とにかくそこをどいてくれ!」

 引き攣っているのかにやけているのか、不気味な表情で睨みつけている。ヘッドライトが反射して彼の目は夜の暗闇に紛れる猫のように光っていた。

「おいおい、なんだよ、返事をしてくれ」

 何か様子がおかしい。
 するとアダムを視界の中心に捉えたかのように一点を注視し、突如、勢いよくアダムの車の方に向かってきた。先ほどのふらつきはなくなり、しなやかな俊敏さを持った猛獣のように突進して来たのだ。
 静まり返った地下の駐車場に、その足音がコンクリートの床に重く響いた。

「くそっ、なんだあいつは!」

 基本的に動物は理由なく攻撃を仕掛けることはない。
 アダムを捕食対象のようなものとして捉えたのか。格好の獲物を見つけたような勢いだ。
 大きな雄叫びを上げ、車に飛びかかり、ボンネットを両手で思い切り殴りつける。衝撃で車が揺れる。足でライトを蹴り上げ、部品を飛散させ、火花を飛び散らせる。
そして車の部品を貪り出そうとする。
 いや、これは獲物ではない。この勢いは捕食のための挙動ではない。怒りと破壊衝動に駆られた攻撃だ。
 なんのためか。防衛反応だ。
 やつは今、ここら一体は自分のテリトリーだと言わんばかりに捜査官を迎え撃っているのだ。

 殴りつけ、蹴り飛ばす。猛攻により車体の金属が悲鳴を上げる。一部は折れ曲がり吹き飛ぶ。
 直後振るい上げた拳が窓を貫通し、ガラスの破片が飛び散る。

 一方でアダムもじっとしているわけにはいかない。わけもわからず何者かが走って襲いかかってくる光景は、瞬時にアドレナリンの分泌を引き起こす。この反応は闘争・逃走反応として知られ、緊急事態に対応するため、身体の各器官に一連の生理的変化を促すのだ。
 心拍数を上昇させ、血流を増加させ、筋肉に酸素とエネルギーを迅速に供給することで、体は即座に対応する準備を整える。
 心臓は激しく鼓動し始め、呼吸が浅く速くなる。全身の筋肉が緊張し、視界は鋭くなり、耳が一層敏感になる。人間という生物の戦闘準備が完了するのだ。
 FBIの訓練学校でのトレーニング染みついた緊急時の戦闘対処の記憶が、体に命令を与え、アダムの手が腰につけた拳銃へと瞬時に移動する。
 猛獣の恐ろしい咆哮が迫ってくる中、一瞬の判断で銃を取り出し、反撃を実行する。割れた窓の向こうへ銃口が向けられる。緊迫しながらも冷静に相手の顔の方へ向けた。

 そして、その獣がアダムの顔に掴み掛かった瞬間、一発の鉛玉が耳を劈く砲音と共に放たれた。

 しかし、弾丸は当たったが、獣の首の右側を抉っただけで、その後方を直進した。大きなダメージを与えられていない。

 すると獣は拳銃の威力と衝撃を認識し、このままでは自分が負けると理解したのか攻撃を中止した。首の傷を押さえながら、後ろ歩きでじっとアダムの目を見つめ、数歩下がり、振り返って素早く去っていった。お前の顔を覚えてやったという感じであった。

 アダムは即座に車外に降り、去っていく獣を狙ったが、定まらず諦めてしまった。
 その後、直ちに緊急連絡を呼びかけた。
「FBI、市警、応答してくれ!こちらアダム・クリアウォーター捜査官!コードレッド!暴行、損壊事件発生!現在位置はジョージタウン大学病院の地下駐車場、犯人は逃走中、至急応援を要請する!繰り返す、至急応援を要請する!」

 走り去っていったあの男の挙動はもはや人間のものには思えなかった。まるで解き放たれた怪物のように感じられた。

 わずか数分の出来事であった。しかし確実に、2つの生命の過剰な防衛反応による命のぶつかり合いは、駐車場全体にその余韻を響き渡らせていた。

(15分後)

 地下駐車場に響くサイレンの音が、コンクリートの壁に反響する。青と赤のライトが車の間を激しく明滅し、暗い駐車場の隅々まで照らしながら、数台のパトカーが地下に滑り込み、警官たちがすぐさま車から飛び出して現場に向かった。

