5月13日 火曜日 午後7時27分/岩渕勝美

文字数 12,108文字

 ため息をつくたびに、なにか大切なものを吐き出しているような気がする。
 夢か? 
 野望か? 
 どっちにしろ、もうため息をつくのをやめようと、何度心に決めたか知れない。だが、俺はいまだにため息ばかりをついている。いったい俺の人生は、どこから狂っちまったんだろう、と岩渕勝美は考えていた。
 高校二年の時に万引きをして捕まり、自主退学になった時から人生が狂ってしまったのはわかっている。でも、

狂っちまったのはそこじゃない。もっと以前から、俺の人生は狂っていたのだ。
 どこだろう。
 秋田でも有名な進学校に進学した時か? 
 それとも中二の時に、父親に半ば強制的にラグビー部を退部させられた時か? 
 いや、もっとさかのぼって、両親から可愛がられる弟が産まれてしまった時からか? 
 それとも俺が産まれた時に、すでに優秀な兄貴がいたからか? 
 そもそも父親が、俺が産まれる前から医者にすることを決めていた、もうその時からすでに俺の人生は狂っちまっていたのか?
 岩淵勝美はテレビをぼんやりと観ていた。いつもそうだ。なにか目的があるわけじゃない。観たい番組なんてこれといってないのだ。だけど、いつもテレビは点けている。点いてないと不安だからだ。
 せめてテレビで気分をまぎらわしてないと、今みたいにくだらないことをグダグダと考えてしまうし、その結果、また何をしでかすかわからないからだ。
 だからテレビはいつも点けている。出かける時も点けっぱなしだ。それだけでも帰ってきたときに少しでも不安が抑えられるのだ。
 だがしかし、と彼はまた考えてしまう。これを考えてしまうと、また女を手当たり次第にレイプしたくなってしまうのだが、結局彼はまた考えてしまう。呑み過ぎると酒乱になる奴が、充分に反省した後に、ほんの少しだけと呑んでしまってまた呑み過ぎてしまうように、彼もまた考えてしまっていた。
 

? と。
 名前すら忘れてしまったが、俺を婦女暴行犯に仕立て上げた、あの女が俺の人生を台無しにした元凶なんじゃないのか? と――。
 岩淵が高二の時、万引きをして自主退学に追い込まれ、父親から勘当状態となった。
 とにかく、オレにそのツラを見せるな! 秋田からすぐに出て行け! と父親から足げにされ、汚い言葉で罵倒された。そこで逃げるように上京して、パチンコ店の住み込みから新たな生活を始めたのだ。
 東京にはすでに医大に通う兄がいたが、彼は父親の厳命により、一切面倒をみてはくれなかった。昔から父親に逆らったことがない兄だったのだ。
 パチンコ店に勤めている人やその客などはこれまで会ったこともない人種だったが、意外にみんなやさしかった。住み込みのアパートでちょっとした歓迎会を開いてくれた時に、秋田から来たと自己紹介すると、「確かにオメーはナマハゲっぽい」とか「オレはきりたんぽが好きだ!」とか、「ねぶた祭りに行ってみてー」とか、秋田とは関係ないことでもよくからかわれたりした。
 以前の岩淵なら、その教養のなさにうんざりしていただろうが、すべてに見放され、母親とさえも連絡がとれなくなっていたその時は、相手が誰であれ、そうやって相手にしてもらえるだけでも嬉しかった。それぐらい人に飢えていたのだ。
 そういう時だったからこそ、俺は安易にあんなクソみたいな女の罠にはまってしまったのだ、と今でも思っている。
 最初に声を掛けてきたのはあの女の方だった。パチンコ店での仕事を済ませ、アパートへ帰る前にいつものようにコンビニに寄り、遅い夕食を買い、外へ出たときに声を掛けてきたのだ。
