5月12日 月曜日 午後4時13分/伊原舜介

文字数 6,046文字

 ベッドの上で眼を覚ました伊原は、すぐに目覚まし時計を見る。いつもの習慣だ。目覚ましが鳴る五分前に起きられるかどうかが、その日の彼の健康のバロメーターだった。その日の

、といい直してもいい。きちんと五分前に起きることができた日は、なんでもうまくいくような気がした。
 しかし、そのとき見た時計は、四時十三分を差していた。
 伊原はあわてて飛び起きる。こんなこと初めてだ。一瞬、早すぎたのか、寝過ごしたのかの区別がつかなかったが、窓が明るいので、それが夕方の四時だとわかった。
 その時になって彼はようやくその日のことを思い出していた。
 バイクでの事故のこと、モウという男のこと、そして首に付けられたブラックボックスのこと。
 彼はあわてて首の後ろを触ってみた。
 ――ある。
 確かに四角くて小さな箱が張り付いている。
 箱から音は何もしないし、熱も帯びていない。
 本当にパソコンのキーボードのキーが張り付いているのでは? と思えるような感触だったが、それは確かにあった。
 つぎに自分の携帯を見る。置いた記憶はなかったが、それは部屋の真ん中にあるローテーブルの上に置いてあった。
 着信が三件あったが、すべて会社からだった。
 そりゃそうだろう。無断欠勤なんて入社以来一度もしたことがなかったのだ。そこでメールがきた日付を見ると、五月十二日になっていた。
 ――今日だ。
 伊原が改めて携帯で今日の日付を確認すると、五月十二日になっていた。
 あのモウっていう男は、今日は十三日って言ってなかったか? それもオレたちの恐怖心を煽るためのウソだったのか? 考えただけでも頭が痛くなってきた。
 あのクラウンにぶち当たって、このクソったれなブラックボックスを取り付けられ、そしてこの部屋で目が覚めるまで、たった一日のできごとだなんてとても信じられなかった。
 そこで彼は思い出した。
 あのモウから携帯をもらったのだ。あの時は尻のポケットに入れられたが、そこにはなかった。ベッドの下の床に、伊原が事故をした時に着ていた革ジャンがきちんとたたまれていて、その上に携帯が置いてあった。それほど古くない折りたたみ式の携帯だったが、よく使い込まれていて、空の洗濯機で何度か回されたみたいに傷だらけだった。
 彼はまず、メールを確認してみた。確かに着信メールがある。そのメールを開く。
 件名に『第一のサクリファイス』と書かれていた。下のメッセージを見ていくと、まず最初に名前が現れた。
『岩渕勝美』。
 ――女か?
 次に住所が現れる。
 ――埼玉?
 行ったことがない場所だった。
 期限は五月十七日、午前〇時まで。一週間後だ! 
 伊原は髪をかき上げながらため息をついた。
 それまでに自分が殺人者になってしまうなんて、とても信じられなかった。
 写真を確認してみると、見たことのない男の顔が映っていた。勝美といっても男だったのだ。三十代半ばぐらいか?
 写真はどこかのアパートから出てきたところで、ちょっと右向き加減の上半身が写った写真と、不精ヒゲまで確認できる顔のアップ写真だった。おそらくどちらも車の中から撮ったものだろう。不自然な光の写り込みが見えていた。
 確かに、まじめそうには見えないが、極悪人にも見えない。ガソリンスタンドで勤務していても、まったく違和感のない普通の男にみえた。
 そんな奴を殺せと――。
 伊原は頭を抱えた。そしてまたブラックボックスを確認してみる。
 ――やっぱりある。それも、しっかりと固定されている。
 彼はアンドーが苦しむ姿を思い返していた。
 あんなに人が苦しむ光景なんてはじめて見た。小さい頃に、近くのマンションから高校生の男が飛び降りた直後の血だまりを見てショックを受けたことがあったが、今回はそれどころではない衝撃だった。なにしろ眼の前で、それもそれまでまったく元気だった人間が、徐々に命の管を絞っていくように死んでいったのだ。まだあの脚の痙攣で床を引っ掻く『かーすっ、かーすっ』という音が、耳のすぐ近くで聞こえるような気がする。
 彼は携帯で、書いてある住所の最寄の駅を検索してみた。
 ――『南浦和』。
 なんの思い出も、思い入れもない街だ。
 そこでオレに殺人を犯せと? それも見ず知らずの人間を? 伊原はまた頭を抱え込んだ。