「ここだ、急げ!」と、先頭に立った警官が叫び、部下が急いで黄色いテープを張り巡らせている。駐車場に停めてある車両を避けながら、慎重に現場に近づいていく。

 一人の警官がアダムの方へ走った。
「大丈夫ですか、捜査官」
「なんとかな、僕の車もそこにある。」
「犯人の特徴を我々と共有して、、あ、、こ、これは、!?」

 驚くのも当然だ。
 聞いていた話では、容疑者が車を執拗に叩いて車の中に手を入れて来たから、発砲し返し、容疑者が逃げたとのことだったのだ。
 車の状態は酷いと聞いていたが、窓ガラスかドアが破壊された程度だと思っていたのだ。

 しかしその車はというと、ボンネットはひどく歪み大きな亀裂が入っており、フロントグリルは破壊しつくされ、ヘッドライトの片方は完全に砕け散り、もう片方もひび割れて光を失っていた。 バンパーは無残に引き裂かれ、地面に落ちた破片が散乱している。エンジン部分も露出しており、配線がむき出しになっていた。フロントガラスに大穴が空き左のサイドミラーは吹き飛ばされていた。
 まるで戦地でミサイル攻撃を受けた車両のようであった。

 警官ならすぐに分かったろう。そこで起きていたのが、単なる喧嘩や暴行などではなく、大きな衝撃を生む戦闘だったということは。

「身長は170cmくらい、体格は一般的で、髪は金髪、短めの」
「本当にその男がやったのか、これを」
「ああそうだ」
「信じられない」
「信じられなくても、事実そうなんだ」

 騒ぎを聞きつけてリサとメアリーがやって来た。特にメアリーはこの大事件を自分の記事にできるかもしれないとはしゃいでいた。

 リサがその惨状に息を呑み声をかける。
「一体これは」
「ピーターというイかれた男が暴れたんだ」

 まさか、さっきまで昏睡状態で安らかに眠っていたあの男がそんなことをするなどと思いもしないだろう。
「もしかしてピーター・スミスさんのことですか」
「知ってるのか」
 驚くアダム。

 メアリーも会話に入ってくる。
「知ってるも何も私たち彼のこと調べるために病院に来てたのよ。この人はウイルス博士よ」
「ウイルスだと?それがあいつを豹変させたのか」
「まだわからないわ。サンプルを取ったから研究所に戻って確かめるの」

「それで、彼はどんな感じだったの?」
「やつをこの目で見た、あれはもう人間じゃない。僕の車を見ろ。ちょっと前までまで意識不明だった病人がやることか」
「普通に考えたらありえないわね」
「細菌博士なんだろ?そのサンプルのデータを確認したい。僕も一緒に研究所に行ってもいいか?」

「科学者に、FBIに、記者の私、アメコミヒーロー軍団の完成じゃん!」

 捜査官も細菌学者も記者も、考えてることは一緒だ。
 彼のことを知りたいと。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ワシントンD.C. デュポンサークル地区
アレックスの自宅
07:30 PM

 アレックス、ソフィア、ゼラがダイニングテーブルを囲っていた。どうやらアレックスは無事に帰宅できたようだ。
 ここには平穏な一家団欒を享受する家族の姿があった。
 ゼラが手料理で用意したスパゲッティ・ボロネーゼと、ソフィアのお気に入りのガーリックトーストが並んでいた。

 ソフィアは、ゼラの料理を楽しみにしている様子で、ニコニコと笑顔を浮かべながらフォークを手に取った。アレックスもまた、娘と夕食を共にできることに心が安らぐのを感じていた。そしてゼラはアレックスとこれからのことについて話し合いができることに嬉しさを感じていた。

「今日は特別にソースにバジルを多めに入れてみたのよ。」
「すごく美味しいよ、ママ!」
 ソフィアは満面の笑みを浮かべながら答えた。
「本当に最高だ」
 アレックスもこの上なく至福の時を楽しんでいる。
 ゼラの笑顔を見ると、アレックスの心も温かくなる。暖かい会話を交わしながら、ゆっくりと食事を楽しんだ。

 テーブルの上には、今日購入した猫の書類があった。
「パパ、見て、新しい家族だよ!」
「お、本当に買ってもらったのか、、、」
 少したじろいだ、昨日凶暴な猫に攻撃されたことが蘇り、少し咳き込んだ。

 だが、とにかくアレックスはこの幸せを噛み締めることこの上ない。
「改めて、僕は、君たちと一緒にいる時間が僕にとって何よりの宝物だ。」
 アレックスは穏やかな声で言った。
「君たちが幸せでいてくれることが、僕の一番の願いなんだ。」