「ねえねえねえ」と女は最初から笑顔だった。
 付き合い始めて二週間目ぐらいの、まだまだ新鮮さの残る彼女、みたいな笑顔だった。悪いことに、岩淵はその笑顔が大好きだった。付き合って半年も経った女の笑顔なんてもうダメだ。私の言うことをちゃんと聞いてれば間違いないのよ、みたいな、まるで母親にでもなったかのような笑顔になってくる。あくまでも女は、遠慮がまだ残る、二週間目ぐらいの笑顔でずっといるべきなのだ、と岩淵は常々思っていた。
 そんな彼も、魅力的な笑顔で目の前に立つ女を見て面食らっていた。
 これまで女の子の方から気軽に声を掛けてくるなんて経験はなかったし、目の前にいる女がまたとびっきり可愛かったのだ。これまで見た秋田のどの女よりも色が白く、栗色の髪も指を突っ込んでみたくなるぐらいサラサラでツヤがあり、びっくりするぐらい大きな目も、その大きな瞳も、雑誌の表紙でしか見たことのないような女の子だったのだ。まだ俺と同じ十代。いっていても二十代前半だろう、と岩淵はふんでいた。
 彼はすぐにとびっきりの笑顔をつくって女を見た。
「なんですかぁ?」
 女の背が一五五ぐらいでそんなに大きくなく、岩淵が百八十五を超える長身だったので、彼は腰を屈めるようにして、彼女に満面の笑顔のまま顔を近づけた。そして、その笑顔のまま、彼女の返事を待つ。背が高く、中学時代にラグビーをしていただけあって体格もがっしりして男っぽかったので、結構自分に自信があったことも彼を大胆にさせていた。
 だからそういう態度にでてきた岩淵に、女の方も面食らったみたいだった。でもまたすぐに笑顔に戻ったが、残念ながら、ちょっと緊張した笑顔になっていた。友達に紹介されたばかりでまだ自己紹介もしていない時の笑顔だ。でもまたそれも可愛いっ!
「あ、遊ばない?」と女はその笑顔で言った。
「誰と?」
「私と」
「今から?」と岩淵は周囲を見渡した。
 もう十一時過ぎなのだ。
 辺りの街は眠る準備をはじめてゆっくりと呼吸を整えているみたいに静かだった。
「そう。いまから。――ダメ?」と下から見上げて小首を傾げる姿を見た岩淵は、なんて可愛いんだ! と絶叫したい気分だった。今すぐにでも背骨もあばら骨もぐちゃぐちゃに折れるぐらい抱きしめてやりたい、と本気でそう思った。まだほんの二種類しか彼女の笑顔を見ていないのに、岩淵はもうその女の

だった。
 岩淵が喜んでOKの返事をすると、女はすぐに岩淵の手を引いてラブホテルへと向かった。まだ名前も訊いていないのだ。さすが東京の女は違う、と岩淵は感激していた。まどろっこしい段階を踏まなくても、一足跳びでラブホテルまで到達できるのだ。それもこんな可愛い娘と!
 もちろん岩淵も、これが恋愛関係だとは思っていない。行為が終わればいくらかのお金を要求してくるだろう。今の所持金は確か二万三千円ほどだ。こういう場合の相場はまったくわからなかったが、その金額で、それもホテル代も込みでOKなんだろうか、と女に手を引っ張られながら、漠然と考えていた。
 多少足らなくても勘弁してもらおう。なにしろ誘ってきたのは彼女の方なのだ。
 ラブホテルは女が選んだ。部屋も〈ブラックホール〉という一万二千円もする部屋を女が勝手に選んだ。その他にも〈ジュピター〉とか、〈アンドロメダ〉とかいうちょっと安い部屋もあったが、そのあまりにも迷いのなさに、岩淵はこの娘は部屋代を自分で負担するつもりなのだろう思ったほどだった。
 でなければ、あと一万一千円しか残らない。それでもOKなのだろうか?
