第1話
文字数 1,900文字
「頼朝さまは、なぜわたくしをお助けくださったのでしょうか」
天叢雲剣 とともに海に沈んだとされている安徳天皇は、あるとき、訪ねてきた源頼朝にそう問いかけた。
「どうぞ頼朝とお呼び捨てくだされ。御身 のことは、これより姫とお呼びいたそう」
頼朝の言葉に、安徳天皇ーー姫は、思慮深い面持ちでゆるりと頭 を振る。
「なりませぬ。恩あるおかたをそのような」
誠実そのものといった姫の応えに、頼朝はわれ知らず目を細める。
秘密裏 に姫を手許に囲うことを決めてから、短くはない年月が過ぎていた。足繁くというわけにはいかぬが、人目を忍んでたびたび通ううち、姫は健やかに、よりうつくしく、たおやかな娘へと成長していた。
男であれば、おそらく後世に名を残す賢帝となったであろう。
「姫をお助けしたのはわたしではなく、御身を加護する天叢雲剣のご意志」
頼朝は、梶原景時からもたらされた逸話を話して聞かせる。
「光る、蛇」
姫の顔が驚きに満ちる。
「お心当たりがおありか」
「海のなかで、そのようなものを見ました」
「なれば真実、御身には天叢雲剣のご加護がはたらいておられる」
「天叢雲剣のご加護……」
「いかがなされた」
「ですが、いまのわたくしはもう、なにも持たぬ身。ご加護をいただくような身分ではございません」
「神仏の加護は位ではなく、そのお人柄に顕 れるもの。僭越 ながら、御身にはその資質が存分にあられるとお見受けいたす。それに、御身の貴 さは生涯変わることはござらぬゆえ」
うつくしい顔 をもの憂げに曇らせる姫を眺めながら、その清らかな心の在り方に頼朝は深く感じ入った。頼朝が庇護して以降、姫はおのれの境遇を嘆くことはただの一度もなく、頼朝が献上するさまざまな貢物のほとんどを丁重に断り、なかでも必要なものだけを受けとると、心からの礼を尽くす。これほどまでに清らかな心根の持ち主がおられるものかと、頼朝は姫をまえにするたび新たな驚きと感嘆に満たされるのであった。
源氏一族の棟梁となり、着実に足場を固めて高みへとのぼりゆく頼朝は、つねに一族郎党の命をその肩に背負い、わずかでも気を抜くことは許されぬ立場であった。そのなかで、姫と語らうわずかなこのときだけが、唯一息をつけるやすらぎとなっていた。
さらに月日は流れて、ときは1197年。
入内 させようと奔走していた、頼朝の娘である大姫が世を去った。これにはさしもの頼朝も堪 え、うちひしがれた。かつて頼朝自らが命じた仕打ちにより、心を病んだ大姫である。
「大姫さまは、お気の毒なことでございました」
気がつくと頼朝は姫のもとを訪ねていた。憔悴 しきった頼朝の心中を察してか、姫はそれだけを告げると、あとはただ静かに頼朝のそばに寄り添う。その温もりを求めるように、頼朝ははじめて会った幼い安徳天皇を抱きあげたとき以来、ふたたび姫へと手を伸ばした。姫はそれを拒むことなく、嵐のごとく荒れ狂う頼朝をその身に受けとめた。
「さぞやわたしをお怨みであろう」
床に伏した姫は、苦渋に満ちた表情でつぶやく頼朝に、微かに笑みを浮かべて応える。
「いいえ。わたくしはどなたさまのことも、お怨みなどいたしませぬ」
「なにゆえに」
「ひとにはそれぞれ、なさねばならぬことがありましょう。どなたさまをお怨み申しても致し方のないことにございます」
青白い顔をして、それでも清らかさをうしなわない姫の姿に、頼朝はいっそうおのれの罪深さを知る。
