(SS)アギト:Versus
文字数 2,934文字
黄色と赤に染められた袈裟 を羽織った男は、岩壁 の上で半目を開けて胡座 を組む。両手は丹田 の前に置き、右手の上に左手を添え、両の親指の先端を合わせている。岩壁は切り立っており、その遥か下では、空の色を映した暗黒の海が盛大な波飛沫 を上げ、全てのものを飲み込まんとしていた。
心を無にし、目に映るもの、耳に届く音すべてをそのまま受け入れる。
「アギト!師 がお呼びです!」
アギトは胡座を崩してゆっくり立ち上がり、声のする方 を向いた。
「ソエル、師の容体 は?」
「少し目を開 けて声を出されたくらいで、手足の自由は効かないようです」
「君は問題ないか? お腹が痛いと言ってたろう」
「はい。今朝 から痛みは止まりました。ただ、相変わらず右の脇腹が、心臓のように波打っています」
ふたりは岩壁を離れ、荒地 を進む。荒地には広大で底深い穴があり、その穴の中では大量の緑 の者が蠢 いている。その数、およそ数百。肉眼ではそれが元々誰だったのか判別できない。
通りすがり、背の低いソエルはその異様な光景をちらりと見て問う。
「僕の姉もこの中にいるんでしょうか」
「そうだろうな。あれから2か月、我々の他に話のできる人間は見つかっていない。師は村の全ての人たちを犠牲にして……私と君を守ったのだろう」
「なぜでしょうか。僕よりも役に立つ者がたくさんいたはずなのに」
「師に尋 ねてみよう」
古びた木材で構成されたバラックの簡易な戸を外して開 け、アギトは中へ入った。ソエルも静かに続く。
それほど広くない部屋、土の上に筵 を置いただけの寝床に、師は横たわっていた。
「師よ、私の言葉はお分かりですか」
「……うむ。儂 が瞼 を閉じてからどのくらい経ったのか」
「2か月ほどです。生存者はこのアギトとソエルの他におりません。皆 、師が波動 の力 をもって作られた深い穴に落ちて、今も底にて腐りながら動き回っております」
「お前たちだけでも生きていればよろしいことだ。儂は目を瞑 っている間 、精霊 を飛ばし世界中を見て廻 った。生きている者はごく僅 かだ。その中でも、今まで通りの身体でいる者はさらに少ない」
「今まで通りとはどういうことでしょうか。我々はそうではないと?」
師は一度、ゆっくりと目を瞑 り、しばらく唇を小さく震わせた後 、またゆっくりと目を開 いた。
「お前は答えを求めすぎる。本当はもう分かっているはずなのに、無闇 に他人 の言葉を必要としているのではないか」
「……失礼いたしました。確かに、私の中にも、ソエルの中にも、別の生命 が存在していることを感じています。そうだな、ソエル」
ソエルは右の脇腹を摩 りながら、黙って頷 いた。
「師よ、それでも一 つだけ教えていただきたい。なぜ私とソエルを選ばれたのですか?」
「お前たちは若い。新しい世界でも、後世へと向かうには男女が必要だ」
アギトとソエルは目を見合わせる。ソエルは顔を真っ赤にして素知 らぬ態度を取った。
「アギト。人が支配する世は終わりに近付いている。受け入れ、新しい世界で生きていくのだ。ソエルと共に」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
立ち尽くし緑の者たちの穴を見下ろすアギトの傍 に、ソエルがやって来た。
「師はまたお眠りになりました。心臓は動いています。あと……お腹も、やはり時々脈打つように動いています」
「そうか。では、師も新しい世界というのを受け入れたのだろうな。あの時、師から受け取った妙な薬が、我々の身体に何かを植え付けた。そうだとすれば、我々も新しい世界を受け入れるしか生きる術はなかろう」
ソエルはアギトの袈裟 を静かに掴 む。