 多少不安にもなったが、彼女は嬉しそうに岩淵と腕を組み、慣れた様子で部屋へと先導していった。もう岩淵には止められなかったし、止めたくもなかった。なるようになれだ、と彼は覚悟を決めていた。
 部屋に入ってみると、当然ながらそこは宇宙のブラックホールがイメージされているらしく、壁も天井も真っ暗で、天井には星をイメージしたLEDが瞬いていた。
「キレイねー」と歓声を上げながら、女は岩淵から離れてベッドに飛び込んでいった。そして、ベッドヘッドに取り付けられたスイッチを操作している。それにあわせてテレビが点いたり、部屋の照明が明るくなったり暗くなったりしていた。
 ラブホテルが初めてだった岩渕はひどく緊張していたが、とても楽しそうな彼女を見ているとその思いも消し飛んでいた。その時になってようやくまだ彼女の名前を聞いていないことに気づいた。
「名前は?」
「私?」
 女はまだベッドのスイッチをいじりながらすぐに名乗った。いまではその名前すら忘れてしまったが、驚いたことにその時聞いた名前が本名だったのは後で知った。
「歳は?」
「十七」
「え? じゃ、俺と一緒なんだ」
「えーっ!」と女は驚いてふり向いた。
「アンタも十七なの?」
「そうだよ。嘘偽りなくね」
 岩淵が得意げにそう言うと、女は明らかに失望した顔をした。年上好きなのか? と岩淵は思った。
「てっきり、二十四、五だと思ったのにー」と女は残念そうだった。
「ま、経験は二十四、五並みだよ」と岩淵は胸を張った。
 女はそれには興味がなさそうに「へー、そーなんだー」と言った。ベッドに伸ばした脚を交差させていて、いまはその脚を見ていた。
 岩淵がベッドの端に腰を降ろした。
「え?」
 女が驚いたように岩淵を見た。
「あ、シャワー。シャワー浴びてきてよ」と女があわてて言った。
 それはその女が見せた三種類目の笑顔だったが、岩淵はその笑顔は気に入らなかった。浮気している女のアパートへ、連絡も入れずに突然訪問した彼氏に見せる笑顔だ。
 女はなにかを隠している。もしくは明らかに嘘をついている。
 岩淵は構わずベッドの上にあがって、女に近づいていった。
「え? なに? シャワー浴びないの?」
「ああ」と岩淵は女を見て、にやりと笑った。
 なにかのフェチを隠し持ったいやらしい男の笑顔のつもりだった。
「俺はヤル前に、シャワーを浴びるのは好きじゃないんだ。このままやろうよ」
「え? 無理、無理、無理、無理ーっ!」と女は近づいてくる岩淵を押し退けようとする。
 しかし、一五五センチ程度の女に、一八五を越える男を押し退けられるわけがなかった。岩淵はそのまま女にキスをしようとした。だが、女が横を向いて顔をしかめながら、また「無理、無理、無理ーっ!」と抵抗したので、彼はその細い顎をつかんで顔中を舐めまわすようなキスをした。
「いやーーーっ!」と女が強く抵抗したので、岩淵は笑いながら顔を離した。
「ね? 焦らないで」と女は懇願するように言った。
 岩淵がそれ以上近づかないように、両手で彼の厚い胸板を押さえていた。
「時間はたっぷりあるからね? ね?」
 その笑顔も岩淵には気に入らなかった。心がまったく離れてしまった女が見せる偽りの笑顔だ。内心苛立っているのが見てとれる。
 岩淵は女の服に手を掛けた。
「え? なに? もう脱ぐの?」
 岩淵はゆっくりと肯いた。
「でも、まだ会ったばかりだしー、もうちょっと・・・・」
「脱げよ」
 岩淵は冷淡に言った。
「それとも破いて欲しいのか?」
「わ、わかったわ。わかったから乱暴はしないでね」と女は早口で言った。
 どうしてこの女はこんなに落ち着きがないんだろう、と岩淵は疑問に思っていた。多少落ち着きがないのは岩淵も一緒だが、まったく性質が違うように思えた。
 なにが違うんだろう?