 とにかく会社に電話して、今日の無断欠勤を詫び、体調が悪いので二、三日休ませて欲しいと連絡した。電話にでた課長の吉田はいつもの大阪弁で、もう出てこんでエエでーと笑った後に、ま、ゆっくり休んで、人にうつらんようになったら出てきてや、といつになくやさしく声を掛けてくれた。
 伊原は礼を言って電話を切った。
 本当にこれは夢ではないのか? と考えたところで、彼は外に出てバイクの有無を確認してみた。
 ――やはりない。
 いつも置いてある自転車置場の指定場所には、彼のバイクから垂れたオイルのしみがあるだけだった。
 がっくりと肩を落として部屋に戻る。事故で壊れてしまったのだろうか? あれだけ大切に乗っていたのに――。
 そこで彼は、あのモウが送ってきたメールに『オレのバイクはどうなった?』と返信してみた。
 すると、それほど待つことなくメールが返ってきた。
――起きましたか? あのバイクは処分しました。
 本当にこのメールは、あのモウと繋がっているのだ。これは夢じゃないんだということを改めて実感していた。だとすると、オレは本当に殺人を犯さなければならないということか・・・・。
 まったく現実味のないことだが、あのアンドーの死という現実感のないことを、目の当たりにしたばかりじゃないか。もう何が起こってもおかしくないステージに、オレは立ってるのだ。
 ――わかった。じゃ、とにかく、殺人を実行することを前提にして、その可能な殺害方法をちょっと真剣に考えてみよう。
 まず、簡単に殺せそうなのは毒殺――。
 相手が死ぬ瞬間にその場にいなくても良いというのはとても魅力的だったが、その毒を相手に飲ませることがやはり難しそうだ。
 いや、待てよ。
 本当に毒を飲ませることがそんなに難しいのか? なにか方法はないのか? いつも口にするものとかを調べるとか、外食中にトイレに行くフリをしてさっと食べ物に入れるとか・・・・・・。
 ――彼は首を振った。
 そんなテレビドラマみたいに簡単にいくもんか。そんな時に限って絶対と言っていいほど誰かが見てるもんだし、食べ物とか飲み物に入れてさっと溶ける毒の知識だって皆無だし、そもそもそれが無味無臭なのかどうかもわからない。
 一度飲んでみるのか? 
 伊原は顔をしかめて首をふった。そんな知識も時間もオレにはないのだ。
 じゃ、駅のホームから突き落とす。
 ――いや。いまの駅構内にはカメラがあるし、運転手だって見ているだろう。それにその後に逃げ場がないのが恐怖だった。オレが対象者をホームから落とした瞬間に、近くにいたおばさんが「あんた! 何するの!」と非難するのと、電車の急停止の音が重なって周囲が騒然とする。
 そこでオレが逃げようとしてももう遅い。いち早く正気に戻った正義感あふれるサラリーマンの男たちによって、簡単に組み伏せられるだろう。想像しただけでも、彼は激しく首をふって否定した。
 どうしてこのオレが、したくもない殺人を犯して捕まらなくちゃならないんだ? それは絶対避けたい、と強く思った。
 そう考えていくと、なかなか難しいものだ。
 でも、やっぱり、ひと()のない夜道で、ナイフで対象者を刺す、そんな通り魔的な殺人しかないんじゃないか、と彼は思えてきた。いざとなったら本当に刺せるのか大いに疑問だが、場所は埼玉だし、その場所から逃げることができたなら、オレと被害者を結びつけるものはなにもない。
 まずバレないだろう。そのことに一筋の光明を見たような気がした。
 そのためには、現場の遺留品には気をつけなければならない。間違ってもオレに繋がるものを落としてきたりしたら最悪だ。とにかく現場へ行くときには服もすべて量販店で安物を買い揃えよう。ナイフもだ。百円ショップで売ってるような安物でいい。そう。とにかくそんなものを揃えるんだ。
 そうして彼が犯行に関してなにが必要になるかを書き出しているときに、モウから渡された携帯にメールがきた。
 登録されてないアドレスからだった。
 見ると、
 ――本当に殺人を犯すのか? とメールには書かれていた。
 メッセージはそれだけだった。
 しばらくの間、その〈殺人〉と〈犯す〉という文字をじっと見つめていた。
 他人に指摘されたからなのか、それが活字になっているからなのか、それまで