「ありがとう、パパ。私もパパと一緒にいるのが大好きだよ。」
 ソフィアは優しく微笑んだ。

 アレックスはこの平穏な時間を大切にし、家族の絆を一層深めていくことを心に誓った。

 一緒に食卓を囲むというのは、古代から現代に至るまで、仲間や家族との繋がりを育む上で重要な役割を果たしてきた。この習慣は、文化的背景や時代の変化に応じて形を変えつつも、常に家庭の中心的な活動の一つとして存在して来たのだ。
 現代においては、特に多忙な生活スタイルやデジタル機器の普及により、揃って食事をする機会が少なくなってきた。だが心理学や神経科学の研究で、共に食卓を囲むことの素晴らしさが再評価されて来ている。
 例えば、家族が一緒に食事をすることで、オキシトシン、愛情ホルモンが分泌され、お互いをさらに親密にしようと働きかける。また、共同での食事はエンドルフィンの分泌も促進し、ストレスの軽減や幸福感ももたらしてくれる。さらに、食卓でのコミュニケーションは、子供の言語発達や社会性向上にも良い影響を与えてくれるのである。

 愛する者、親しい者と食事をする。この一見シンプル日常習慣が、家族、集団の絆の根底にあったのだ。

 だが、悲劇は再び起こるものだ。

 ちょうどゼラが将来についての話し合いをはじめようとしたまさにその時、アレックスのスマホに電話がかかってきた。ジョンからだ。
「おいおい、冗談だろ」
 ゼラは何か良からぬ予感を感じ取りアレックスを睨みつけた。

「ジョン、どうしたんだよ」
「今すぐ来てくれえ!猫の映像の件だ!」
「もう解決したろ?」
「残念ながら解決してないらしい。あの映像が、ああ、なんというか、猫を引き連れた男が僕たちの職場で暴れてる。イカれてるよ!とにかく、来れるなら、今すぐにでも来てくれ、あとで会おう!」
「一体何があったんだ」
 ジョンは電話を切ってしまった。

 電話が切られるとゼラが、アレックスの次の行動を予測し、先に阻止するように言った。
「だめよ。」
「でもジョンが、」
「マイケルがついてるじゃない。いい?今日は私たちと過ごすの、約束して、今、ここで!」

 今、家庭を持つこの男にとって、究極の選択が迫られている。仕事か、それとも、妻子か。さあ、どっちを取るのか。
彼の職名はNSAのサイバーセキュリティ担当官、そしてある種国家の非常事態になるかも知れないことが現在進行しているのだ。
 しかし職場における自身の立場を考えた場合、彼の職名は名ばかりで、代わりの人間はいくらでもいる。自分はいわゆるヒーローではないので、同僚が呼んでいるという制約を無視すれば、行かなくてもいいのだ。そもそも絶対に行かなければならないルールはない。打ちひしがれた市民が助けを呼んでいるわけでもないのだ。
 一方でこのまま夕食を続け、お互いに話し合い、関係が悪化しつつある家族と少しでも親密になれるチャンスが目の前に転がっているのだ。妻子は誰よりも好きだ、間違いない。いつの日か「君が幸せでいてくれるのが、僕の願いなんだ」と妻に語ったことも覚えている。お互い将来を話し合う時間を望んでいたはずだ。
 ただ一つ問題がある。話し合っても結局無駄に終わる可能性である。話し合いといっても単なる日常会話ではない。自分と相手の気持ちのぶつかり合いなのだ。アレックスとて現在の家庭環境が全て自分のせいだと降伏するつもりはない。それならば現状を維持し、友人の元へ行ったほうがいい。いやむしろ友人の元へ行くための自分に対する口実か。
 撤退し停戦か、対峙し決戦かを迫られたわけだ。

 彼の頭の中で錯綜する思いがしばらくぶつかり合った。そして決着したらしい。徐に服を着替え、妻の目を見た後、友人の元へ、夜の雨の闇の中に消えていった。
 2択の選択問題で彼は正解に辿り着いたのか、あるいは単に世の功利主義に従っただけか。

 ゼラはただ黙って、呆れと激怒を身体のうちに留めながら、夫を見届けた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
バージニア州ノーザンバージニア D.C.の南南西約55km
クアンティコ海兵隊基地
10:00 PM

 静まり返った世の闇の中、一際目立つ、無機質で冷たい建物群が聳える基地がある。ポトマック川の南岸に位置し、合衆国海兵隊が有する施設の中でも優れた基地であるクワンティコ海兵隊基地である。

 軍人や政府関係者が、2日後の独立記念式典でのテロ対策や、万一の要人救出任務の打ち合わせに追われている。飛行場では大統領を空輸する第1海兵ヘリコプター飛行隊が連日のように訓練飛行を行っていた。他にも厳重な警備、夜間の訓練に挑む軍学生、DCでのテロに対して常に待機している特殊部隊など、物々しい雰囲気が放たれている。軍事施設の温かみのない光が彼らを照らしていた。
 人々が寝静まった後も祖国のため生活を捧げる者たちの強かさを感じる。