 女が観念したように、チェックのブラウスのボタンを外していく。上から順番にひとつずつ――。
 もう岩淵には、わざとゆっくり外しているようにしか見えなかった。
 この女がオレを愛しちゃいないのは当然だろうが、それでもその行為は許せなかった。急に自分が毛嫌いされているように感じた。
 岩淵は女のブラウスに手をかけて、一気に引き裂いた。ぱらぱらっとボタンが弾け飛ぶ。
「ヒイイィッ!」と女は小さく悲鳴を上げた。
 大きく目を剥いて、本当に驚いているようだった。岩淵は構わずに下着に手をかけてそれも引き裂く。
「ヒイイィーーーーッ!」と女が悲鳴なのか、単に息を吸い込んだのかわからないような声を出す。
 そのとき部屋がノックされた。街で知らない人に道を尋ねる時のような、控えめなノックだった。
 岩淵が女を見る。女も岩淵を見ている。
 ――もう一度ノック。
 今度はちょっと大きくなっていた。
「ちょっと見てくるね」と言って破れた服を押さえながら、女がドアへ向かおうとした。
 そのとき岩淵はすべてを悟った。ドアを開けたら、待機していた男が入ってくるのだ。だからこの女はあんなにもしつこくシャワーを勧めたのだ。その間に男を部屋へ招きいれるために。そして「オレの女になにをする!」的なチンケなセリフで俺を脅して、持っている金を、いや後日借金をさせてまでも、ふんだくるだけふんだくろうとしていたのだ。
 だから部屋は金額に関係なく、どっちが払うのかの確認もしないでとっとと選んだのだ。その何十倍もの金を、オレから脅し取るために――。
 一瞬にして、岩淵の目の前が真っ赤になった。そしてベッドから降りようとした女の腕をつかんで引き倒した。そこで女が悲鳴を上げる。
 岩淵はその倒れた女に乗っかって、残っていた下着をすべて思い切り引き裂いて素っ裸にした。
「なにすんだよーっ!」とこれまで訊いたことのない低い声で女が叫ぶ。
 すると、少し待ってからノックが急に大きくなった。それどころか、ドアの外で男が叫んでいた。
「テメェー、開けねーか! コノ野郎! ただじゃおかねーぞ! ゴラァッ!」とがなり立てている。
 岩淵も急いで裸になり、腕で胸を隠すようにして身体を横に向けていた女を無理やり正面に向かせた。そこで女が本格的に悲鳴を上げた。これは

じゃないんだ。この男は本気なんだと、その時はじめて理解したようだった。
 その悲鳴を聞いて、男が狂ったようにドアを蹴り飛ばしていた。
 しかし、ラブホテルのドアは頑丈にできているようで、そんな蹴りではビクともしないようだった。
 岩淵は女の陰部に唾を塗りたくって無理やり挿入しようとするが、うまくいかなかった。女が腰を退いて逃げるからだ。
 岩淵は女の顔を平手で張り倒した。それは女のこめかみに当たって鈍い音しかしなかったが、女を黙らせるには効果があった。それに逃げる腰を止める効果も――。
 女は泣いていた。泣き顔を隠そうともせずに、子供みたいに泣いていた。
 岩淵はまた自分の手に唾を吐いて、女の陰部に塗りつけ、そして腰を持ち上げるようにして挿入した。
 今度はするすると中に入っていった。
 女は泣いている。どれだけ激しく岩淵が腰を動かしても、女は岩淵から顔を背けるように横を向いて泣いていた。
 そのとき鍵を開ける音がした後にドアが開き、すぐに男が飛び込んできた。
 黒い柄シャツに白いジャケットを羽織っていて、微動だにしない細かいパンチパーマをかけているという、見るからにヤクザ者だった。二十八、九だろうか。
 男は女の上に乗っかっている岩淵に向かって、いきなり飛び蹴りを食らわした。ベッドの向こう側に落ちた岩淵の上に今度は男が乗っかって、ボコボコに殴った。
