第2話
文字数 1,856文字
研修はなにも頭に入らなかった。あえて覚える必要もない、当然のことが説明されるだけのVTRだった。
薄暗い事務所の中で、時計の文字盤が誇らしげに光るのが分かった。4月から働く会社は大きな自社ビルを持っていて、同期も優秀な人ばかりだ。警備員のバイトで働くことなど思いもよらず、歯牙にもかけない奴だっているだろう。
職業に貴賤はない。でも、僕はどうしてここにいるんだろうと、思わずにいられなかった。近くで小太りの男がせわしなくメモしていた。
警備員が大変なのは、現場に立ってすぐに分かった。
屋内の見本市で微動だにせず立ち続けると、腰がすぐに悲鳴を上げた。歩き回る勤務では、膝や踵が音を上げた。オイシイと思った音楽バンドのライブ会場の警備も、太った女の子が目の前で「結婚して~!」と絶叫するのを見て、必死に奥歯で笑いをかみ殺した。
不思議だったのは、僕よりもはるかに年をとったお爺さんたちが、立派にこの労働をこなしていることだった。控室ではキツそうな表情で、寂しくなった頭をタオルで拭っている。そんな彼らが、帽子をかぶって一歩外に出ると、表情を殺して風景に溶け込むのだった。
イベントに来る人たちは、彼らに目を止めることもなければ、彼らの人生について考えることもないだろう。僕はそう思った。それをさせないことが警備員の職務なのだ。
僕が叱られたのは、三度目の勤務だった。
「片足に体重をかけてちゃダメだ。もっとピシッとしなさい」
控え室に上がって早々、隣のブロックを受けもったお爺さんが言ってきた。僕は面食らって「すみません」と謝りながら、人に叱られるのはいつ以来だろう、と清々しかった。
勇気あるその人は、同じバイトのお爺さんだった。休憩が開けてから、僕はこっそりその立ち姿を見やった。両足の踵をくっつけて、顔を規則的に振っては周囲を見守っている。機械的で、あえて例えると扇風機みたいだった。僕は舌を巻いた。
「えらいなあ」
サイズの合わない帽子にギュウギュウ締め付けられた頭で、そう考えた。いま、あの人は警備員なのだ。娘と反りが合わないとか、生活費が年金じゃ足りないとか、腰が痛いとか、きっと、そういう色々な問題を控室に置いてきて、あの人は警備員なんだと思った。
お爺さんは、川田さんと言った。勤務が終わった後、「さっきはありがとうございました」と声を掛けると、案外気さくに話してくれた。
四十歳まで働いた会社が倒産して以来、仕事を転々とした。警備員に行き着いたのは五年前。「あまり人と関わらないから楽なんだ」と言って笑った。こけた頬にえくぼできて、妙に愛嬌がある。
「君は若いんだから、こんなとこでいつまでも働いてちゃダメだ」
黄色い歯がのぞく。じゃあ、どうしてご年配のあなたが、こんな体力勝負の現場にいるんですか。そう聞くより先に、川田さんが僕の左腕を見て口を開いた。
「あれ、良い時計だね」
「え、分かりますか。ありがとうございます」
「うちの実家が時計屋だったんだ。昔のこととは言っても、良い時計と悪い時計の見分けくらいは付くさ」
「へぇ。どうやって分かるんですか」
思いがけず会話が弾んで、僕は少し嬉しかった。この人なら尊敬できそうだった。
「上手く言えないなぁ」
川田さんは困っていた。
「オーラとか、威圧感みたいなものなんだ。良い時計さえしていれば、人の視線は、」
川田さんは右目の前で人さし指を立てて、そこから僕の腕時計をトンと優しく叩いた。
「自然と集まるものなんだ。良い時計をするのは大事だよ。付けている人も『見られている』って感じるから、自然と姿勢も整う」
僕は川田さんの左腕を見た。黒い皮ベルトの、薄い時計だ。金のギリシャ数字が細かく刻まれている。「親父の形見だよ」と、川田さんは照れくさそうに教えてくれた。
大学最後の夏を、僕はひたすら読書にあてた。就職先はテレビ局の記者だった。僕は「ものが書ければ何でもいい」と考えていた程度で、本心ではジャーナリズムに共感していなかったと思う。だから、思った以上に誇り高い職に内定し、むしろ戸惑っていた。
お金をためる必要もなく、彼女をつくる見込みもないまま、ただ時間が流れた。時間を殺すためだけにバイトの予定を入れていた。
「いつも、助かるね」。急な仕事も断らない僕に、社員は時々媚のある猫なで声を使った。すべて滑らかに過ぎてゆく僕の今の生活では、それだけがちょっと不快だった。
