第1話

文字数 1,992文字

 身に覚えのない疑いをかけられたことがある。

 ずっと昔の、まだ若い頃のことだが、私はとある司法書士事務所でアルバイトをしていた。預かった事務所の現金で用事を済ませ、その残金(せいぜい数百円だったと思うが)をすぐに返さねばならなかったのだが、これをうっかりしてしまったのだ。

 もちろん指摘されてすぐに返却したのだが、私は「小遣いをちょろまかす、どうしようもない子」の烙印を押されてしまった。言い訳は一切認められず、他の仕事への態度までことごとく否定され、私はまもなくその事務所をクビになった。
 その司法書士の先生にだって言い分はあるだろうし、まだろくに仕事もできず、信用を獲得していなかった私は、もっと慎重に振舞わねばならなかったのだろう。
 しかしこの時の悔しさたるや、簡単に忘れられるものではなかった。今でもこれは理不尽な思い出として私の奥底にくすぶっている。

 とっくに忘れた(はずの)その痛みを鮮烈に思い出させてくれたのが、今回読んだ小栗さくら氏の「恭順」である。
 痛みと書いたが、決して不愉快ではなく、むしろ読後感は爽快。理不尽な疑いをかけられてもなお、人々が誠意を貫く様が描かれているからだろう。

 物語は、幕末の江戸城大広間に始まる。旗本の小栗上野介(こうずけのすけ)忠順(ただまさ)が評定の場で将軍・徳川慶喜を怒鳴りつけている。
 いきなりの緊迫した場面だ。

 平時なら主君に無礼な態度を取れば命が危うくなるというものだが、今は戦の真っただ中。忠順は薩長に勝てると踏んで徹底抗戦を訴えているのだ。
 しかし将軍は聞く耳を持ってはくれず、袴をつかんだ忠順の手は冷たく振り払われる。それは小栗忠順が、政敵・勝海舟に負けた瞬間であった。

 さてこの物語の主人公は、そんな忠順の養嗣子となった又一(またいち)忠道(ただみち)。二十一歳の若者である。

 由緒ある旗本、小栗家の跡取りとなった又一は、自身も講武所の歩兵指図役頭取を務めるだけあって、れっきとした武闘派だ。
 しかしそうであればこそ、言葉の少ない義父は近寄りがたい存在で、その心中はなかなか理解できない。先日の評定の経緯さえ、実家の父に聞いてようやく知る有様だ。

 忠順が罷免されたため、小栗家は江戸を離れ、知行地に土着することになる。
 そこで駕籠や荷車を仕立てた一行は、寒々とした上州権田(ごんだ)の地へと足を踏み入れるのだが、待ち受けているのは眼光の鋭い、貧しい農民たち。幕閣の中枢にいた小栗家は、民衆から憎悪を向けられる対象なのだ。

 優れた場面描写が、寂れた宿場町や農村の風景をくっきりと見せてくれる。砂埃の交じる風を感じるほどリアルだ。

 また主人公・又一のキャラクター描写・心理描写が、歴史小説ならではの合戦シーンと組み合わせてあるのも見どころである。
 というのも、この直後にやはり暴徒たちが襲ってくるのだ。小栗家は話し合いでの解決ができず、応戦せざるを得なくなるが、忠順の優れた策と又一の武勇が功を奏して圧倒的勝利を収める。

 しかし若い又一は、ここで自分たちはまだ徳川家を守れると感じてしまう。今からでも江戸に戻り、薩長と戦うべきだと主張する又一に対し、忠順は何も語らず田舎に隠棲しようとする。二人が決裂するまでの流れは、若者の苛立ちが見事に表現された箇所と言えるだろう。

 しかしそんな又一も、次第に考えを改めていく。
 用水を引いたり学校を作ったりと、権田村のために尽くす父を見て、その真意が沁みるように理解できたのだ。これまで心血を注いできた幕府の製鉄所も、ただ薩長に明け渡したわけではなかった。その担い手を変えることになっても、人材さえ育てば必ずこれからの日本の礎となると思えたのだ。

 しかし非情にも、新政府は小栗家に兵を向けてくる。戦の支度をし、反逆の企てをしているという疑いをかけられたのだ。

 又一は自分が人質となり、総督府へ弁明に向かうことを承諾する。そこに死の匂いを感じていながら、彼が許嫁の鉞子(よきこ)にかけるプロポーズの言葉。この時代の侍らしく淡々としているが、小栗家のたどる結末を知る読者にとっては限りなく切ない場面だ。

 それにしても、この親子は私よりずっと聡明である。この理不尽を少しでも覆せなかったかと、胸をかきむしりたくなってしまう。
 しかしこの作品は、単なる自己犠牲の物語ではないのだ。父はアメリカから持ち帰った螺子(ねじ)を息子に手渡すが、これこそが小栗家の思い。本物の誠意の象徴なのである。

 上野介忠順を取り上げた評伝・小説は数多く、歴史上の人物としてすでに一定の見直しは行われている。しかしこの作品ではあえて息子の視点で描くことで、その生きざまをよりはっきりと浮かび上がらせた。

 華やかなタレントである作者のイメージそのままに読み進めると、良い意味で裏切られるだろう。スピード感あふれる筆致で幕臣の運命を追いつつ、美しいヒューマンドラマに仕上げるその筆力に圧倒されるのである。
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