 しかし、すぐに男は押しのけられた。男の身長は一七五センチほどあり、ひき締まった精悍な体格だったが、岩淵に軽々と押しのけられたので、深くプライドを傷つけられたのだろう。立ち上がるときに、ジャケットの内ポケットからジャックナイフを取り出し、岩淵を睨みつけながら刃を出した。そのとき男は素っ裸でいる岩淵の下半身を見た。まだ半ば勃起している肉茎がぬらぬらと濡れていて、ムカつく光を放っている。
 男はベッドの上にいる女に目を向けた。女はこちらに背を向けるようにしてまだ泣いていた。身体を丸めるようにしていたので、いつも男が愛して止まない陰部が丸見えだった。そこから太ももにかけてもぬらぬらと濡れているのを見て、ヤクザ者は眉をひそめた。
「テメエ、許さねえ」
 男は低い声で言った。余計に不気味だった。
「ぶっ殺してやる」
 ヤクザ者は目の前にいる岩淵に向かってじりじりと間合いを詰めていく。岩淵はプロレスラーみたいに両手を高く上げて身構えている。
 こんな時はボクシングのファイティングポーズか、空手の構えをする奴がほとんどで、こんな一見胴体部分が無防備に見える格好をする奴なんてはじめてだ。体格もでかいし、ナイフを見てもひるみもしねえ。こりゃ性根を据えてかからないと返り討ちにあうぞ、とヤクザ者は考えていた。
 驚いたことに、そのプロレスラーの格好のまま、大男の方から近づいてくる。
 こいつにはこのナイフが見えてないのか? それともただのバカなのか? それともよほど腕に自信があるのか?
 ――それにしても、どうしてあいつはこんな化け物みたいな奴に声を掛けたんだ? とヤクザ者は舌打ちしたい気分だった。
 なんかあいつが感じる魅力でもあったのか? もっと考えて行動しろよな、こん畜生っ!
 そのとき岩淵がつかみかかってきた。あっと声を出す間もなく、ナイフを持った手がねじ曲げられる。
「痛テテテーッ!」とヤクザ者はすぐにナイフを放した。そのまま横向きに倒され、岩淵が上に乗っかって首を絞めてきた。そんな岩淵をこぶしで殴るがまったく効果がない。
 ぐぐぐっと首の奥から音がして、ヤクザ者が過去に背後から刺されたとき以来の死を覚悟した時、ようやく警官が駆け込んできた。
 警官はまず女を見た。女は泣きながら警官を見る。顔をしかめて女に近づこうとして、ベッドの向こう側で男が争っているのに気づいた。
 警官はすぐにヤクザ者の上に乗っかっている大男を押しのけようとするが、岩淵は動かなかった。ヤクザ者の首を力いっぱい絞めている。
 ヤクザ者が白目を剥いているのを見た警官は、岩淵の首に左腕を巻きつけて無理やり引き離そうとする。そこでようやく岩淵も苦しさのあまりヤクザ者から手を放し、今度は首に巻きついていた警官を投げ飛ばした。
 その時になってようやくその投げ飛ばしたのが制服を着た警官であることに岩渕は気づき、急に大人しくなった。
 まだ彼も警官の制服を見ても構わずに暴れるほど荒んではいなかったし、それにその時の彼は、非は女にあると思っていた。確かに俺も悪いが、騙してきたのはコイツらなのだ。
 だが、制服の警官は、岩淵に警棒を向けて身構えている。軽々と投げ飛ばされたのがよほど頭にきたのか、いまにも殴ってきそうな勢いで警棒を構えている。たとえ拳銃を抜いてでも、ここから一歩も逃さないという強い決意が見えるようだった。
 ベッドでは女がまだ泣いていた。白い尻はまだ小さくて少女のようだった。床ではヤクザ者が首を押さえてむせている。
 いい気味だ。自分の女にこんなことさせて、恥ずかしくないのか! となじってやりたかった。こんな風に女を利用しないと金も稼げないのか! と罵倒してやりたかった。
 でも、まあいい。