「僕は……寂しいです。誰が悪いことをしましたか? 誰が人を傷つけましたか? 誰がこの地球 を傷つけましたか? 我々はただ、この地で静かに暮らしていただけではありませんか」
「ソエル、これが、この地球 の選択なのだ。我々は今まで生かされていただけだ。運命に身をゆ……」
『嫌だ!』
いつもと全く違う奇妙な声で叫び、ソエルは走ってバラックへ向かう。
アギトの右腹に鈍痛が生まれる。
何かが始まったのだ。
ソエルを追いかけて走るが、彼女は異様な速さで遠ざかっていく。
そしてバラックに到達する寸前、その古びた建物の天井を突き破り、異形 の生物が姿を現した。それはクラゲに似ていて、薄紫で半透明の頭と思われる部分に大きな眼球を一つのみ持ち、眼球は忙 しなく動いて辺りを見下ろし確認している。
巨大なクラゲの化け物から伸びたたくさんの細い脚に、ソエルが絡め取られていた。ぐったりとしているが、その手には料理に使うための包丁を握りしめている。師を攻撃しようとして逆襲にあったか。
「ソエル!」
アギトに気付いた薄紫のクラゲが、細く長い脚を伸ばしてくる。彼には攻撃の手段も防衛の手段も無い。横に飛んで逃げると、さらに他の脚が彼を追いかけてどこまでも伸び続ける。
荒地の茂みの中に隠れて呼吸を整える。新たに見つかるのは時間の問題だ。
頭に直接響く声。
『チカラガホシイノカ』
アギトはその瞬間、全てを察した。これが自分の中に植え付けられた生物の声で、この生物は心を読み侵食してくるのだ。
では心を切り離そう。簡単だ、いつもの通りに無心になればよい。
『……ザ…………ガ……』
立ち上がり、手と足の感覚を確かめる。不思議な力がみなぎってくる。
そしてアギトは巨大なクラゲを睨 みつける。もう恐怖はない。
冷静を保ったまま走り、近付く。一歩一歩、足で荒地を蹴るたび、ぐんぐんと速度が増していく。クラゲの細く長い脚が彼を絡め取ろうと迫ってくる。手刀 でそれを弾 き、さらに走り、跳 び、クラゲの内 へ突入した。
身体から重力が失われる。呼吸が出来ない。それでも手足に力 を込め、もがいて進み、おそらくこの生物の命の根源であると思われる紅 く光る珠 を見つけた。
それに触れようとすると、化け物の意識が流れ込んでくる。
『オマエタチヲスクッタノハワシダゾ! ソレニフレルナ!』
アギトは憐 れみの表情を浮かべ、両手を合わせるようにして珠 を潰した。
クラゲは甲高い悲鳴を上げながら、ゆっくりと頭部の頂 から崩壊して黒い塵 となり、風に攫 われて空へと溶けていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
かつて村のあった場所は、巨大で深い穴が開 いている。その穴の全てを見渡せる場所に座り、アギトは念 を唱える。緑色の彷徨 える者たちの身体から黒炎 が上がり、倒れて手足をばたつかせながらそれらは水分を失い、炭 と化した。
「アギト、これで終わりですか?」
「これは終わりではない。我々と侵略者 の戦いは始まったばかりだ」
血の気の引いた顔で、ソエルは右の腹を見せる。紫の生物が、まるで呼吸をするかのように膨 れ、縮 み、また膨れていた。
彼女の腹に、アギトは手を当てる。
すると生物の動きが止まった。同時に、ソエルの顔に色が戻る。
「ソエル、山を越え町に出よう。きっと私と同じように、この生物に打ち克 った者、あるいは、純白 無垢 の心を持った者が居るはずだ。侵略者 に抗 おう。不埒 な世界など創 らせてなるものか」
「はい。僕はどこまでも、アギトについていきます」
ゆっくり立ち上がり、優しくソエルの手を取る。
そして、アギトは力強く始まりの一歩を踏み出した。
〈アギト Versus 終〉
心を無にし、目に映るもの、耳に届く音すべてをそのまま受け入れる。
「アギト!
