第5話 ショートホープ

文字数 1,472文字

 幼少期、俺はお盆になると親に父方の祖父母の家に連れていかれていた。祖父母の家は山奥にあって周囲は緑と虫に囲まれていた。
 爺ちゃんはよく縁側に座って煙草を吸っていた。蚊取り線香と爺ちゃんの煙草の煙が煙たかったのをよく覚えている。
 「なぁ芳孝、お前クジラを見たことがあるか?」
 「クジラ?見たことないなー。爺ちゃんはあるの?」
 「俺はあるぞ。畑を耕していたら、こぉんなおっきいのが目の前を泳いでたんだ。良いだろう」
 爺ちゃんは両手を目一杯広げて自慢していた。その目はとても年配とは思えないような、少年のようにキラキラしていたものだった。俺はその自慢話を何故かよく鮮明に覚えていた。爺ちゃんとの最後の夏だったからだろうか、よく分からないがふとした時によく思い出すのだ。
 それから俺が中学に上がってからそれとなく祖父母の家に寄り付かなくなっていった。爺ちゃんとはそれっきり会わなくなった。

 それから何年も経って俺は社会人になって平凡な人生を歩んでいた。しかし、不幸っていうものは急に立て続けに訪れるもので俺から平凡な日々というものが奪われていった。パンデミックの流行による不景気のせいで俺の会社は倒産してしまった。それから長年付き合っていた、そろそろ結婚するんだろうなと思っていた彼女に振られた。
 それを機に俺は廃人のような生活を送っていた。手元に残ったのは結婚に向けて貯めてきた金と煙草しかなかった。
 そんな中、親父から一通の訃報のハガキが来た。長年会っていなかった爺ちゃんが亡くなったらしい。俺は爺ちゃんが死んだことに何とも思わなかった。ただ淡々と喪服の用意をしてあの山奥の祖父母の家に向かった。

 爺ちゃんは98歳まで生きた。大往生したと言っても過言ではない。瞳を固く閉じて、白い着物を着ていた爺ちゃんはあの時のままで、まるでただ寝ているだけのようにみえた。爺ちゃんが死んだなんてまだ信じられないような感覚だった。それでも、俺は目の前の線香を見て現実を受け入れるしかなかった。
 爺ちゃんはたくさんの人に愛されていたのだろう。葬儀に訪れたたくさんの人々のどんよりとした空気が天にも通じているようで空気がじめついていて喪服は暑く気持ちが悪かった。
 ただ、俺の中の爺ちゃんはいつでも煙草を吸って笑っているようなイメージだったからこの空気が違和感でしかなかった。
 なぁ、爺ちゃんだって最期くらい和やかな見送りが良いんじゃないのか?
 俺は柄にもなくそう思ってしまった。
 葬儀も終え、お骨を墓に収める時間になった。骨を祖母ちゃんが泣きながら抱きかかえていた。相変わらず空は曇天で湿っぽい空気が流れていた。
 
 「これは男と男の秘密の話だ、誰にも言ってはいけない、内緒だぞ」
 「うん」
 「そのクジラはなぁ、どうやら畑から墓場に向かう途中に生息している。それに、そのクジラは恥ずかしがり屋だから滅多に見れないんだが、機嫌がいいと姿を見せてくれる。まぁ、爺ちゃんはそのクジラと仲良しだから今度芳孝にも見せてやるよ」
 俺はあの時の爺ちゃんとの会話の続きを思い出した。
 
 納骨が終わって祖父母の家に戻ろうとした時だった。空に晴れ間が覗いて、そこには確かに「クジラ」がいた。
 まるで爺ちゃんがあの時の約束を果たしてくれた気がした。優雅に空を泳ぐクジラに俺は思わず、爺ちゃんもよく吸っていたショートホープに火を点け、クジラに煙をかざした。
 それはまるで潮を吹いているクジラの姿のようだった。

 「爺ちゃん、俺もクジラ見れたよ。約束、ありがとうな」

※たばこは20歳になってから。
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