 こっちは被害がないわけだし、俺の寛大な心で今回ばかりは許してやろうじゃないか、そう岩淵は考えていた。
 やがて制服を着た警官がもう二人やってきて、岩淵は連行された。その扱いはまるで岩淵の方が加害者みたいだったが、それも仕方ないだろう。この現場を見た判断ならば、誰でも俺が加害者だと思うに違いない。後でちゃんと説明すれば、すぐに俺が被害者なんだということがわかるに決まってる。そうすると、いま、俺の腕をつかんで強引に引っ張っていく、あのぶざまに投げ飛ばされた警官は、あわてて俺に頭を下げて謝ってくれるんだろうか? もしかすると、速攻で土下座してくれるかもしれない。
 そんな光景を想像するとおかしかった。俺に対する扱いが雑であればあるほど、後で見ることになるであろうジャンピング土下座をする姿とのギャップの大きさに、彼はニヤニヤと笑みを浮かべていた。
「何がおかしいんだ?」と警官が睨みつけてきた。本気で怒っているみたいだった。
「いえ」と岩淵は顔を真顔に戻して首をふった。
 でもすぐにこの男が土下座する姿を想像してしまったので、また笑みがこぼれそうだった。岩淵は服を着て警察署へ連れて行かれるまで、ずっとその笑みをこらえる顔をやめることができないでいた。
 だが、やがてその笑顔が凍りつき、しだいに怒りに変わっていくまでにはそう時間はかからなかった。

 取調室で岩淵がなにを訴えても、彼はずっと犯人扱いだった。ヤクザ者に対する暴行と、婦女暴行、それに公務執行妨害。もう岩淵がなにを主張しようと、罪状は決められていた。彼がなんと言おうと、なにも変わらなかったし、警官はなにも変えようとはしなかった。変える気もないようだった。とくに警官を投げ飛ばしてしまったことが、彼らの心証を相当悪くしたようだった。
 取調室に入ってくる警官がすべて最初から彼を敵視していた。なにも用がないのに、いきなりドアを開けて睨みつけていく私服警官もいた。取調室に訪れる警官にすべて同じことをくり返し説明しても、なにも変わらない。いつまで経っても、どれだけ説明しても、そんなことを訊いているんじゃない、という態度だった。やがて彼がその説明にも疲れて黙り込んだとき、目の前に、警察官が作成した調書が差し出されてきて、そこにサインをするようにと言われた。
 読んでみると、まったく岩淵の主張とは別のことが書いてあった。あれだけ何度も説明したのに、事件は警察の方で勝手に創作されていたのだ。
 その調書によると、岩淵が強引に女を誘ってホテルに入り、無理やり女を強姦していたときに、助けに来たその女の彼氏ともみ合いになった。そこへ駆けつけた警官にも抵抗し、全治二週間の傷を負わせた、ということになっていた。
 岩淵はその調書を突き返した。話にならないし、俺の言うこととまったく違うじゃないか、と訴えた。
 そのとき取調室にいた年配の私服警官が、いろいろと文句はあるかもしれないが、この調書だと婦女暴行と公務執行妨害で終わりだよ。これにサインしないと、男に馬乗りになって首を絞めたってことで、殺人未遂もつけられちゃうよ、と言った。そうすると、ま、お前が未成年でも、五年は堅いなー。それも執行猶予なしで。だが、この調書にサインするなら二年がいいとこだろう。それも執行猶予付きでな、と裁判を受けるまでもなく、すでに刑が確定しているような言い方だった。
 岩淵はその話を聞いている間中、ずっとその年配の警官を睨みつけていた。
 しかし、なにも言えなかった。蜂の巣の中でどれだけ蜂を非難しても、単に蜂を刺激するだけなんだと、この数日間でよくわかっていた。ここでどれだけ文句を言っても、今はこいつらが支配する警察署の中なのだ。
