三日坊主

文字数 2,451文字

 はたして、三日坊主というものは悪いことなのだろうか。
 先に述べておく。これは言い訳である。「思いつき」という、誰が見ているかもわからない私の独り言を何か月も放置していた自分自身に対しての贖罪である。同じ境遇の人が読んでくれているなら、自信を持って答えよう。三日坊主こそ、最大の努力の結晶である。
 継続は力なり。それへの反抗になることも前述しておこう。
 第一、継続することの難しさというものは誰よりも理解している、と全員が実感しているだろう。五十歩百歩の愚民たちである。もちろん、私を含めて。
 その継続を突き詰めた人たちこそ、真に歴史に名を残していることも認めよう。彼らは才覚に富んでおり、それに加えて苦痛を伴わない歓喜の継続を永続的に行っている。そんな連中に勝とうなど、努力ごときで叶うわけがない。何もかもが違う。楽しみながら勉強する者に対して、苦痛を味わいながら勝とうなど。浅はかであるからだ。
 少しの脱線があった。つまり、少なくとも成人してまで大きな夢を見つけられなかった人が、昔から楽しんでいる人相手に挑むのは酷いものであるということだ。それと三日坊主がどう関係しているか。訝しんでいる読者がいるかもしれないが、それは繋がると信じている。いま、何の熟考もなく書き連ねているので、ただ、信じるのみである。
 これより、三日坊主を称える敗者の弁を行う。
 結論から述懐すれば、僅かに汲んだ経験というものは思いがけないところで思い出し、微力な道具として使うことが出来る。これが本当に強い。つまり、浅く、広くである。
 自分の経験から説明しよう。その経験が実際の証明になると信じて。
 私は弓道部というものを一週間ほどで辞めた。練習している時、面倒に感じたから。そして、その隣で青春がごとく、快活にラケットを振っているテニスというスポーツに浮気心を抱いてしまったからだ。少し三日坊主とは離れているが、僅かな期間しか行わなかったという点から、同意であると仮定する。その判断は各々で決めてほしい。
 その弓道に対する知識というものは浅はか極まりない。なんせ、実際に弓を的に引いたことなどない。ましてや、弓道に関する知識も欠落している。そのため、ここで弓道については一切が語れない。それを聞いて、なら無駄な時間を過ごしたのではないか。そう考える人もいると思う。もちろん、その意見に否定しない。むしろ、正しいとすら思ってしまう。なんせ、継続を欠いたこと、はたまた辞めたことで力を失ったのだから。
 だが、この経験というものはあらぬところで発揮されることになった。これが私の言いたいことである。私が、三日坊主を肯定する理由である。
 弓道部としての活動は、輪ゴムを何重にも厚くしたゴムを一生懸命に、何度も引くことだった。それは苦痛であった。そんな感想は度外視して、何度もゴムを適切な形で引くことで、実際の弓に対して正しいフォームになるためだった。そんなこと、退部した後だと意味をなさない。と思っていた。役に立ったのは早熟で、テニス部でサーブの練習をしていた時である。弓道部を退部した翌日に入部したテニス部の時である。さぞ、弓道部の先輩達には迷惑をかけた。なんせ、翌日には隣のコートでラケットを振っているのだから。裏切り者に等しい行為である。
 テニスの経験はなかった。文字通り皆無である。遊びでラケットすら握ったことなかった。そのため、想像通り、ひどいものだった。体力に自信があるわけでもなく、コートを縦横無尽に動く瞬発力もない。それに筋力も悲しいものだ。ボールは何度も空振りを行った。最弱の部員である。それでも、一つだけ自慢があった。それがサーブである。私のサーブは、自分でも説明できないのだが、なかなかに豪速であった。幼児からラケットを握っていた人でも、時折、ボールを返すのに苦戦していたくらいだ。小さな自慢である。その唯一無二の特性を秘めたサーブの根源は、弓道部であったと実感している。ますで意味のなさない二つの事象。それが、思わぬ形で報われたのである。
 サーブを打つ前、私はいつも弓道部で行っていたゴムを引くポーズになった。これは癖になっていた。ルーティンのように毎度やっていたら、自分でも驚嘆するくらいにボールが一定の高さを維持できた。手が、腕が勝手に理想の高さに投げたのである。自分で意図的に行ったものではない。だが、それがかえって球の威力を底上げた。そして、驀進の快速を手に入れたもう一つの要因は腕の力である。私は決して、元より筋力に富んでいたわけではない。それは保証しよう。筋トレもなおざりにしていた。そのため、体力測定の際に、数字として筋力が向上したことが不思議であった。だが、思い返せば弓道部に起因していたのだと確信した。弓道というものは、非常に腕の力が必要なのである。それは想像すれば容易く理解できるであろう。張る弦を維持しながら矢を引く。そして、その尋常にならない張力を維持して、正確に的にめがける。そして、指を矢から離した瞬間のスピード。それが張った弦のを支えるための筋力の重要さを如実に表していた。そのため、ゴムを半永久的に引き続けた私の筋肉というものは、意図しない形で力を蓄えていたのである。たまらないことだ。弓道の数日が報われた瞬間である。
 ただ自分の懐かしい思い出を吐露したような実感である。これが、はたして三日坊主への言い訳に使えるのかは不明である。胸の底では、自分の言葉に失笑を禁じ得ない。
 もう一度、自分の意見を述べよう。三日坊主で培った縷々とした知識や経験というものは、本人ですら意図しないときに開花するのである。今、読むのを辞めた本があろうか。今、書くのを諦めた小説があろうか。今、半端に手を伸ばしてしまい、中途半端になっているものがあるか。私が胸を張って言おう。捨てても構わない。だが、忘れてはいけない。いつの日か、本人ですら忘却しているそれらの知識や経験が最高の形で実ることを。
 
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