第1話

文字数 2,460文字

「ねえ。殺してくれない?」
 ホテルの一室。カーテンからこぼれる日差しを浴びて、進藤由利子はベッドの中でそう言い放った。隣にいる田沼真司は、面倒くさそうに寝返りを打ちながらキャメルをくわえる。
 いつものルーティンだ。田沼は煙草を吸わない。不倫相手である由利子のために敢えて吸わない煙草をくわえるのも、彼なりのパフォーマンスの一つであることを由利子は承知していた。
「聞いてるの? 私の旦那を殺してよ」
 甘えるような口ぶりで、もう一度繰り返す。
「馬鹿言うなよ。本気で言っているのか?」田沼は気だるそうに顔を向けると、キャメルをくわえたまま、「僕に殺人犯になれとでもいうつもりかよ。冗談じゃないぜ」
 口からキャメルを取り上げると、由利子はそのまま火をつける。呆れた田沼は仕方なくといった顔でベッドサイドにある灰皿を手渡した。
「真司、私と一緒になってくれるんでしょう? この前言ってたわよね、『君が旦那と別れたら、僕もすぐに離婚して君と結婚する』って。ウチの人、全然離婚に応じてくれないの。だ・か・ら、私たちの幸せの為には死んでもらうしかないのよ」
 さらに甘えた声で田沼の肩に手を回す。彼は寝返りを打ちながら逃げるように背中を見せた。
「ああ、憶えているさ。……だが殺人となれば話は別さ。課長なんて殺せるわけないだろう。どんなに上手く殺(や)ったところで、すぐにお縄になっちまうさ」
「臆病ね。私たちのために殺人の一つでも犯してやろうって気構えは無いわけ?」
「簡単に言うなよ。もし殺したとしても、課長は俺の直属の上司だ。すぐに疑われるに決まっている。警察に捕まったら一緒になるどころじゃないだろう? 馬鹿も休み休み言えよ」
 田沼はベッドから抜け出すと、そのままスーツに着替える。由利子は毛布を足元に追いやると下着すら着けていない躰を隠そうともせずに煙を吐いた。
「……今度はいつ会えるの? 週末は家族サービスがあるから無理なのよね」
「これでもマイホームパパで通っているんでね。仮面夫婦も楽じゃないさ」
「どうだか。本気で私と一緒になる気あるの? 今更私と別れるなんて言ったら、奥さんに全部しゃべっちゃうからね」
「判ってるって。今、外堀を埋めている所だ。その気になればこっちはいつでも別れられる。問題は君の方だよ。由利子」
 だが、由利子も薄々感じていた。田沼が本気で離婚する気なんて無い事を。
 隠しているつもりだろうが、時々、隙を見ては奥さんにメールをしていたり、子供の写真を眺めていることを知らないとでも思っているのだろうか。しかし由利子には田沼を諦めるという選択肢はなく、身も心も彼に捧げる決心をしていたのだった。
 夫である智樹とはもう三年以上も夜の営みはなく、夫婦関係は完全に破綻していた。向こうは仕事人間で家庭を顧みない性格だったし、由利子の方も愛情に飢えていることを自覚している。
 そんなある日、智樹が部下の田沼を家に招待した事があった。しばらく三人で飲んでいたが、智樹に仕事の電話が入り、長時間二人きりになった時。どちらからともなく唇を重ねてしまったのだ。
 寂しさを抱えていた由利子が恋に落ちたのは、もはや必然だったと言えよう。
 向こうが遊びであることは最初から承知していた。田沼は家庭を持っていることを隠そうとはしなかったし、由利子の方も家庭を優先させてきたつもりだった。
だが、不倫という禁断の果実に手を出した代償は決して小さくはなかった。いけないと知りつつ、深い関係となり、取り返しのつかないところまでのめり込んでしまった。今更智樹とやり直そうなんて気はこれっぽっちも無い。
 かといって田沼もこのまま本気で離婚するとも思えない。こうなったら、いっそ智樹に死んでもらい、それを盾に田沼と一緒になるしかなかった。二人の関係を示す証拠は写真やメール、愛の言葉を盗み録りしたボイスレコーダーまで、いくらでも揃っている。例え田沼が本気じゃなくても由利子から逃れることなど出来ない自信があった。
 着替え終わった田沼は何かを思い出したようで、由利子に向かって言葉を投げかけた。
「……そういえば、知り合いから殺し屋の話を聞いたことがある。詳しくは知らないが、何でもかなりの凄腕らしい」
「殺し屋? そんなのフィクションでしょう。実在するわけないわ」
 くだらないとばかりに否定するが、どうやら田沼は本気らしい。
「いや、本当にいるらしいぜ。いくらかかったか知らないけど、実際にその知り合いも頼んだことがあるみたいなんだ。今度ダメ元で連絡先を訊いてみるよ」
「期待しないで待っているわ。でも実在するとすれば面白いことになりそうね」
 由利子はわざとらしく舌なめずりを見せると、そのままベッドから立ち上がって火照った躰を田沼に押し付けた。
「あなたに会えないと寂しいわ。もし、その殺し屋に旦那を殺させたら、次はあなたの奥さんと子供を頼もうかしら。もしかしたらセット割引とかあるかも」
「スーパーの特売品じゃないんだから。そんなこと頼まなくても課長がいなくなればきちんと離婚するって」田沼は鞄を持つと、ベッドに近づき、念を押すようにいった「じゃあ、営業周りの途中だから、これ以上遅くなる訳にはいかない。またこっちから連絡するよ」
 二人は熱いキスを交わすと田沼は部屋を後にした。
 一人になった由利子はサイドテーブルにある飲みかけのワインを飲み干し、彼の置いていったキャメルに火を灯す。
「……殺し屋ね。馬鹿馬鹿しいとは思うけど一度会ってみたいわ。まさかゴルゴ13のデューク東郷みたいな人じゃないでしょうね」
 窓辺に腰掛け、煙を吐きながら独り言をつぶやく。気だるい躰に鞭打ってバスルーム入り、軽くシャワーを浴びると、先ほどの情事を思い出しながら着替えを済ませ、ホテルを後にした。
 夕食のメニューを考えながら昼下がりのタクシーに乗るころには、殺し屋の事など頭からすっかりと消え去っていた……。
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