 岩淵は一晩考えさせてくれ、とだけ言った。サインするのはわかっていたが、言われるまますぐに応じるのは嫌だったのだ。それが唯一残された彼のプライドだった。まだそんなプライドにこだわるほどに、当時の俺もまだ純粋で若かったんだな、と彼は缶チューハイの空き缶を潰しながらにが笑いした。

 翌日、彼はその調書にサインした。そしてあの年配の警官が言ったように、懲役二年と保護観察付きの執行猶予一年半という判決が下った。
 しかし、彼はまったく納得いってなかった。なんで俺が罰を受けなくちゃならないんだ? 聞けば、アイツらは厳重注意を受けただけで、なんの罰も受けていないそうだ。
 そんなことってあるか? そもそも俺を騙そうとしたアイツらが悪いんじゃねえのか。確かに俺のは過剰防衛だったかもしれないが、仕掛けてきたのはアイツらなのだ。それがなけりゃ俺は何ひとつ罪を犯していないのだ。なのに、罰せられるのが俺ひとりだけなんて・・・・。
 秋田の両親へ連絡がいったが、駆けつけてきたのは母親だけだった。すでに事件のあらましはあの調書に沿って聞かされていたようで、母親は会った時から泣いていた。そんな罪を犯すような息子に育ててしまった自分をずっと責めていた。少しも、息子が犯した犯罪に疑問を持っていなかったし、問いただしてくることもなかった。はなっから息子が犯したこととして、自分が深く反省していた。だから岩淵も母親にはなんの釈明もしなかった。目の前で泣く母親の姿を冷めた目で見つめているだけだった。
 母親が身元引受人となった上での保護観察だったが、秋田に戻って両親と同居とはならずに、彼が知らないうちに母親が南浦和にアパートを借りていてくれていた。
 当然、顔も見たくないという父親の考えだろう。
 当然ながら、パチンコ店はクビになっていた。彼は保護司の紹介でファミレスで皿洗いのアルバイトをはじめることになり、その後しばらく真面目に働いていた。だが、どこから聞きつけたのか、コックをしていた唐木(からき)という男が、休憩室にいる時に岩淵に声を掛けてきた。
「お前、レイプ犯なんだってな」
 唐木は二十五、六歳だった。岩淵と同じぐらいの長身だったが、ギスギスに痩せていた。クスリをやっているからだ、ともっぱらの噂だった。
 岩淵が驚いて否定も肯定もできずにいると、唐木は岩淵に向って大きく口を開けながら「ハアアアアッ!」と息を吐いた。タバコの煙も大量に吐き出されてきた。それが親しみを込めた彼独特の笑い方だというのは後で知った。シフトの違いであまり唐木と顔を合わせることもなかったし、彼と話したのもその時がはじめてだったのだ。
「気持ち良かっただろ」と唐木。今度はタバコの煙を口に含みながら、にんまりと笑った。
 岩淵は唐木を睨んだ。
「誰に聞いたんだ?」
「勘違いすんなよ」唐木は笑ってタバコの煙を深く吸い込んだ。「オレは

レイプ犯だ」
 そう言ってまた「ハアアアアッ!」と息を強く吐きながら笑う。
「連続?」
「ああ。もう二十人を超えちまったよ」
 目を剥いた。二十人? と叫びたいところだったが、彼は黙っていた。
「捕まったことはないのか?」
「ない」と唐木は言い切った。
「一度もな」
 岩淵は黙り込んだ。やはり不公平だ。こいつは二十人もやっちまって捕まったこともないのに、オレはたった一人、それも射精もしてないのに前科者となり、やつらは無罪放免となった。岩淵はそれがどうしても許せなかった。
 唐木は立ち上がって自分のロッカーから黒い鞄を持ってきた。そしてタバコを灰皿の上に置き、中から電気カミソリみたいな器具を取り出して岩淵に手渡した。
「やるよ」
 唐木はタバコを手にとって、一口吸った。
「スタンガンだ。知ってるか?」
「名前だけは」
「試してみろよ」
