煙の文様

文字数 1,998文字

「今日はこの木の植え替えをして。失敗して枯らしたら承知しない」

その高齢の女――柳忍(ヤナギ シノブ)先生は煙草を吸いながら窓辺の大きな観葉植物の鉢を顎で指した。やり方は自分で調べろ、と煙を吐く。私は雇われの身で主は忍先生だ。黙って従う。承知しないと言ったって今の先生に何ができる? と思いながら。

勤め先が倒れた、と同窓の友人に話したらこの仕事を紹介された。「忍先生が短期の手伝いを探している」。友人は卒業後、母校の事務室に職を得ていた。「ヘビースモーカーの『あの』先生、随分前に定年退職した」。
紹介状を手にお宅に伺ったら、先生が咥える煙草に火を点けるよう求められた。ライターの扱いに四苦八苦しながら応じたら採用された。
業務は先生の身の回りの世話、家の片付け。短期でというのは近く介護付きの住まいに移る予定があるから。それに備えて膨大な私物を一行李まで減らせと指示された。

「あなた、私のゼミにいたんだ? ハ! なら私がどんな人間か知っているね? 都合がいい」

そう、先生は私を忘れているが、私は先生が昔どんなだったか知っている。大理石の彫刻のような顔立ちに鋭く睨めつける瞳、絶対に上を向かない口角。年齢不詳の冷酷な美女だった。
ネチネチとした厳しい追求で男女関係なく学生を泣かせ、研究室はいつも煙草の煙が濛々、よって評判は最悪。けれど私は柳ゼミに入り、先生に認められようと、1円も稼げない学問にのめり込んだ。報われないと分かって燃やす熱情は際限がなく、終わらせるタイミングを見失うものだ。


観葉植物の植え替えを始める。鉢から土ごと木を外し、根をほぐす。傷つけないように細心の注意を払う。そして今より一回り大きな鉢に移す……。

「この木は手入れをすれば長持ちする。こいつも20年以上生きている」

安楽椅子に座って私を監視していた先生が作業を見に来た。先生の顔が近づく。長期喫煙者の顔貌だ。皺が深くシミが多く、息からはヤニと歯周病の匂い。昔と変わらないのは鋭い眼差しだけ。それなのに目を離せないのは、自ら自身の容姿を壊した人特有のふてぶてしさがあるからか。
先生が昔話を始めた。

「あなた、K教授を知っている? この木は私があの人の還暦祝いに贈ったもの。でも彼の葬式で娘さんから返された。『母もわたしも長い間苦しみました』ってさ。私はこいつを抱えて帰った。喪服にパンプスで」

あの娘はわざわざこのデカい木を斎場に持ち込んで私を待ち構えていたのよ、ハ! と先生は笑った。私は土をいじる手を止めた。先生はこんな話に私が驚くと思っているのか? 舐められたものだ……そう考えたら言ってしまった。黙っていると決めていたことを。

「知っています、K教授と先生が研究室で逢っていたところを一度だけ見ましたから。ドアの隙間から。でも誰にも言ってない」

私の反撃に先生は瞼を一瞬持ち上げた。でもそれはすぐにすっと下がり「どこまで本当か」と探る目つきになった。私は続けた。

「先生は立派な下着を着けてましたね、黒いレースの。誰にも言っていないのは本当。私は先生に出世して、教授になってほしかったから」

そこで先生はまた、ハ! と笑った。お前がバラしたとしても私は教授になっていた、とでも言いたげに。実際にそうだろう、それはわかる。
と、不意に、笑っていた先生は急に真顔になり、ガサガサした声で私に囁いた。

「あの下着、まだ持っている。あなたに譲ろうか?」

虚をつかれて私はギョッとした。それを見た先生は満足げな表情をし、「嘘。もう捨てた」と唇を歪めた。


徹底的にやれと命じられた片付けが終わったのはそれから半月後。最後の日、先生はやはり煙草を手に出発を待った。やがて迎えが来たとき、先生は赤帽さんに「この木は積まないで」と指示した。そしてニヤニヤしながらこう言い残し、タクシーに乗って去った。

「あなたの卒論を思い出した。内容は甘いが熱意は良かった。――頑張ったご褒美にこの木をあげる。生かすも枯らすも好きにしな」

私は鉢を抱えて帰った。クソ、何がご褒美か、これは嫌がらせだ。
けれど私も「やった」。先生はあの下着は捨てたと言ったが嘘だ。箪笥の一番奥にあった。タグには「オーバドゥ」。それを今日の荷物に混ぜた。
荷解きのときに見つかって職員に呆れられればいい。それをその目で撥ねつければいい。ハ! って……そうしたらまた、男でも女でも、あなたに惚れる変わり者が現れる。

新しく見つけた職場から帰り、先生が残した木の世話をすると思い出す。
女子学生だった私がレポートの相談をしようと先生の研究室のドアを開けた……その時に見たもの。揺らめく煙草の煙の向こうにいたK教授と先生を。煙が描く複雑な文様をまとう先生の肌、それを艶めかしく透かしていた黒いレースを。
そして想像する。ドアの隙間をすり抜け、流れる煙を伝って部屋に滑り込み、先生にそっともたれる私を。
目を閉じて、思い出すように想像する。
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