第1話

文字数 1,256文字

 東京にあって(山形県)庄内にないものの一つにガード下の呑み屋がある。
 ここ日本で有数の米どころ庄内は、土地は広く、羽越本線は庄内平野を南北に走る。別に鉄道を高架にする必要もなく、よって庄内にはガード下という空間がない。
 私はガード下の呑み屋の空間が好きだ。狭い限られたスペースに、酒とつまみを求めて人が集まる。お互いに歳も生まれも育ちも経験も、価値観も生き方も理想も異なる人たちが、酒とつまみの一点で繋がり狭い空間で時間を共有する。
 不思議なことにガード下の呑み屋では、一人であってもスマホをいじっている人は滅多にいない。客同士で話すことはあっても名乗ることも自己紹介もない。
 よって仕事の話も専門性の高い話もない。もしするなら誰もに共通する、誰もが参加できる話題が暗黙の了解になっている。天気、景気、野球、サッカー、競馬、相撲、政治(東京都知事選挙や総理大臣の選挙など)などである。
 私は職業柄、自分の目線が知らない間に高くなって、しかも田舎のバカ殿になってはいないかを確かめるためにも、この雰囲気を大事に楽しみにしている。

 写真は以前行きつけだった上野のガード下の呑み屋である。2013年8月19日の朝、開店準備中の店を許可を得て撮影した。

 この店が提供する日本酒の燗酒(かんざけ)は凄い。目の前にコップがトンと置かれる。大将が魔法瓶に入った燗酒をドボドボドボと無造作に注ぐ。おっとっと…、と思う間もなく表面張力で酒がコップの縁から盛り上がったところでピタッと止まる。しかも凄いのはカウンターの中からどの位置に置かれたコップにも手を伸ばして注げるのだ。魔法瓶を逆手に持っても注げる。その凄技(すごわざ)を見た時は、大いに感動した。
 ある日、このことを知らない客が啖呵(たんか)を切っていた。
 「この店は、コップ酒の受け皿がない。本当はコップから(あふ)れるくらいに景気よく注ぐもんだ、ったく。」
 「あいよ、お客さん。」
 ドボドボドボドボ。大将は無造作に酒をピタッと注いだ。酒がコップから盛り上がっている。
 「…。」
 「こぼしたらみっともねえなあ。」
 「お父さん、気風(きっぷ)がいいから大丈夫だ。」
 「受け皿を用意しますか?」
 ほかの客から発言が相次いだ。
 啖呵を切った客はコップに手を伸ばした。コップを持ち上げた瞬間、液面は波立ち、酒がこぼれた。手がぶるぶると震えていた。
 勝負は一瞬でついた。
 店は何事もなかったかのようにいつもの空間に戻っていた。
 啖呵を切った客が帰った後、私はどうやったらそのコップ酒をこぼさなないで飲めるかをず~っと考えていた。
 「燗酒をひとつ。」
 「あいよ。」
 ドボドボドボドボ。
 私は形振(なりふ)りをかまわず身を乗り出して手は使わずに、置かれたコップの縁に口をつけ、ズルズルズルズルと日本酒をすすった。コップの上縁から5㎜ほど酒をすすった後、おもむろにコップを持ち上げ手元に置いた。客たちは見て見ぬ振りをして何も言わなかった。(やった~っ!)と、心の中でガッツ・ポーズを取った。
 ただそれだけのお話、お終い。
 んだ。
(2022年5月)
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