多様性について

文字数 902文字

 多様性、という言葉が、個人的には苦手なものである。
 それは違う人種、文化、宗教を認めないという排他的な考え方ではない。ただ、先日まで露骨に嫌そうにしていたくせに、今の時代は多様性を重んじるんだ、とか時代の変化を言い訳にして、周りに流されている人たちが苦手なのだ。
 今日、多様性、多様性と叫んで、急速に世界で変化が起こっている。瞬く間に風向きが変わっている。それはよいことであろう。ゲイだとか、人種だとか、そんな不変の事実で日陰に追いやられている人を、全員とは言い切れないけど、救われ始めている。それに異論など全くない。でも、救われている人の裏で、石を投げられている人がいるが現実だ。それが、今でも自分を貫いて、差別の心を持つ人たちである。
 彼らが正しい、と私は思わない。むしろ間違っている、と心から意見を言える。だが、彼らが差別されていいとも思わない。それが、多様性というものだと、私は思うのだ。差別する人も、同性を愛する者も、四肢が無くなっている人も、みな平等。これが本来の多様性だと思っている。だが、実際、一言でも他人を中傷すれば、それがたちまち広がり、発言者の人権は一気に失われる。多様性など、あったものでない。
 人種差別を絶対に許さない人が、人種差別者を全力で咎めるのは理解できる。それは他も同じである。体に欠損を持っている人を揶揄うのを許さない人。性別で区別する人を許さない人。全て、私は理解している——もっとも、無知だから理解していると思い込んでいるだけだが。しかし、多様性を訴えている人は、誰も咎めてはいけないだろう。差別するのもまた、多様性の人間の一人だ。いかに、その人の考えが歪だろうと、多様性の枠組みから外れることは無い。
なのに、今の時代、多様性の象徴だとオリンピックを使ってまで表現している。
 多様性で得られるものなど、うっすい理解と世を理解していると酔狂になる無学の人だけだろう。そして、その代償として、長年の伝統が少しずつ、消え去っていくのだろう。
 もっとも、私は、データも一切持たず、いわば妄想だけで語っているのであり、何か行動を起こそうとも思っていない、世の外れ者である。
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