頼朝の子を宿した姫は、月を満たずに子が流れ、それがもとで床に伏すと、やがて息を引き取った。大姫に続き、掌中 の珠 をうしなった頼朝であった。
それからしばらくして、今度は頼朝が病に倒れた。そのまま姫のあとを追うようにして生涯を閉じる。死因については定かでない。安徳天皇の祟りともいわれている。
かつて八岐大蛇 の尾から出 で、めぐりめぐって熱田神宮の御神体となった天叢雲剣を取り戻すため、幾 たびもひとの姿へと転生したオロチは、安徳天皇の代でようやく剣 をその手に取り戻した。あるいは、平清盛の請願により厳島明神 が化生 した姿が、じつは安徳天皇であり、剣とともに海の底へと戻ったのではないかともいわれる。
天叢雲剣は持ち主を選ぶ剣である。天智天皇(中大兄皇子 )の代に盗難に遭った剣は自らの意志でもとの場所へと戻り、続く天武天皇(大海人皇子 )が盗難を恐れて剣を宮中へ移動させると、その祟りにより天皇は病に倒れて身罷 る。
天叢雲剣の本体を目にした者は祟られて命を落とすといわれている。
最後に、天叢雲剣を御神体とする熱田神宮は、源頼朝ゆかりの場所である。熱田神宮大宮司・藤原季範 の娘・由良御前が源頼朝の母であった。
「どうぞ頼朝とお呼び捨てくだされ。
頼朝の言葉に、安徳天皇ーー姫は、思慮深い面持ちでゆるりと
「なりませぬ。恩あるおかたをそのような」
誠実そのものといった姫の応えに、頼朝はわれ知らず目を細める。
男であれば、おそらく後世に名を残す賢帝となったであろう。
「姫をお助けしたのはわたしではなく、御身を加護する天叢雲剣のご意志」
頼朝は、梶原景時からもたらされた逸話を話して聞かせる。
「光る、蛇」
姫の顔が驚きに満ちる。
「お心当たりがおありか」
「海のなかで、そのようなものを見ました」
「なれば真実、御身には天叢雲剣のご加護がはたらいておられる」
「天叢雲剣のご加護……」
「いかがなされた」
「ですが、いまのわたくしはもう、なにも持たぬ身。ご加護をいただくような身分ではございません」
「神仏の加護は位ではなく、そのお人柄に
うつくしい
源氏一族の棟梁となり、着実に足場を固めて高みへとのぼりゆく頼朝は、つねに一族郎党の命をその肩に背負い、わずかでも気を抜くことは許されぬ立場であった。そのなかで、姫と語らうわずかなこのときだけが、唯一息をつけるやすらぎとなっていた。
さらに月日は流れて、ときは1197年。
「大姫さまは、お気の毒なことでございました」
気がつくと頼朝は姫のもとを訪ねていた。
「さぞやわたしをお怨みであろう」
床に伏した姫は、苦渋に満ちた表情でつぶやく頼朝に、微かに笑みを浮かべて応える。
「いいえ。わたくしはどなたさまのことも、お怨みなどいたしませぬ」
「なにゆえに」
「ひとにはそれぞれ、なさねばならぬことがありましょう。どなたさまをお怨み申しても致し方のないことにございます」
青白い顔をして、それでも清らかさをうしなわない姫の姿に、頼朝はいっそうおのれの罪深さを知る。
頼朝の子を宿した姫は、月を満たずに子が流れ、それがもとで床に伏すと、やがて息を引き取った。大姫に続き、
それからしばらくして、今度は頼朝が病に倒れた。そのまま姫のあとを追うようにして生涯を閉じる。死因については定かでない。安徳天皇の祟りともいわれている。
かつて
天叢雲剣は持ち主を選ぶ剣である。天智天皇(
天叢雲剣の本体を目にした者は祟られて命を落とすといわれている。
最後に、天叢雲剣を御神体とする熱田神宮は、源頼朝ゆかりの場所である。熱田神宮大宮司・