というものが

と結びついていなかったものが、急に現実的なものとなって彼に迫ってきた。自分自身に『殺人を犯す』ことの重さを感じさせるには、充分な力を持っているような気がした。
 いつまでもその文字を見つめていると、またメールがきた。
 ――いま、人を殺す方法を考えている最中なのか?
 面白がっているのか? 
 急に腹が立ってきた。
 確かに人を殺す方法を考えていたのは事実だが、それも仕方なくじゃないか! 嫌々なんだ! それをまるでオレが人を殺すことを楽しんでいる異常者みたいな言い方をしやがって!
『でも、誰だ? こんなメールをオレによこすような奴は――』
 伊原は、あの場にいた三人、モウ、シュウ、マーの顔を思い浮かべてみた。
 あの三人の中の誰かが、苦しむオレを想像して、ニヤニヤとした笑顔を浮かべながらこのメールを打っているのだろうか。
 もしかして三人一緒になって、小さい画面をのぞき込みながら(わら)っているのか?
「畜生っ! 畜生っ!」と携帯に向かって何度も毒づきながらメールを返信した。
『お前は誰だ?』
 すると返信はすぐにきた。
 ――協力はできないが、お前に同情している者だ。
『あの三人の誰かか?』
 ――私は、お前に同情する男。それだけだ。
『答えろ! お前は誰だ?』
 ――・・・・。
 メッセージが何も書かれていないメールが送られてきた。
 どうしたものかと彼が考えていると、またメールが来た。
 ――私に空メールを送らせるような質問はするな。空メール三回で、お前とのやり取りも終了する。いまのはおまけだ。これから三回。気をつけろ。
「畜生っ! なにを偉そうに!」と伊原は携帯を壁に投げつけそうになったが、どうにかそれを思いとどまり、相手への質問を考えてみた。
 ようするに、気分を害するような質問じゃなきゃ、応えてくれるということか?
 誰にも相談できない今の状況だったらありがたいかもしれない。
『わかった。でも、ニックネームでいいから、名前を教えてくれないか』と彼はメールを打った。
 返信メールはなかなか来なかった。
 彼はまた空メールが来るのかとひやひやしていたが、そう考えていた時にメールがきた。
 ――私はブギーマンだ。
 ブギーマン? ブギーマンってなんだっけ? 聞いたことがあるような、ないような・・・・。
 まあ、いい。そんなこと深く詮索しても仕方ない、と伊原はすぐにメールを返信した。
『わかった、ブギーマン。サクリファイスに関する質問はOKか?』
 ――質問による
『じゃ、してはいけない質問とはなにか?』
 ――・・・・。
 伊原は顔をしかめた。いまの質問では空メールを予想していなかっただけに、ちょっとショックだった。
 ――くだらない質問はやめろ。あと二回だ。
『岩渕勝美は知ってるか?』
 ――もちろんだ。最悪な奴だ。
『犯罪者か?』
 ――連続レイプ犯だ。
 連続レイプ犯か・・・・。
 伊原はもう一度携帯の中にあった写真をだしてみた。
 確かにそういわれてみると、一重の眼が酷薄そうだ。どんなに女が懇願しても、笑って許さないような、血を見るとますます興奮していきそうな、変質者に共通したにおいをプンプン感じるような気がする。
 ――なにも迷うことはない。ブチ殺せ! とブギーマン。
 そのとき伊原の携帯が鳴った。高山高太からだった。見ると、もうとっくに六時を過ぎている。彼はそのことに驚きながら、携帯にでた。
「高山です。まだ会社ですか?」
「いえ、今日は、ちょっと会社休んじゃいまして・・・・」
「そうなの? どこか体調悪いの?」
「いえ、そういうわけでもないんですけど・・・・」
「あ、そう。いやー、もう食事したかなと思って。だけど調子悪そうだから――」
「いえ、大丈夫です」と伊原はすぐに応えた。考えてみると、今日はまだ一度も食事をとってなかったのだ。
「どこですか? いつもの『レッド・バファロー』ですか?」
「やっぱ、あそこがいいよねー。どう? いい?」
「ええ。僕もすぐに・・・・、あっ」
「なに? どうしたの?」
「あの、バイク、いま修理に出してて」
「あれ、そうなんだ。じゃ、迎えに行くよ」
「え、そんなの申し訳ないです」
「いいよいいよ、どーせ通り道なんだから」
「そうですか? スミマセン」
「じゃ、いまからだと、七時過ぎでいいかな?」
「はい。お願いします」
「それじゃ、後でねー」と高山は携帯を切った。
 高山高太は売れない劇作家だ、と自分でそう言いながら笑っていた。伊原より五つ年上の三十二才だった。娘が二人ぐらいいるお父さんのような笑顔でよく笑っていたが、まだ独身だった。売れない劇作家なんて貧乏過ぎてとても結婚なんてできないらしい。
 そんな高山に声を掛けたのは伊原からだった。
 食事をしようといつものように『レッド・バファロー』にバイクを停めた時、すぐあとにバイクで駐車場に入ってきたのが高山だったのだ。
 彼のバイクはカワサキのKLX二五〇だった。それはすぐにわかった。もう半年も前からバイクショップで何度も見てきたのだ。伊原が乗っているスーパーシェルパは、同じカワサキでもどちらかというとアマチュア向けなので、彼もいつかはフルサイズのKLX二五〇に乗りたいと思っていた。それに、同じオフロードバイクでも、ヤマハのセローとかホンダのXRとかはよく見かけるが、カワサキなんて街中ではほとんど見かけたことがなかったのだ。そんな彼の一方的な親近感のせいで、後で高山が伊原の横のテーブル席に坐ったとき、頃を見計らって声をかけたのだった。
 まだそれから二週間ほどしか経っていなかったが、それからよくその『レッド・バファロー』で会った。今日みたいに高山から誘ってくることもあったし、伊原から声を掛けることもあった。『レッド・バファロー』に行くと彼がいた、というのもあった。そして、今度休日に一緒に走りに行こうと話し合うぐらいまでに親しくなっていた。女の子とだってこんなに急速に親しくなったことがない。それもこれもあの高山が憧れのバイクに乗っているせいだ。
 オレも近いうちにあのバイクを絶対手に入れてやるぞ、と彼は考えていた。
 伊原はブギーマンに『後でメールする』とだけ送って携帯を閉じ、外出する支度をはじめた。
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