アギトは胡座を崩してゆっくり立ち上がり、声のする
「ソエル、師の
「少し目を
「君は問題ないか? お腹が痛いと言ってたろう」
「はい。
ふたりは岩壁を離れ、
通りすがり、背の低いソエルはその異様な光景をちらりと見て問う。
「僕の姉もこの中にいるんでしょうか」
「そうだろうな。あれから2か月、我々の他に話のできる人間は見つかっていない。師は村の全ての人たちを犠牲にして……私と君を守ったのだろう」
「なぜでしょうか。僕よりも役に立つ者がたくさんいたはずなのに」
「師に
古びた木材で構成されたバラックの簡易な戸を外して
それほど広くない部屋、土の上に
「師よ、私の言葉はお分かりですか」
「……うむ。
「2か月ほどです。生存者はこのアギトとソエルの他におりません。
「お前たちだけでも生きていればよろしいことだ。儂は目を
「今まで通りとはどういうことでしょうか。我々はそうではないと?」
師は一度、ゆっくりと目を
「お前は答えを求めすぎる。本当はもう分かっているはずなのに、
「……失礼いたしました。確かに、私の中にも、ソエルの中にも、別の
ソエルは右の脇腹を
「師よ、それでも
「お前たちは若い。新しい世界でも、後世へと向かうには男女が必要だ」
アギトとソエルは目を見合わせる。ソエルは顔を真っ赤にして
「アギト。人が支配する世は終わりに近付いている。受け入れ、新しい世界で生きていくのだ。ソエルと共に」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
立ち尽くし緑の者たちの穴を見下ろすアギトの
「師はまたお眠りになりました。心臓は動いています。あと……お腹も、やはり時々脈打つように動いています」
「そうか。では、師も新しい世界というのを受け入れたのだろうな。あの時、師から受け取った妙な薬が、我々の身体に何かを植え付けた。そうだとすれば、我々も新しい世界を受け入れるしか生きる術はなかろう」
ソエルはアギトの
「僕は……寂しいです。誰が悪いことをしましたか? 誰が人を傷つけましたか? 誰がこの
「ソエル、これが、この
『嫌だ!』
いつもと全く違う奇妙な声で叫び、ソエルは走ってバラックへ向かう。
アギトの右腹に鈍痛が生まれる。
何かが始まったのだ。
ソエルを追いかけて走るが、彼女は異様な速さで遠ざかっていく。
そしてバラックに到達する寸前、その古びた建物の天井を突き破り、
巨大なクラゲの化け物から伸びたたくさんの細い脚に、ソエルが絡め取られていた。ぐったりとしているが、その手には料理に使うための包丁を握りしめている。師を攻撃しようとして逆襲にあったか。
「ソエル!」
アギトに気付いた薄紫のクラゲが、細く長い脚を伸ばしてくる。彼には攻撃の手段も防衛の手段も無い。横に飛んで逃げると、さらに他の脚が彼を追いかけてどこまでも伸び続ける。
荒地の茂みの中に隠れて呼吸を整える。新たに見つかるのは時間の問題だ。
頭に直接響く声。
『チカラガホシイノカ』
アギトはその瞬間、全てを察した。これが自分の中に植え付けられた生物の声で、この生物は心を読み侵食してくるのだ。
では心を切り離そう。簡単だ、いつもの通りに無心になればよい。
『……ザ…………ガ……』
立ち上がり、手と足の感覚を確かめる。不思議な力がみなぎってくる。
そしてアギトは巨大なクラゲを
冷静を保ったまま走り、近付く。一歩一歩、足で荒地を蹴るたび、ぐんぐんと速度が増していく。クラゲの細く長い脚が彼を絡め取ろうと迫ってくる。
身体から重力が失われる。呼吸が出来ない。それでも手足に
それに触れようとすると、化け物の意識が流れ込んでくる。
『オマエタチヲスクッタノハワシダゾ! ソレニフレルナ!』
アギトは
クラゲは甲高い悲鳴を上げながら、ゆっくりと頭部の
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
かつて村のあった場所は、巨大で深い穴が
「アギト、これで終わりですか?」
「これは終わりではない。我々と
血の気の引いた顔で、ソエルは右の腹を見せる。紫の生物が、まるで呼吸をするかのように
彼女の腹に、アギトは手を当てる。
すると生物の動きが止まった。同時に、ソエルの顔に色が戻る。
「ソエル、山を越え町に出よう。きっと私と同じように、この生物に打ち
「はい。僕はどこまでも、アギトについていきます」
ゆっくり立ち上がり、優しくソエルの手を取る。
そして、アギトは力強く始まりの一歩を踏み出した。
〈アギト Versus 終〉