 士官たちが出入りする建物の中で、緑や茶の迷彩パターンで彩られた海兵隊迷彩服に身を包み、ベレー帽を被り、サングラスをかけたガタイのいい黒人が、上級士官の待つ部屋へ入っていった。
「閣下、ドイツで動きがあったようです」
「そうか、まだ生きておったか、あのしぶとい老ぼれエクソシストめが」
「どうしましょうか、閣下。」
「大尉、君はしばらく私のそばに、つまりこの基地で君の通常の職務を果たせ。ああそれから今日"ジャガー"から連絡があってね、またハズレを引いたそうだ。」
「お言葉ですが閣下、あのスキンヘッドの男は信用なりません。あの男と連絡を取るときは必ず自分を通してください。」
「そう心配するな、大尉。ところで今日、新たな仲間を紹介したい。」

 後ろの方で椅子に腰掛けていた。軍服ではないスーツの女が、立ち上がりゆっくりと歩いてきた。不気味で冷酷な殺意を纏ったスパイのようであった。そしてこれまたサングラスをかけていた。

「彼女の名前は"ピューマ"だ」
 大尉は自分が話している相手がしていることに疑問を感じていた。
「"ジャガー"だったり"ピューマ"だったり、あなたは一体何をしようとしておられるんですか!」
 おそらく"ジャガー"だとかいうのはコードネームの類であろう。
「落ち着くんだ、大尉、時が来たら君にも説明するよ。」
「とにかく報告を終えたので、私はこれで、では失礼します。」
 大尉は自分の仕事に戻るため部屋を後にした。

 彼が去るのを確認した後、閣下が"ピューマ"に語りかける。

「どうやら私の計画の邪魔をする男がドイツからやってくるらしい。身の程をわきまない老いぼれだ。やつは必ずDCに来る、絶対にな。そこで任務を与える。やつを始末しろ。やつの資料は追って君に送る。」
「了解、閣下」

"ピューマ"は静かに基地を去っていった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ドイツ ハンブルグ市内
ハンブルグ空港
夕刻

 アメリカへ向かう一機の旅客機の中でアナウンスが流れる。
「本日はジャーマンイーグルをご利用いただき、誠にありがとうございます。本機、ジャーマンイーグル246便はまもなく、アメリカ、ワシントン・ダレス国際空港へと離陸します。」

 その機内にあの白髪の老人がいた。何かを祈るように独り言を唱えている。
「神よどうか我々をお守りください。アーメン。」
 すると隣に座っていた金髪の若い青年が小馬鹿にするように声をかけてきた。
「よお、おっさん、さっきから何ぼそぼそ言ってんだ、もしかして飛行機が怖いのか?」
「君は誰だね」
「俺はミハエル・クラインだ、よろしく!聞いたことない?ギタリストさ、これからアメリカを舞台に戦うのさ。」
「私もだ。悪魔との戦いだ。」
「悪魔って、、おいおい、それ良い設定だな。爺さん、実は俺たちも悪魔と戦ってるんだよ。」
 Dämonentöter-Söldnerと書かれた腕のタトゥーを見せてきた。ドイツ語で悪魔殺しの傭兵という意味だ。どうやら彼が所属するバンド名らしい。もちろん本当に悪魔と戦っているわけではない。ただの比喩だ。
 しかし老人の目からは、これから残忍な悪魔との戦いに参加するといったような覚悟と正義の念が感じられた。

 機内アナウンスが出発の合図を告げる。
「シートベルトを腰の低い位置でしっかりとお締めください。ワシントン・ダレス国際空港までの飛行時間は8時間15分を予定しております。ご利用の際は、お気軽に乗務員に声をおかけください。それでは、ごゆっくりおくつろぎください。」
「ジャーマンイーグル246へ、2番滑走路からの離陸を許可します」
「了解タワー、離陸します」

 飛行機が飛び立ってすぐ青年が聞いた。
「ところであんたの名前は?」
「ユリウス、、ユリウス・ハーゲンだ」

 彼ら"悪魔祓い師"たちを乗せた飛行機が夕暮れの空に飛んでいった。それは希望が沈む夜の闇に立ち向かっていくようでもあった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 いつの時代も人は英雄を期待する。行き詰まった世界に光をもたらしてくれる英雄だ。

 だが待つ時代は終わったのだ。待っていても来はしない。

 ならば誰がやるか。自らが立ち向かっていくしかないのだ。
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