 ボタンを押してみると、バチバチッと二本の金属棒の間を青い稲妻が走った。
「腹にはするな。悶絶するぜ」
 唐木はそう言ってから、また「ハアアアアッ!」と笑った。
 岩淵は自分の左腕に金属棒の先を当ててからスイッチを押してみた。
「ンガッ!」
 唐木は長い手を叩いてオランウータンみたいに笑った。
「お前、強えーなー! それを腕に当ててそんなに痛がらない奴、はじめてみたぜ」
 スタンガンを当てたところを見てみると、黒く焦げたような跡が残っていた。
「最近、これを持ってる女が増えたんだ」
 唐木は迷惑だと言わんばかりに顔をしかめながら小さくなったタバコを思いきり吸い、灰皿に投げ捨てた。
「これもそんな女からせしめたやつだ。お前にやるよ」と、唐木は岩淵の肩に手を置いて、気安くトントンと叩きながら笑った。
「それで女を脅すんだ。それでもダメならバチッと一発やってやりゃ、誰だってネコみたいに大人しくなるもんだよ」
 そう言って唐木は立ち上がり、最後にまた岩淵に顔を近づけてタバコ臭い息を吐きながら「ハアアアアッ!」と笑ってから立ち去っていった。
 その後、岩淵はあの女のことを思い出してむしゃくしゃすると、街へくり出して女を物色した。そしていつも狙うのはあの女に似た女だった。肌が白いだけでもいい、なにかひとつでもあの女との共通性が感じられるものがあれば、彼は誰彼とかまわず狙った。
 そうしていると、すぐにレイプをした数が唐木を超えた。もうその時は別の職についていたので、唐木に自慢したくてもできなかったが、一度走りはじめた彼の勢いはとどまるところを知らなかった。もうあの女に関係なく、彼は手当たり次第に女を強姦していった。女が夜道を一人で歩いているのを見ると、無理やり強姦されるのを心待ちしているのではないか、とさえ思うようになっていた。
 しかし、勇気を出して警察に届けでる奴がいるのも確かだ。次第にパトカーとか自転車とかで、町をパトロールする警察官の姿をよく見かけるようになってきた。そんな時に、彼は妊婦を狙うといいということを覚えた。あいつらは腹にスタンガンを当てるとまず抵抗しなかったし、旦那に気兼ねするのか、警察に訴えるということも少なかった。それに旦那との愛の結晶でもある腹のガキにオレのをぶっかけるという感覚が、またなんとも言えず気持ち良かった。昔で言うなら、踏み絵にションベンをぶっかけるような快感、とでもいうのだろうか。
 だから後半はほとんど妊婦ばかり狙っていた。だが、妊婦の中にもすごい奴がいて、腹にスタンガンを三回受けてもまだ抵抗し、結局諦めたのもいた。まあ、その時は、代わりに顔をボコボコにしてやったが――。
 岩淵の思考を遮るように、誰かがドアをノックした。
 八時過ぎ――。
 妙にくぐもった音だったので、なにかの音と聞き間違えたのかと思ったが、今度ははっきりとノックの音が聞こえた。
 岩淵は眉をしかめた。こんな時間に訪ねてくるなんて、なにか負い目がある奴に決まってる。新聞の勧誘か? でなければ宗教の勧誘か? それとも保険屋か? いずれにしろ、こんな時間に訪問してくるなんてろくな奴じゃないと思った。
 もう一度ノック――。
 岩淵は思考がいきなり止められたことで機嫌が悪くなっていたので、さきほど潰したチューハイの缶をドアに向って投げつけた。
「うっせーんだよ! クソ野郎っ! とっとと失せやがれ!」
 そうすると勧誘者が逃げていく音が聞こえた。鉄製の階段をあわてて降りていく。いい気味だ。岩淵はそのぶざまな姿を想像しながら新たにチューハイの缶を開け、ポテトチップスを口の中に放り込んだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み