言葉で人を救う方法

文字数 2,868文字

 一年ぶりの投稿。
 前に投稿したのはクリスマスイブの時だったのか。まったく記憶にない。意識してみても、前のような言葉遣いにならない。賢そうな言葉が頭に浮かばない。一年の怠けが、こうして私に降り注ぐ。甘んじて受けよう。そして精進しよう。
 初めから言い訳を準備してきた。今回は思いついたのではない。なんとか頭を捻っているだけだ。裏切りである。自分に対しての。時間が私をゆっくりと裏切らせる。

 さて、今回は「言葉で人を救う方法」と、なかなか重そうなテーマを選んできた。重そうなテーマを重いまま語ることの難しさは、一度でも作品を作ったことがある人なら理解できるであろう。楽しいものを楽しいまま、苦しいものを苦しいまま。そのまま伝える難しさは挑んだものしか分からない。私のように退屈なものを退屈なまま作る人は山ほどいるみたいだが。
 不幸な人。これは漠然としすぎている。もっと定義を狭く捉えなければ。つまり、その、難しいな。私は幸せ者なのかもしれない。不幸な人と想像すると、決まってありふれた可哀想な人を思い描く。それはドラマのような、親から虐待され、居場所がなく、泥水を啜って生きている人。そんな人を想ってしまう。私は想像力のないバカだ。本物の不幸者は、きっと私と同じような身なりで、私よりもまともな職をつけているはず。きっとそうだ。だから不幸者なんだ。
 幸福を論じるつもりでない。私にそこまでの学力はないからだ。ひげを伸ばして偉人ぶれるほど、私の頭は聡明ではない、バカはすぐに自分の都合で世を語る。

 不幸な人は、外見から判断できるものではない。それだけは確信している。伸びきったシャツを着て、肌は炭がこびりついており、体の骨が透けて見える、そんな人が自分は幸せなんだと言っても、大抵の人は疑う。それなのに、不幸せだと言うもんなら、涙を流して同情する。おかしいな。外見というものは内面に勝るものなのか。幸か不幸かはダイスが決める。何をしゃれっぽい言葉を吐こうと頑張っている自分よ。それは違うだろ。境遇はサイコロで決まるが、肯定感というものは本人依存だろ。他人じゃ計れない。

 ダメだ。逸れ始めてきている。戻せ。私が語りたいことは人を救うための方法だ。不幸な人間に蜘蛛の糸を垂らして、それにしがみつかせる方法を考えたいんだ。天へと渡るための蜘蛛の糸に気づいても、登ることを諦めた人を動かす方法だ。これは難しい。這い上がれば天へ行けると信じ切っている人は、実際に天へ昇った人だけだ。つまり、幸せになる方法を知るには、実際に幸せになるしか他にない。矛盾だ。何を言っている。本当にそうだから。努力が報われることを知っている人は、努力して報われた人だけだ。私が焦点に当てたいのは、努力が報われなかった人だ。努力に平気で裏切られた人だ。この人たちは恐ろしいくらい頑固に絶望している。なかなか思い通りにいかないことに苦しみ、成功している人を妬みながらも羨ましがる。だからだろう。彼らには成功者の声というものは届かない。絶対に。学校で、九十点という高得点を取った人が、六十点という平均点を取って凹んでいる人に「がんばったじゃん。すごい、すごい。めっちゃ賢い。えらいよ」なんて言われて、誰が喜ぶものか。職場で自分よりも何倍も高給取りな人から、「お前はすごいよ。だいじょうぶ、だいじょうぶ。いつか絶対に良いことが起こる」そんな言葉が響き渡って、よし明日からも頑張ろう。前を向いて進もう、なんて、誰が沸き起こるものか。中には明るくなれる人もいると思う。でも、それはその人はすでに九十点、ないしは高給取りの立場にいるからなのだ。自分でも気が付かないうちに。それが幸福だと、私は思う。ちょっと、いや、かなり分かりづらいな。点数や給料という幸福なのだ。自分よりも恵まれた人の言葉というものは、それが真実であったとしても、なかなか受け入れづらいものなのだ。それが不幸な人の可愛いところであり、決して救われないところ。
 不幸な人が幸せそうな人からの励ましが無意味だとすると、何が彼らを支えているか。こっから、いや、最初っから私の戯言であるが、とにかく、こっからは完全に私のつたない想像の上での考察である。ようは、嘘だけで作られた考えだ。

 不幸な人を救う唯一の方法は、彼らよりも不幸な人が彼らを励ますことだ、そう私は考えている。六十点の人が少しでも幸せに満たされるには、三十点の人が「六十点ってすごいじゃん。わたしなんて三十点だよ、三十点。ほんと、あなたは頭いいんだね」そう言ってくれることだ。自分よりも優れた人に慰められて満たされる人は、意識的にしろ、無意識にしろ、前を見て歩いている人たちである。そんな人にかける言葉は何もない。彼らは幸せに明日を見つめているのだから。不幸な人は対照的に、自分よりも劣っている人に慰められることが必要なのだ。証拠も論文もあったものではない。明らかに、私の世間から逸脱した恥ずかしい思案である。幸せと不幸の境界線は不明だ。それもそのはず。前に書いたように、自分を肯定できるかどうか、それが幸福に直結する。それを認められるのは本人の他にいないのだから。
 言葉で人を救う方法。ここまで来たら、それは単純明快だ。救いたい人よりも、自分がずっと不幸になればいい。ここで、励まそうと思って「私だって、あなたよりもっと不幸なんだから」そんな言葉を吐いてはいけない。どれだけ自分が不幸せに感じても、人というものは外見で判断する。ボロボロの人を見て、彼らがいかに幸せだと自分で感じていても、見ている人からしたら可哀想だと思うように。つまり、相手に気づかせるんだ。目の前に、自分よりも不幸な人がいるんだぞって。遠くてはいけない。アフリカの貧しい現状を見て、自分よりも不幸そうだ、自分もがんばろう。そう思い立つ人の少なさが物語っている。あぁ、まとめられない。つまり、救いたい相手に親近感が湧くような親しさを抱かせながら、なおかつその人よりも不幸な風貌をみせる。それで初めて、自殺が頭によぎるほど思いつめられた人を心から救うことが可能になるのだと思っている。まったく、不可能な話だ。数学ができない人に、私の国語はあなたの数学よりも悪いわ、なんて言っても意味はない。その人よりも数学ができなくなって、それから、一緒に頑張ろうって、そう声をかけて初めてその人は蜘蛛の糸に手を伸ばすのだ。不幸になれと言っているのではない。そこを勘違いしてはいけない。不幸なフリを演じきれと言っているのだ。自分は幸せだと信じて、幸せなフリをして周りと付き合っても満たされることはない。意識ひとつで幸せになれるほど、私たちも単純ではない。


追記:読み返して見えると、顔が真っ赤になるほど恥ずかしくなった。なにが言いたかったんだ私は。けど、あくまでも「思いつき」だ。自信はないけど、フリをしよう。誰か、私よりも恥ずかしい小説を投稿して、私を満たしておくれ。この作品が、誰かの恥ずかしさを助けるように。
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