5月13日 火曜日 午後4時32分/伊原舜介

文字数 2,690文字

 岩淵のアパートに着いてみても、先ほどとはなにも変わってなかった。
 しかし、冷や汗ものだな、と伊原は考えていた。あのまま喫茶店に長居していたことを想像しただけで恐ろしかった。ブギーマンは友人じゃないんだ。そのことをよく考えないと取り返しのつかないことになってしまう。
 結果的には岩淵が在宅している可能性を教えてくれたことになったが、もっと気を引き締めて行動しなくてはならない、と伊原は強く自分に言い聞かせていた。
 それにしても、隠れる場所がまったくないところだな、と岩淵のアパートのドアが見える場所から周囲を見渡してみて改めて思った。どの場所にしろ、五秒間立ち止まっているだけで充分怪しい。
 仕方なく、伊原は岩渕のアパートを通り越して歩いていった。そしてしばらく歩いてまた元に戻ってくる。そんなことを三回くり返してみたが、それもこの街では充分怪しい行動だった。
 ――四時四二分。
 運命の時間まであと七時間とちょいだ・・・・。
 伊原は迷った末に、また岩渕の部屋を調べてみることにした。先ほどは岩渕が外出中だと思い込んでいてわからなかったが、在宅かもしれないと疑ってもっと注意深く観察すれば、なにかわかることがあるかもしれない、そう思った。
 彼は帽子を目深に被り、念のため軍手もはめて、今回も音を立てないように気をつけながら階段を昇っていく。その途中、自転車に乗ったおばさんがひとり、前の道を通り過ぎていっただけで、他にはまったく人も通らなかった。
 二階に上がった所で手すりにもたれながら周囲を見渡してみる。ひょっとしていま岩渕が帰ってきやしないかと期待して、通りの先までじっと見てみる。だが、岩渕どころか、誰も歩いてはこなかった。犬もいない。ネコさえも――。
 その時ドアが開いて、なんと岩渕が出てきた! あの動画と違ってグレーのジャージの上下を着ていたが、見間違いではない。
 岩渕だ!
 伊原は手すりにもたれたままではマズイと思って、二階の一番奥の部屋に用事がある風を装って歩き出した。岩渕も頭を掻きながら歩いてくる。大きなあくびもしている。やはり大きい。
 伊原は一七二センチだったが、岩渕は優に一八五は越えているように見えた。
 すれ違う時に岩渕を横目で観察してみたが、岩渕はまったく伊原を見ていなかった。まったく関心がないようだ。ふり向くこともできずに、そのまま奥の部屋へと歩いていく。ふり向きたいのは山々だったが、なるべく怪しい行動は避けなければ・・・・。
「おい、アンタ」と背後で声がした。野太い岩渕の声だった。伊原は思わず眼をつぶる。
 やはり自分の行動が不審だったのか? 
 それとも、この服装か? 
 いや、そのどっちもか?
 伊原は息を止めて、ゆっくりとふり返ってみた。
「これ、アンタのじゃないの?」
 見ると、伊原のリュックが先ほど立っていた場所に置かれていた。岩渕がそれを指差している。
 伊原は礼を言って、そのリュックを取りに走った。そしてまた礼を言った。
 岩渕はにこりともせずに、そのまま階段を降りていった。
 なにやってんだ、おいっ! どんなミスでも命取りだって時に、もっと慎重にしろよっ!
 アパートの影に隠れて岩渕の様子をうかがってみると、彼は駅とは反対方向に歩いていくところだった。いつのまにか火の点いた煙草を手に持っている。ときどきそれを吸いながら彼は歩いていった。
 いま殺るのか?
 でも、あいつは憶えてないにしろ、顔を見られたのは痛かった。いくら今は顔を憶えてないにしても、今度近くで見かけたら偶然の再会を喜ぶとはとても思えない。自分の近くをうろつきやがってと怪しむに違いない。だからもうどんな些細なミスも許されないのだ。
 リュックからカッターナイフを取り出してズボンのポケットに入れた。いまから岩渕を追いかけていって、もし怪しまれたらそのままこのカッターナイフで攻撃しようかと思った。まだこんなに明るい時なんて計算外だったが、そもそもオレが立てた計画なんてこれまでうまくいった試しがないのだ。
 チャンスがあれば逃さない。伊原はそう覚悟した。
 岩渕は一度も後ろをふり返らずに歩いていって、一番最初の路地を左折した。それを見届けた伊原は急いで階段を降り、その曲がり角まで走っていって、そこから顔だけ出して岩淵の姿を探す。
 だが、彼の姿はなかった。伊原は速足で歩きながら、大きな通りまでいき、そこでまた顔だけだして岩渕の姿を探す。すると、右方向にあるコンビニの駐車場を歩いている岩渕の姿が見えた。
 さすがにその大通りでは隠れる場所がなかったが、岩淵はそのまま後ろをふり向かずに歩いていってコンビニに入っていった。
 伊原はいま歩いてきた道を頭の中に思い描いてみて、どこか岩渕に襲いかかることが可能な場所があったかどうかを確認してみた。すれ違いざまに、というのは無理だ。さっき見かけた奴がまた前から歩いてきたら、どんな鈍感な奴でも怪しむだろう。あいつなら気がつかないかもしれないが、怪しむ危険性があるなら、そんな賭けはできない。
 だったら物陰に隠れていて岩渕が通り過ぎたあとに後ろから近づいていって一気に頚動脈を・・・・。
 それも難しそうだった。第一、隠れる物陰がない。車だって一台も止まってないし、電柱も細いコンクリート製で、とても隠れることが可能な太さじゃない。
 伊原は迷っていた。やはりまだ明るい時間というのが一番のマイナスだった。こんな場所で、こんな時間に、どんな風に殺人を犯せばいいのかさっぱりわからなかった。
 やはり夜まで待つのが得策か・・・・。
 ここであわてて失敗してしまったら何にもならないのだ。
 伊原はいま来た道を戻り、岩渕のアパートも通り越し、道を歩いてくる岩渕からは見えない場所にいて、とにかくいまはあの男が帰ってくることを確認しようと思った。そして、夜の外出を待つのだ。
 夜になれば、あいつだってすれ違ってもわからない可能性は高い。そこでチャンスをうかがってひと思いにあいつの頚動脈を――。
 いや、この人通りの少ない通りと、大きな体格をもった岩渕。そんな条件を考え合わせると、やはり正面からは無理で、当初から考えていた背後から頚動脈を切る、というのが一番成功しそうな気がした。
 岩渕が戻ってくるのに一時間ぐらいかかったが、彼は手にコンビニ袋をぶらさげて自分の部屋に戻っていった。袋の中身はいろいろと入っているみたいだったが、確認できたのは焼きソバのカップ麺だけだった。
 岩渕がもどってしまうと、また元のように静寂が支配する死んだような街に戻っていった。
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