薄暗い事務所の中で、時計の文字盤が誇らしげに光るのが分かった。4月から働く会社は大きな自社ビルを持っていて、同期も優秀な人ばかりだ。警備員のバイトで働くことなど思いもよらず、歯牙にもかけない奴だっているだろう。
職業に貴賤はない。でも、僕はどうしてここにいるんだろうと、思わずにいられなかった。近くで小太りの男がせわしなくメモしていた。
警備員が大変なのは、現場に立ってすぐに分かった。
屋内の見本市で微動だにせず立ち続けると、腰がすぐに悲鳴を上げた。歩き回る勤務では、膝や踵が音を上げた。オイシイと思った音楽バンドのライブ会場の警備も、太った女の子が目の前で「結婚して~!」と絶叫するのを見て、必死に奥歯で笑いをかみ殺した。
不思議だったのは、僕よりもはるかに年をとったお爺さんたちが、立派にこの労働をこなしていることだった。控室ではキツそうな表情で、寂しくなった頭をタオルで拭っている。そんな彼らが、帽子をかぶって一歩外に出ると、表情を殺して風景に溶け込むのだった。
イベントに来る人たちは、彼らに目を止めることもなければ、彼らの人生について考えることもないだろう。僕はそう思った。それをさせないことが警備員の職務なのだ。
僕が叱られたのは、三度目の勤務だった。
「片足に体重をかけてちゃダメだ。もっとピシッとしなさい」
控え室に上がって早々、隣のブロックを受けもったお爺さんが言ってきた。僕は面食らって「すみません」と謝りながら、人に叱られるのはいつ以来だろう、と清々しかった。
勇気あるその人は、同じバイトのお爺さんだった。休憩が開けてから、僕はこっそりその立ち姿を見やった。両足の踵をくっつけて、顔を規則的に振っては周囲を見守っている。機械的で、あえて例えると扇風機みたいだった。僕は舌を巻いた。
「えらいなあ」
サイズの合わない帽子にギュウギュウ締め付けられた頭で、そう考えた。いま、あの人は警備員なのだ。娘と反りが合わないとか、生活費が年金じゃ足りないとか、腰が痛いとか、きっと、そういう色々な問題を控室に置いてきて、あの人は警備員なんだと思った。
お爺さんは、川田さんと言った。勤務が終わった後、「さっきはありがとうございました」と声を掛けると、案外気さくに話してくれた。
四十歳まで働いた会社が倒産して以来、仕事を転々とした。警備員に行き着いたのは五年前。「あまり人と関わらないから楽なんだ」と言って笑った。こけた頬にえくぼできて、妙に愛嬌がある。
「君は若いんだから、こんなとこでいつまでも働いてちゃダメだ」
黄色い歯がのぞく。じゃあ、どうしてご年配のあなたが、こんな体力勝負の現場にいるんですか。そう聞くより先に、川田さんが僕の左腕を見て口を開いた。
「あれ、良い時計だね」
「え、分かりますか。ありがとうございます」
「うちの実家が時計屋だったんだ。昔のこととは言っても、良い時計と悪い時計の見分けくらいは付くさ」
「へぇ。どうやって分かるんですか」
思いがけず会話が弾んで、僕は少し嬉しかった。この人なら尊敬できそうだった。
「上手く言えないなぁ」
川田さんは困っていた。
「オーラとか、威圧感みたいなものなんだ。良い時計さえしていれば、人の視線は、」
川田さんは右目の前で人さし指を立てて、そこから僕の腕時計をトンと優しく叩いた。
「自然と集まるものなんだ。良い時計をするのは大事だよ。付けている人も『見られている』って感じるから、自然と姿勢も整う」
僕は川田さんの左腕を見た。黒い皮ベルトの、薄い時計だ。金のギリシャ数字が細かく刻まれている。「親父の形見だよ」と、川田さんは照れくさそうに教えてくれた。
大学最後の夏を、僕はひたすら読書にあてた。就職先はテレビ局の記者だった。僕は「ものが書ければ何でもいい」と考えていた程度で、本心ではジャーナリズムに共感していなかったと思う。だから、思った以上に誇り高い職に内定し、むしろ戸惑っていた。
お金をためる必要もなく、彼女をつくる見込みもないまま、ただ時間が流れた。時間を殺すためだけにバイトの予定を入れていた。
「いつも、助かるね」。急な仕事も断らない僕に、社員は時々媚のある猫なで声を使った。すべて滑らかに過ぎてゆく僕の今の生活では、それだけがちょっと不快だった。